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◆ 友を思う大谷吉継
石田三成は2002年の大河ドラマである「利家とまつ」においても秀吉の腰巾着として登場し、適
度なイヤミさを見せてくれていたわけですが、そんな彼にも、親友がおりました。それが大谷吉継
です。
吉継も三成同様に秀吉の臣として活躍しましたが、三成と違って、その働きは戦場においても大
いに目を見張るものがありました。秀吉をして、「百万の大軍を指揮させてみたい」と言わしめ
た名将です。そんな吉継と三成が親友であることを示すエピソードがあります。
■生涯の友同士の密談
それは関ヶ原合戦直前の出来事でした。
三成は、旧来からの友人として親しくしていた吉継を呼び、家康と決戦する決意であることを告げ
ました。
吉継は言いました。
「失礼ではあるが、貴殿が内府殿(家康のこと)と戦って勝てるとは思えぬ。治部殿(三成のこ
と)、思いなおしなされ。太閤殿下(秀吉のこと)が亡くなられ、内府殿の威勢は日々高まってお
る。若様(秀頼のこと)は、まだ若年ゆえ、一時内府殿に天下を預けるが上策じゃ。若様が
御成人あそばされても、内府殿が天下を豊臣家に返さぬようであらば、その時は内府殿と戦えば
よいではないか。」
しかし、三成は
「内府が一度政権を手にすれば、それを豊臣家に返すなど到底考えられぬ。刑部殿(吉継
のこと)、ここで内府をたたいておかねば、豊臣家に明日はないぞ!」
と言って譲りませんでした。
吉継はその後も何度か思いなおすように、三成に勧めましたが、三成の決心は固く、覆すことは
できませんでした。そして、とうとう
「わかった、貴殿の決意がそこまで固いのならば、わしも治部殿に御味方いたそう。」
と言ったのです。
ついに、吉継は勝てぬ戦と知りながら、三成へ味方することを決めたのでした。
しかし、実は吉継にはもうひとつ心配事がありました。それは自分の病気のことです。その時、
癩病に冒されていた吉継は、満足に三成の手助けをしてやれないと思い、心配していたのです。
こうして、三成に義理だてして西軍に参加した吉継は、病で歪む顔を白布で覆い隠し、平静を
装って大奮戦。しかし、最期は裏切り者の小早川秀秋に攻めたてられ、ついに自害して果て
たのです。
ちなみに小早川秀秋は、関ヶ原の二年後、吉継の亡霊に怯え、半狂乱になって狂い死にした
そうです。
…吉継怖ぇ。
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