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◆ 竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り作戦

竹中半兵衛は秀吉の軍師ですが、もとは美濃の斎藤氏に仕えていました。
その頃の半兵衛はまだ無名で、主君や他の家臣に侮られていました。半兵衛は柔和で色白の男
で、とても戦争で働けるとは思われていなかったのです。

■「ムシャクシャして乗っ取ってやった」
当時の斎藤家の当主は斎藤道三の孫にあたる龍興。
龍興はとことん半兵衛を侮り、半兵衛が登城する際に、門の所で、部下に小便をかけさせた
りしました。それで、さすがの温和な半兵衛もついにはキレてしまいます。
「おのれ…、城を乗っ取って目にもの見せてくれん…」
龍興の居城「難攻不落の稲葉山城」の乗っ取りを画策します。

半兵衛は、はじめ舅であり、斎藤家の家臣としては同僚でもあった安藤守就に助勢を求めまし
た。
「もはや龍興様の御戯れには我慢なりませぬ。城を数日乗っ取り、龍興様のなさりようを改めたい
と存じます。策がござりますゆえ、安藤様、ご助力願えませぬか」
しかし、安藤は、
「婿殿よ、龍興様の御戯れが腹に据えかねているのはようわかる。されど、そなたがやろうとして
いるのは謀反に他ならぬではないか?謀反たる企てに加担するわけには参らぬ。」
と言って、はじめ首を縦には振らず、半兵衛は思いとどまるように説得されました。
しかし、半兵衛の決意は固く、「どうしてもやる」と言うので、安藤も「そこまで言うなら…」というこ
とで、協力することにしました。
実際には半兵衛が実行し、安藤は手勢をもって後押しするというものだったようです。

結果、半兵衛は、夜陰に紛れつつ謀略を用いて、わずか十六人ほどの手勢で稲葉山城を乗っ
取ってしまったのです。

これには龍興も弱り果て、恥も外聞もなく、謝罪するしかありませんでした。
半兵衛は、城の乗っ取りに成功したのに満足して、謝罪を受けるとあっさり城を返還してしまい
ました。しかし、近江に隠棲し、斎藤家への出仕はしなくなったのです。

ちなみにこの稲葉山城、信長が攻め落とすのに、数年を要している堅城でした。
内部の者とはいえ、わずか十六人で難攻不落の名城を落とした半兵衛はやはり知恵者といえる
でしょう。


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■石田三成関係書籍


◆ 秀吉と三成の出会いは「三杯の茶」  さりげない部分でも才能をアピールできるのだ。

石田三成といえば、秀吉の子飼いの参謀として有名ですが、彼はもともと寺の小坊主で、佐吉と
いいました。

■飲む人のことを考慮して茶の温度調節
ある日、鷹狩に出た秀吉は、休憩しようと佐吉が修行をしていた寺に立ち寄ります。そこで、和尚
と雑談をしていると、小坊主が茶を持って現れました。のどの乾いていた秀吉はその茶をぐいっ
と飲み干しました。
茶はぬるいくらいで、非常に飲みやすかったのです。
秀吉は、「坊主、もう一杯所望致す」と言いました。すると佐吉は次はさっきよりも熱い茶を持っ
てきました。秀吉はこれも飲み干して「坊主、もう一杯だけくれい」ともう一度、茶を求めました。
そして次に佐吉が持ってきた茶は非常に熱く、お茶本来のものでした。

秀吉は、この喉の乾きに応じて、熱さを変えるという機転のきき方に感心し、和尚に「和尚、この
坊主俺にくれい」と言って、佐吉を譲り受けたのです。

お茶が身を立てたわけですなぁ。
余談ですが、結構理屈っぽい三成は、武功派の秀吉の子飼い武将たちとは仲が悪かったようで
す。

現代でもやってみましょう。契約先の会社でお茶を出されて、「もう一杯所望だ。」「もう一杯所望
だ。」って3杯飲んで、最後に「社長、この秘書わが社にくれい」。

「ダメ」で終わりですか。そうですか。


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石田三成のすべて
こちらは、三成に関する論文が多数収録されています。専門的に史学を勉強している方は、大いに参考になります。
石田三成
人物叢書シリーズは、研究家から愛好家まで幅広い支持を得ているシリーズです。史料で読み解く伝記です。
石田三成写真集
三成さん、アイドル級なので写真集もちろん出してました。すいません、未読です。多分、肖像画や史跡などの写真集だと思います。つい興味深かったので…。





◆ 関ヶ原後も再起を狙っていた石田三成

石田三成は関ヶ原の合戦で徳川家康に敗れ、捕らえられた豊臣家の官僚武将です。
もともと秀吉に見出され、秀吉に気に入られて出世しましたが、同僚たちには疎まれ、関ヶ原合戦
でも多くの武将に裏切られて負けてしまったのです。

三成は、捕らえられた後、斬首の刑となりました。京都六条河原での斬首となり、ここに護送され
ることになったのです。

■死の瞬間までは諦めない
護送中、三成は護送担当の兵に
「喉が乾いた。一杯さゆをくれぬか。」
と言いました。兵士は、
「…。では少しお待ち下さい。」と言って、さゆを探しに行きました。

しかし、さゆはみつからなかったため、干し柿を持ってきました。兵士は
「さゆはありませんでした。代わりに干し柿を持ってきたので、これでも食されなされ。」
と言って三成に渡そうとしましたが、三成は「干し柿はたんの毒だ。」と言ってそれを拒否しまし
た。

すると、兵士たちが
「今から死ぬというのに、そんな心配ごとは無用でござろう」
と言って笑いました。すると、三成はふっと笑い、
「大義を志すものは、最期の瞬間まで命を大切にし、本懐を遂げることを願うものだ」
と言いました。
兵士たちはこれを聞いて、黙り込んでしまったそうです。

関ヶ原合戦のあと、伊吹山中に農民の姿で潜伏するという
何気にセコい逃亡をしていたのも、大義を志していたからなんですかねぇ。

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◆ 友を思う大谷吉継

石田三成は2002年の大河ドラマである「利家とまつ」においても秀吉の腰巾着として登場し、適
度なイヤミさを見せてくれていたわけですが、そんな彼にも、親友がおりました。それが大谷吉継
です。

吉継も三成同様に秀吉の臣として活躍しましたが、三成と違って、その働きは戦場においても大
いに目を見張るものがありました。秀吉をして、「百万の大軍を指揮させてみたい」と言わしめ
た名将です。そんな吉継と三成が親友であることを示すエピソードがあります。

■生涯の友同士の密談
それは関ヶ原合戦直前の出来事でした。

三成は、旧来からの友人として親しくしていた吉継を呼び、家康と決戦する決意であることを告げ
ました。
吉継は言いました。
「失礼ではあるが、貴殿が内府殿(家康のこと)と戦って勝てるとは思えぬ。治部殿(三成のこ
と)、思いなおしなされ。太閤殿下(秀吉のこと)が亡くなられ、内府殿の威勢は日々高まってお
る。若様(秀頼のこと)は、まだ若年ゆえ、一時内府殿に天下を預けるが上策じゃ。若様が
御成人あそばされても、内府殿が天下を豊臣家に返さぬようであらば、その時は内府殿と戦えば
よいではないか。」
しかし、三成は
「内府が一度政権を手にすれば、それを豊臣家に返すなど到底考えられぬ。刑部殿(吉継
のこと)、ここで内府をたたいておかねば、豊臣家に明日はないぞ!」
と言って譲りませんでした。

吉継はその後も何度か思いなおすように、三成に勧めましたが、三成の決心は固く、覆すことは
できませんでした。そして、とうとう
わかった、貴殿の決意がそこまで固いのならば、わしも治部殿に御味方いたそう。
と言ったのです。

ついに、吉継は勝てぬ戦と知りながら、三成へ味方することを決めたのでした。
しかし、実は吉継にはもうひとつ心配事がありました。それは自分の病気のことです。その時、
癩病に冒されていた吉継は、満足に三成の手助けをしてやれないと思い、心配していたのです。

こうして、三成に義理だてして西軍に参加した吉継は、病で歪む顔を白布で覆い隠し、平静を
装って大奮戦。しかし、最期は裏切り者の小早川秀秋に攻めたてられ、ついに自害して果て
たのです。
ちなみに小早川秀秋は、関ヶ原の二年後、吉継の亡霊に怯え、半狂乱になって狂い死にした
そうです。

…吉継怖ぇ。


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◆ 優柔不断な小早川秀秋

関ヶ原の合戦で、西軍(三成)から東軍(家康)に寝返り、東軍勝利の要因を作った若造・小早川
秀秋。彼は並々ならぬ優柔不断人間だったようです。

■究極の催促は危険な賭け
秀秋は、合戦前家康に対して「東軍に寝返ります。」と言っていましたが、いざ合戦が始まる
と、「西軍が有利っぽいから、出撃は控えよう」と言い出しました。困った秀秋の家臣たちは、
秀秋を説得して早く東軍に参戦させようとしたが、秀秋はなかなか出馬しようとしませんでした。

ところが、もっと困っていたというか、それを通り越して怒っていた人物がいます。
徳川家康です。

家康は、「松尾山の小倅め(秀秋のこと)が動けば、勝敗は決するものを!あの小僧、何ゆえ動
かんのだ!」と怒り狂っていました。そして、ついに「ええい、小早川の陣に鉄砲を撃ちこんで
脅しかけてやれ!」と命じます。これは実は、結構危険な賭けでした。小早川秀秋が、これを攻
撃されたと勘違いして、約束をやぶって西軍につく恐れもあったからです。

■優柔不断な男、発狂
しかし、単純な秀秋は「内府殿が怒っておられる!かかれ、かかれ!目指すは西軍・大谷刑
部の陣だぁ!急げぇ!」と下知。ようやく東軍として参戦しました。小早川の裏切りを受けて西
軍は総崩れとなり、戦は一日で終わりました。

小早川秀秋は、戦後、岡山城などの二ヶ国を与えられましたが、二年後に発狂して死亡しまし
た。大谷吉継の亡霊に怯えていたそうです。

※小早川秀秋は西軍から東軍に寝返ったようによく言われますが、実はもともと東軍で、関ヶ原
直前にちょっと迷ったので、当日、なかなか出撃しなかったという説もあります。

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