■豊臣秀吉
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豊臣秀吉 とよとみひでよし 1536〜1598
天下一の”成り上がり”
秀吉は幼名・日吉、のち木下藤吉郎と名乗ります。父は、尾張の足軽・木下八右衛門とされています。
農民足軽の子だったわけですが、秀吉は織田家に仕えてから、その才能をもってめきめきと頭角をあらわし、出世を重ねました。信長の草履をふところで温めていたような下人が、織田家の方面軍を率いる大将にまでなったのです。
本能寺の変後、中国遠征から「中国大返し」と称される強行軍で、畿内に帰還。謀反人・明智光秀を討ち、織田家中での発言力を強めました。1583年にはかねてより不仲だった、織田家筆頭家老の柴田勝家を滅亡させ、さらにその後、天下統一目指して、各地の諸大名を屈服させていきます。そして、ついに1590年、小田原の北条氏を屈服させ、天下統一を完成させました。ところが、翌1591年に足軽時代から苦労を共にした、弟・秀長が死亡してしまい、落胆した秀吉の政治方針に、独裁的なものが見え始めてきます。
ついには朝鮮出兵などの愚策を実行し、民衆に不安の念を与えてしまいました。
1598年伏見城で薨去。秀吉の死により、朝鮮半島に渡っていた諸将は、全員帰還することになりました。

■豊臣秀吉簡易年表
年代 出来事 関連記事(下の記事にリンクしています)
1536 秀吉誕生
1554 信長に仕えるようになる(諸説あり)
1561 おねと結婚
1565 墨俣一夜城築城
1570 姉川の合戦で横山城を守備
1573 浅井・朝倉滅亡に功があり、北近江に所領を与えられる
1578 三木城の攻略に着手(中国地方方面軍を率いる)
1582 本能寺の変発生。秀吉は備中高松城攻めの最中だったが、
変を知り、ただちに講和して畿内へ向かう(中国大返し)
・木像の灰を信長の遺骨とした秀吉
1585 関白になる
1587 九州制圧
1589 淀殿、鶴松を産む
1590 小田原の北条氏を滅ぼし、奥羽も支配する。天下統一完成
統一後 身分統制令、人掃い令などで人民統率を強化 ・やっぱり怖い!秀吉、夢枕の信長をも恐れる!
秀吉の書状は宛字だらけ
1592 朝鮮に出兵開始(文禄の役)
1593 淀殿、拾丸(秀頼)を産む ・捨て子はダメだが拾い子はOK。秀吉の子の話
1597 再び朝鮮に出兵開始(慶長の役)
1598 伏見城にて没
年代不詳の逸話

■豊臣秀吉の家臣団

豊臣秀吉は、織田信長に仕えていた時から、持ち前の愛嬌と、巧みな話術で多くの優秀な家臣を従えていました。その中でも著名な人物を紹介します。興味深い人物がいましたら、関連記事も見てみてください。
人物名 一言解説 関連記事
竹中半兵衛 名は重治。秀吉が何度も請うて配下にした軍師。「今孔明」と呼ばれたほどの男。若くして病死する。 ・竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り作戦
蜂須賀小六 川浪衆という賊を率いていた国人領主。秀吉とは古い付き合い。
黒田官兵衛 秀吉が中国地方を攻め始めた時に降って来た、播磨の武将。のち軍師となる。秀吉に警戒されるほどのキレ者だった。
石田三成 「秀吉子飼い」といわれる文官。政治の才覚は抜群。のち、関ヶ原の合戦を引き起こす。 ・関ヶ原後も再起を狙っていた石田三成
秀吉と三成の出会いは「三杯の茶」
加藤清正 「賤ヶ岳の七本槍」の一人。武勇に優れ、数々の合戦で武功を挙げた。幼少のころから、秀吉に育てられた。
福島正則 「賤ヶ岳の七本槍」の一人。武勇に優れていたが、やや直情径行にあり、猪突猛進型の男だった。
大谷吉継 秀吉の小姓として、仕えていた人物で、のちに秀吉に「百万の軍勢の指揮をとらせてみたい」とまで言わしめた名将。 ・友を思う大谷吉継
小早川秀秋 秀吉の妻の兄の子だったが、秀吉の養子となった。のち小早川家を継ぐ。関ヶ原での裏切りは有名。 優柔不断な小早川秀秋





◆ やっぱり怖い!秀吉、夢枕の信長をも恐れる!  天下人が恐れる夢とは?

豊臣秀吉は天下人になってからも元主君である織田信長を恐れていたフシがあります。秀
吉は晩年、不思議な体験をしているのです。

■「あのお方」が夢枕で…
ある時、病床の秀吉の夢枕に信長が立ちました。「はげねずみ…、はげねずみよ…」
自分を「はげねずみ」と呼んでいたのは、故・信長でした。秀吉はハッとして、「ははーっ!御館
様、はげねずみめはこれに!」と叫びました。すると信長は、
「はげねずみ…。よくぞ天下をとったものよな。しかし、わしの倅どもには大層な扱いをして
くれたようじゃな…、あやつらが不憫でならぬ…。はげねずみ、貴様も早くこっちへ来い
…。」
「お、御館様、お、お許しくださいませ!御館様!」
すべては夢の中のことでした。

しかし、秀吉はこの夢にひどく怯え、寝床から廊下まで飛び出して、奇声を発して「お許し下
さいませ、御館様!!」と連呼したそうです。家臣や、妻のおねが駆けつけてなだめると、よう
やく落ちつきを取り戻したというから、よほど恐ろしい夢だったのでしょう。

秀吉は、信長の次男・信雄については改易のうえ追放、三男・信孝については、信孝が柴田勝
家についたために自殺に追いこんでいます。つまり、織田家に対して自分でもうしろめたいと思っ
ていたのでしょう。
この夢のエピソードは秀吉の信長への永遠ともいえる畏敬の念を如実に表しているといえる
でしょう。


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●城郭探訪●大坂城


◆ 捨て子はダメだが拾い子はOK。秀吉の子の話  ことわざを信じるのも紙一重

「捨て子は育つ」というので、「捨」と呼ばれていたのが豊臣秀吉の子です。
豊臣秀吉は、元主君信長の妹・お市の方の長女・茶々姫を側室にすると、これを盲愛し、淀に
茶々のための城を建てて移らせました。そのため茶々は「淀君」と呼ばれるようになります。
この淀君が産んだのが、秀吉初の実の子・鶴松でした。

■捨て子は育つと言っても…
秀吉は、子が産まれたことを大いに喜び、「捨て子は育つ」、という諺があるので、この子は
捨て子だったことにしよう」と考え、まず城内の庭で、皆が見守るなか、一旦赤ん坊を捨てさ
せ、これを偶然拾ったというように装いました。まあ、あんまり意味がないように思いますが、秀
吉が、産まれた子を極めて大事にしたいと思っていたことは窺えるでしょう。

そういういきさつからはじめ「捨」と呼ばれたこの子は、のちに鶴松という幼名を与えられました。

■拾えばOK?
しかし、なんと、鶴松は幼くしてなくなってしまうのです。秀吉にしても残念無念。大変落胆しま
したが、しばらくして淀殿が、またしてもご懐妊。
初めの子は「捨」でだめだったので、今度は「拾」と名づけて再び溺愛しました。この「拾」はのち
に豊臣秀頼と名乗って、豊臣家を継ぎましたが、徳川家康に滅ぼされてしまいます。

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↑捨て子を拾った大坂城
大坂城は、天正11年(1583)から吉によって建設が始められた巨です。京や堺といった一級の商業都市に近く、水運の発達も著しかったため、信長存命中から注目されていた土地でした。
秀吉が大坂城を築いた土地は、もともと仏教勢力の石山本願寺があった所です。
大坂城は、大坂の陣で焼亡しますが、江戸幕府の西の要として、縄張りを全て変更して再建されました。
現在の天守は、豊臣秀吉時代の天守閣を徳川時代の天守台に建てたもので、石垣や堀などの遺構は全て徳川時代のものです。





◆ 秀吉の書状は宛字だらけ

■文字の学習はしていなかった秀吉
豊臣秀吉は、農民から天下を握った大人物ですが、それだけに文字は知らなかったようです。そ
れというのも、秀吉が自ら書いた書状は、ひらがなばかり。漢字が使ってあるかと思えば、ほ
とんど宛字なのです。例えば、「日本」を「二ほん」と書いてみたり、「内裏」を「大いり」と書い
てみたりしています。他にも「代官」を「大かん」と書いたりと宛字だらけです。おまけに自分の
ことは「てんか」と書きます。「殿下」を「天下」⇒「てんか」と示しているわけです。

こんな宛字ばかりなので、やはり秀吉は農民から成り上がったので、字は知らなかったのだとい
うことになっているようです。実際の古文書を見ると、私は漢字よりひらがなの方が読みにくいの
で、秀吉の書状は読みにくい!まして宛字なんか使われた日にゃぁもう…。読めぬ!

ちなみに「秀吉」が差出人でも、右筆が書いたものはもちろん漢字で書いてありますので、
こっちはやっぱり読みやすいですね。


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◆ 木像の灰を信長の遺骨とした秀吉 

織田信長は、天正十年(1582)六月二日未明、京都の本能寺で、家臣である明智光秀の謀叛に
よって自害したと言われています。しかし、信長の遺体は依然として発見されていません。
明智光秀は、本能寺襲撃の翌日に、火災で焼けてしまって灰となった本能寺に行き、信長の遺
体の捜索をしたといいます。その光秀の必死の捜索も空しく、信長の遺体は発見されなかったの
です。

■信長の遺体の行方は?
信長の遺体は一体どこにいってしまったのか?
これについては、様々な説がありますが、信長の側近の誰かが、うまいこと夜のうちに運び出
し、どこかに隠したと思われます。戦国武将にとって、敵将に首を討たれるのは不名誉なことで
すから、発見されないように墓標もたてず、山の中にこっそり埋めたんじゃないでしょうか。

また、本能寺前日に信長の前で囲碁を披露した算砂という僧が、駿河の寺に遺体を運んで葬
ったという説もあります。

しかし、自分を「魔王」と名乗り、「神の如く崇めろ」と言っていた信長にふさわしい謎ぶりといえま
すね。

■遺骨とは言えないけれども
ところで、遺体はみつかりませんでしたが、葬儀の方は秀吉が同年の十月にしっかり行ってい
ます会場は、京都にある大徳寺で、今も信長の墓があるところです。遺体もないのに、棺桶を
作って、その中には信長の木像を入れ、これを焼いてその灰を遺骨としたといいます。ですか
ら、大徳寺の墓にある遺骨は木の灰なのでしょう。

秀吉が行ったこの葬儀には、反秀吉派の人は全く参列しておらず、まあ要は秀吉の一人よがり
的な葬儀だったようです。秀吉は信長の葬儀を大規模に行うことで、信長の後継者は自分である
と天下にアピールしたかったようです。


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