■関ヶ原の合戦
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関が原の合戦 (1600年)
■データ
勝敗 ○徳川家康(武蔵江戸) 対 石田三成(近江佐和山)●
概要 太閤秀吉亡き後、天下を狙う家康と、それを阻止せんとする豊臣家の忠義の官僚・石田三成の戦い。三成はその実力差を補うため、自軍の総大将を五大老の一人・毛利輝元に依頼したが、戦場で事実上の総指揮をとっていたのは石田三成であった。。
起こった時代・
年月日
慶長5年(1600)9月15日
起こった場所・
地名
美濃国関ヶ原
参戦人物 徳川家康方:浅野幸長、有馬豊氏、井伊直政、池田輝政、生駒一正、織田有楽、加藤嘉明、金森長近、京極高知、黒田長政、田中吉政、筒井定次、寺沢広高、藤堂高虎、福島正則、古田重勝、細川忠興、本多忠勝、松平忠吉、山内一豊

石田三成方:赤座直保、安国寺恵瓊、宇喜多秀家、大谷吉継、小川祐忠、吉川広家、木下頼継、朽木元綱、小西行長、小早川秀秋、島津義弘(惟新)、島津豊久、長宗我部盛親、戸田重政、長束正家、平塚為広、毛利秀元、脇坂安治
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■合戦概要

●合戦まで

・豊臣秀吉薨去
慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が薨去したことにより、朝鮮への派兵は中止され、派遣されていた武将たちもただちに内治に呼び戻された。秀吉の子・秀頼は未だ幼く、秀吉の遺言もあって、政治は秀吉政権下の実力者・徳川家康を筆頭に五大老や五奉行が中心となって行うことになった。

ところが、さっそくこれまで辛酸をなめてきた家康が天下を奪おうと動き出した。家康は、朝鮮に派遣されていた武将の撤退がほぼ完了した慶長3年(1598)の12月にさっそく、伊達政宗や福島正則といった武将と親しく話しをし、婚姻を結んだ。
しかし、大名同士の無断婚姻は、豊臣政権では禁じられており、他の五大老・五奉行の役職についている大名から猛反対にあう。ところが、家康はこれを「(豊臣政権の)決まりを忘れておった」などといってかわし、逆に「わしを除こうとする言いがかりだ」と反撃。こういった言動などから、反家康派の武将たちは家康に対しての警戒を強めていった。

・前田利家逝去
家康に匹敵する実力者は、豊臣政権下には一人しかいなかった。秀吉の朋友でもあった前田利家である。利家は、家康の野望を見抜いて、他の大老、五奉行らと共に、家康への警戒をつとめ、反家康派の筆頭として、目を光らせていた。
しかし、その前田利家が慶長4年(1599)閏3月3日、逝去した。
家康に対抗できる唯一の人物を失った反家康派は、真っ向から対抗する術がなくなり、家康の権力はますます増大していったのである。

・石田三成襲撃事件
折も折、前田利家逝去の翌日、五奉行筆頭・石田三成が武功派の武将7人に命を狙われて襲撃されるという事件が起きる。
武功派の武将たちは、三成のことを、頭脳ばかりで秀吉に取り入り、自分たちのことで讒言を繰り返したと思い込んで、相当嫌っていた。実際、三成は、合戦の状況報告などで、彼ら武功派に不利になることを言っていたようだが、事実無根のことばかりとも言えず、三成は事実を伝えていただけとする説もある。

ともかく、三成を目の敵にしていた武功派たちは三成を襲ったが、三成はこともあろうに、「天下を掠め取らんとしている」として自ら先頭にたって糾弾していたはずの徳川家康のもとに逃れる。そして、家康に助けてくれるよう頼んだのである。
家康は、これは好都合とばかり、引退を条件にして三成を救った。家康は、武功派をなだめてことなきを得、三成は政治の表舞台から退けられ、居城佐和山城に引退することになった。

・加賀・会津討伐騒動
三成を遠ざけ、さらに反家康派の勢いを小さくさせた家康は、本格的に政権奪取に向けて動き出す。
まず加賀征伐を決めた家康は、加賀の前田利長に謀叛の嫌疑をかけて豊臣家をあげて討伐しようとしたが、前田利長の熱心な弁明により、利長の母・保春院を江戸に人質によこすことを条件に、征伐を取りやめた。

しかし、家康はすぐさま、今度は会津の上杉景勝征伐を目論んで、工作をした。
上杉家にも謀叛の嫌疑をかけたものの、上杉家では謝罪をする気などさらさらなく、「それなら攻めて来い」という態度をとってきた。激怒した家康は、ついに会津征伐の号令を下し、慶長5年(1600)7月に会津に向かって出陣した。
家康は上方を留守にするにあたり、伏見城に腹臣・鳥居元忠と1800名の兵士を入れ、備えとした。

●合戦直前の動き

・小山評定
家康は、会津征伐にあたり、まず下野(栃木県)小山に陣を張った。そして、ここで驚愕の上方情勢を聞いた。上方で、家康の留守を狙って石田三成が挙兵したのである。三成は、家康の留守中に、五大老の毛利輝元を説き伏せ、輝元を総大将にすることにより、家康とのいかんともしがたい実力差(石高の差)を埋めようとしたのだ。これに、かねてより三成と懇意の宇喜多秀家も同調し、上杉景勝は自動的に家康とは敵対する立場になるので、五大老の3人が3人とも反家康にまわったことになった。
しかも、三成は大坂の各大名屋敷にいた諸大名の妻たちを、人質にして味方を増やそうとしていた。

そこで、7月24日、家康は小山陣で軍議を開き、上方の情勢を諸大名に伝え、「大坂に戻るのも、このまま家康と共に戦うのもおのおのの自由」と発言した。この発言に、一同は動揺を隠せなかったが、やがて福島正則が、「家康公が、秀頼ぎみのために戦うのであれば、このままお味方致す」と発言し、その場にいた諸将も次々とそれに続いて、家康に味方することを表明した。遠江・掛川城の山内一豊などは、「戦のために居城を明け渡す」とまで言った。
家康は、彼らの言葉に感謝しながらも、ただちに小山の陣を引き払って上方に向かって西上するよう命じる。

その一方で、会津の上杉を放っておくわけにもいかないので、宇都宮に息子の結城秀康、徳川秀忠らを残し、さらに伊達政宗、最上義光といった奥州の大名に上杉軍の権勢を任せ、自身は一旦江戸に戻った。

・伏見城陥落
ちょうど同じ頃、京都・伏見城は4万を越える西軍諸隊に包囲され、激戦となっていた。伏見城の留守を預かる家康の腹臣・鳥居元忠は、兵士を鼓舞しながら、戦いぬいたが、やはり多勢に無勢。やがて力尽き、元忠は切腹。将兵1800名残らず討ち死に、あるいは自害したという。
ちなみにこの伏見城攻めには、西軍として小早川秀秋も加わっていた。

・書状を送る日々
福島正則らが、早急に西上を進め、尾張の清洲城に入城したころ、家康はまだ江戸城を動いていなかった。
江戸城で、家康はまだ諸大名への書状を書いていたのである。清洲に入った大名はともかく、上杉牽制を任せた伊達、最上ら奥州大名や、その他各地の大名たちの動きを心配したものであろう。また、いまだ中立の立場にいるものを味方に勧誘したりもしていた。この書状攻勢では、恩賞の約束もしていたりと、かなり必死だったようだ。

・岐阜城陥落
清洲城に入っていた福島正則らは、家康が西上してこないのに苛立ち、家康に出馬を催促するが、家康から「おのおのが岐阜城を攻め始めれば、出馬する」という伝言を受けた。正則らは、「まだ疑われておいでなのか」と焦り、早急に岐阜城攻めを開始する。

岐阜城は、織田信長の孫・織田秀信が守備していたが、福島らは、二手に分かれて城を攻め立て、8月23日には、難攻不落の名城と言われた岐阜城を落城させた。城主の織田秀信は一命を許され、戦後、出家して高野山に入り、慶長10年に没した。享年26歳。

そして、9月1日、家康がついに腰をあげる。家康は先に、宇都宮に残してきた秀忠に中山道を西上し、信濃に向かうように指示し、自身は、書状を発しながらゆっくりと東海道を進み、9月13日にようやく岐阜に入った。

●合戦へ

・秀忠の動き
中山道を進む秀忠は、信濃の真田攻めに手こずったものの、家康から「ただちに西上すべし」という書状をもらい、西上を開始した。しかし、この家康の書状を持った使者が秀忠のもとに到着するのが、天候不順や川の氾濫などによって、大幅に遅れ、秀忠は予定よりかなり遅れて、信濃を出発することになってしまっていた。そして、彼は関ヶ原の合戦に遅参するのである。

・前哨戦を経て決戦場へ布陣
一方の家康は、秀忠が来ていないことに苛立ちながらも、9月14日に美濃・赤坂に着陣。近くの合渡川で、西軍の将・島左近らの攻撃にあい、一部の東軍が交戦したものの、西軍もすぐに退却したため大規模なものにはならなかった。
そして、この夜、西軍は大垣城を出て、関ヶ原へ移動を始める。西軍を大垣城から出して野戦で一気に決着をつけたかった家康は、その報を聞いて大層喜び、すぐさま東軍諸将にも関ヶ原に布陣するように命じた。

そして、家康自身は関ヶ原の桃配山に布陣します。

こうして、両軍関ヶ原に布陣し、濃い霧のなかで互いに様子を見ている状態だったが、ついに午前8時ごろ、井伊直政・松平忠吉の2人が、西軍に攻撃をしかけ、それに気づいた福島正則が一斉に発砲し、天下分け目の戦いの火蓋は切って落とされた。

■合戦の流れ

●東西両軍布陣完了(午前5時)

西軍宇喜多秀家が天満山付近に布陣して、東西両軍の布陣が完了。
西軍は、北国街道沿い、笹尾山麓に石田三成、秀頼麾下の黄母集衣衆が並ぶ。石田隊の隣、北国街道をはさんだ小池村後方に島津義弘、続いてその右翼、池寺池手前に小西行長、南天満山に宇喜多秀家、藤古川を渡って中山道沿いに平塚為広、戸田重政、大谷吉継。松尾山麓に赤座、小川、朽木、脇坂の順に布陣し、この後ろに木下頼継、大谷吉勝。松尾山には小早川秀秋が陣取り、さらに伊勢街道を越えた南宮山に毛利秀元。山を越えて反対側の麓には、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親。西軍の布陣は東軍を完全に包囲した鶴翼の陣である。
一方の東軍は、ほとんどの軍勢が関ヶ原のに布陣し、家康は、南宮山の麓・桃配山に陣を布いた。さらに安国寺・長束・長宗我部と、下山してくる可能性のある毛利に備え、中山道沿いに有馬豊氏、山内一豊、池田輝政を配置。しかし、敵の鶴翼の陣に比べると、はるかに不利であった。
決戦の朝は濃霧が立ちこめ、双方共に相手の姿が肉眼では見えない、厳しい条件での布陣となった。

●開戦(午前8時)

井伊直政・松平忠吉の両名、福島正則隊の静止を「物見」と称してふりきり、宇喜多秀家隊に攻撃を仕掛ける。これに気づいた福島鉄砲隊およそ800名が宇喜多隊に向かって発砲。これが合図となって、開戦となる。

●前線部隊大激突(午前9時)

開戦から一時間、石田隊×黒田・細川隊では、石田隊の島左近が、迂回していた黒田隊の鉄砲部隊の狙撃により負傷。後陣に退く。
宇喜多隊×福島隊では、宇喜多隊の先陣・明石全登が善戦し、一進一退の攻防となる。
小西隊×織田有楽ほか7部隊は、数で小西が有利であったが、途中から有楽側に、大谷隊を攻めていた寺沢広高隊が加勢。これで、小西隊との兵力が拮抗するも、小西隊は脆く、寺沢隊の加勢を受けて、早くも敗走の兆しが見え始める。
この脆弱ぶりを見た寺沢隊らは、宇喜多隊攻めにうつる。

●家康、本陣を前進させる(午前10時)

東軍がやや押しているが、各隊、一進一退の攻防が続く。家康は戦の行方未だ定まらないことに苛立ち、本陣を前進させる。
一方、石田三成は、動きを見せない島津隊に出撃催促の使者を送ったが、この使者が馬上から用件を話したため、島津隊は激怒。のち、三成自らが島津陣を訪れ、先の使者の非礼をわび、出撃要請をしたが、島津は「まだその時ではない」として応じなかった。
松尾山の小早川秀秋は、未だ動かず。これに伴うように、山麓の脇坂・小川・朽木・赤座の4将も動かず。南宮山の毛利秀元・吉川広家もこれに同じ。

●小早川秀秋裏切る(正午)

三成、家康双方ともが固唾を呑んで見守ったのが、松尾山の小早川の進退である。開戦から3時間以上経過しても小早川は動かなかった。三成は、度々出撃の狼煙を上げたが、動きなし。一方の家康も、戦前に秀秋から、寝返りの約束を受けており、いつ寝返るのか待ちかねていたが、一向に動く気配がないため、小早川陣に向かっての一斉射撃を下命する。小早川が、これを「攻撃」ととって、西軍に味方する可能性をはらんだ博打的な行為だったともいう。
ともあれ、この一斉射撃を機に、小早川隊は山を降り、中山道沿いの大谷吉継隊の攻撃に入った。そして、これに追従するかの如く、赤座、小川、朽木、脇坂の各隊も寝返り、一斉に大谷隊を襲った。

●西軍潰走(午後1時)

小早川隊他4部隊の寝返りによって、奮戦むなしく大谷隊は全滅。大谷吉継本人も、自害して果てた。首は家臣の湯浅五助に命じて、地中深く埋めさせたとされる。
この大谷隊の壊滅に連座して、その左翼の宇喜多隊が総崩れ。開戦早々から敗走傾向にあった小西隊も本格的に潰走し始めた。宇喜多秀家は、小早川陣に馬を向け、「金吾め(秀秋)と刺し違える」と憤激していたが、明石全登が何とか抑え、退却させたという。
黒田、細川などの軍と善戦していた石田三成隊も、ついにほぼ壊滅状態になった。開戦早々に負傷して後陣に下がっていた島左近は、再度出陣して、ここにおいて討ち死にしたと伝わるが、生存説も根拠薄だが存在する。石田隊は、左近負傷後、蒲生郷舎が前線で奮闘していたが、全軍敗走に至り、敵軍を一所にひきつけて、壮絶に戦死したとされている。この郷舎の敵軍誘導により、乱戦著しい自軍本陣から、三成は伊吹山方面に逃れることに成功した。
ここに至り、終始不動の島津軍だが、なお動きを見せない。ただし、石田隊を追撃するために自陣に迫る敵軍を、迎撃するのみであった。
東軍は、勢いに乗って押し、家康麾下3万近い軍勢が新たに参戦。南宮山方面を監視していた本多忠勝は、「毛利は動かない、動かない者を監視するなどアホらしい」としてこれも参戦した。
ここに至り、完全に東軍に勝利が傾いた。

●島津軍敵中突破を敢行(午後2時)

敗走していく西軍を横目に見ながら、じっと動かず、振りかかる火の粉のみを払ってきた島津軍がついに動いた。方向はなんと前方。北国街道を走りぬけ、伊勢街道から戦場離脱をはかるという無謀極まりない動きだった。開戦当初は1500人ほどいた兵士も、乱戦のなか自陣に攻め寄せる敵軍を迎撃してきたため、半数以下(一説に300〜500人ほど)になっていたが、全軍一丸となって、敵中に突入。前進してきていた家康の本陣から、その壮絶な退却劇が見えたともいう。
東軍諸隊は、これの追撃を開始し、徳川麾下では、井伊直政・松平忠吉などの追撃が執拗だったが、島津軍は、同家特有の退却法・すてがまり戦法を使い、これを振り切った。すてがまりは、少しづつ兵士が戦場に踏みとどまって、敵軍を足止めする捨て身の戦法である。この島津追撃戦の最中、井伊直政・松平忠吉共に、負傷。井伊直政などはこの時の傷が元になり、翌年死を迎えることになる。
島津軍は、戦場を脱出した後、鈴鹿山系の五増峠を越え、近江、水口、大和、河内和泉と抜けて、摂津に至る。義弘は辛うじて逃れてこれたものの、島津豊久が戦死。戦場を離脱した時に残っていたのは、わずかに80名ほどであったという。

●東軍戦勝を祝う(午後3時)
東軍は、負傷者の続発で、島津軍の追撃を中止した。
一方、南宮山麓の諸将も、西軍の敗報に触れると退却を始めた。最初から戦意があったのかあやしい長宗我部隊と、長束隊は、伊勢街道方面へ撤退。安国寺恵瓊は、一度退却したものの、南宮山になお留まっていた毛利陣に一度戻ってきたという。しかし、再び落ち延び、京都に潜伏した。毛利秀元は、吉川広家の内通を合戦終了時まで知らずにいたが、広家の内通のおかげもあって、翌日南宮山を降り、近江から京を通って、大坂に帰還することができた。
家康は、本陣を藤古川の台地に移して、諸将の労を過剰なまでにねぎらうと共に、今後の方針を通告した。ここにおいて、発表された方針とは、まずは石田三成の居城・佐和山城を陥落せしめること、いま一つは、大坂城において、毛利輝元の動向如何によっては、これと一戦交える必要があることであった。諸将は、この方針に同意し、その後も家康に従うことになる。
ここにおいて、天下分け目の戦は終結した。時間にしておよそ7時間。20万人が集合した激突にしては、早い終結だっただろうか。


※この文章は管理人の運営する「関ヶ原ブログ」から転載したものです。

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