■徳川家康
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徳川家康 とくがわいえやす 1542〜1616
ようやく手にした天下
三河出身の戦国大名。父は松平広忠。のち江戸に幕府を開きました。
幼い頃は、家が弱小勢力だったうえ、今川・織田の強国に挟まれていたため、今川家の人質となり、10年以上も今川義元のもとにいました。1560年の桶狭間の合戦で義元が討たれると独立し、1562年に織田信長と同盟を結びます。以後、信長の強固な同盟者として、数々の戦に援軍として参戦しました。
1582年の本能寺の変ののち、甲信地方に進攻し、これを平定。はじめ豊臣秀吉と対立しますが、やがてその臣下に加わります。しかし、天下取りの野望をあきらめたわけではありませんでした。
1598年、秀吉がこの世を去ると、積極的に天下取りに向けて動き出し、1600年の関ヶ原の合戦で勝利をおさめ、名実共に、日本第一の勢力となります。1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開き、幕府の基礎固めを行いました。1615年には、豊臣家の勢力を完全に駆逐し、後顧の憂いをなくしました。
1616年4月14日、死去。死後、神格化され、いまも日光の東照宮に祀られています。

■徳川家康簡易年表
年代 出来事 関連記事(下の記事にリンクしています)
1542 家康誕生
1547 今川家に人質として預けられる
1560 桶狭間の戦いの後、独立
1562 織田信長と同盟
1570 姉川の合戦に、信長の援軍として参戦
1571 三方ヶ原の合戦 ・糞もらし!家康最大の教訓はこれだ!
1575 長篠の合戦に、信長の援軍として参戦 ・長篠城を救った男・鳥居強右衛門
1582 本能寺の変の折、摂津(大阪)の堺におり、間一髪、伊賀越
えをして領地に帰る。
1582 甲信地方を平定
1584 小牧・長久手合戦
秀吉の臣下となる
1598 秀吉薨去。この後から、家康が天下に向けて動き出す
1600 関ヶ原の合戦
1603 征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く
1615 大坂夏の陣
1616 家康死去 ・日光ご使命の謎
年代不詳・その他の逸話 ・徳川家の妖刀・村正
薬マニア家康

■徳川家康関連出来事

●神君伊賀越え

■神君伊賀越えとは?
神君伊賀越えは、家康の運命を決した一大事件です。「神君」というのは、家康が死後、日光東照宮に神として祀られているから
です。

天正10年(1582)、明智光秀の謀叛により本能寺の変が発生し、織田信長が横死します。家康は信長の同盟者でしたから、それ
だけでも衝撃なのですが、この時、家康はなんと領国・三河ではなく、和泉国の堺にいたのです。その数日前、家康は信長に招か
れ、饗応を受けました。そして、その後、信長の勧めもあって、堺に見学に来ていました。
家康は、そこで、この凶報を耳にします。(一説には「虫の知らせ」で、家康は京都に戻る途中で、信長横死の報を聞いたとも言わ
れています。)

家康は、一時、気が動転してしまったのか、「ならばこのまま我らも京都に入り、明智の軍勢と戦い果てよう」とまで言ったといいま
す。しかし、家康は「領国に帰って兵を整え、信長どのの弔い合戦に臨む」と思い直します。そこで、危険だが、近道でもある伊賀国
越えを敢行するのです。

■何が危険?
では、何が危険なのかと言いますと、まず第一に、明智光秀が家康が堺付近にいるであろうことを知っているというのが、問題で
す。なぜかというと、光秀が信長と関係の深い家康も殺そうとする可能性があるからです。光秀にてっては、信長と関係のある者
はすべて倒したいところ。そこで、三河・遠江・駿河付近を抑えた有力大名である徳川家康が、わずかなお供と共に堺をうろついて
いるというわけですから、このチャンスを光秀が見逃すはずがありません。

光秀は街道という街道を封鎖するであろうと踏んだ家康は、様々な抜け道もある忍びの里・伊賀を越えることにしたというわけで
す。







◆ 徳川家の妖刀・村正

徳川家には、縁起の悪いとされている物があります。それが妖刀「村正」です。

■家康の祖父・父を葬った刀?
この村正、室町時代の刀工・村正作のたいした刀で、忌み嫌われるような、刀ではありません。
徳川家にとって、この刀が何ゆえ、妖刀なのか??それは、家康の祖父と父の死に様に由来
しているようです。

家康の祖父・清康は守山崩れと呼ばれる変事で、家臣・安部弥七郎に斬られています。実は、こ
れは、「弥七郎の父・定吉が清康に殺された」という、間者の流言を信じた弥七郎が、早まって、
父の仇を討とうとしてやってしまったことでした。しかし、この時清康が斬られた刀が、「村正」だ
ったらしいのです。

さらに、家康の父である広忠も家臣・岩松八弥に殺されてしまいます。しかし…。
この時の刀も「村正」でした。
家康自身も、幼少期、脇差でけがをしました。
このときも「村正」です。
家康の長男・信康の切腹の際に介錯人が使った刀。それも…。
「村正」だったといいます。

もうここまでくると偶然とは思えません!村正に祟られてます!恐!

まあ自分は徳川家じゃないので、平気ですが…。

とにかく徳川家の人間に不幸をもたらした「村正」。
徳川家にとっては妖刀ですが、切れ味は抜群らしいですよ。


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◆ 糞もらし!家康最大の教訓はこれだ!

徳川家康は若い頃は、織田信長と結んで、命脈を保っていた人であることは有名ですね。しか
し、信長を頼っていても、攻められる時は攻められてしまうのです。

■最大の危機・三方ヶ原!
家康最大の危機が元亀三年(1572)12月22日にやってきました。あの武田信玄が家康の領
国・遠江国(静岡県)に攻めてきたのです。武田信玄という人物も音に聞える名将で、家康も
冷や汗ものだったと思います。
ところが、信玄はあくまで上洛を目的としていたので、家康の篭もる浜松城は攻めずに、西上しよ
うとしました。せっかく通りすぎたのに、家康は
「敵に頭をまたがれて黙ってられるか!」
と、出陣し、わざわざ信玄と戦いに行くのです。要は、「自分の領国を堂々と通られてたまるか」と
いうようなことですね。信玄軍もこれに応戦。両軍は三方ヶ原で激突します。

■馬上でもらす男
しかし、家康は、この戦でコテンパンにやられてしまいます。それはもう、見事に負けたそうで
す。家康は、命からがら城に逃げ帰ることができたようですが…。
なんと!

糞を漏らしたらしく、馬の鞍が濡れていました。

さらにそれを見つけた重臣の大久保忠世に大爆笑されてしまいます…。勇ましく出ていったはい
いものの、死にそうになって帰ってきて、うんこ漏らしてしまった。さらに家臣に笑われた。
家康の人生のなかでも、まさに屈指の糞だり蹴ったりの日でした。
しかし、ただでは転ばない家康。敗戦の恐怖と屈辱に歪んだ自分の姿を肖像に描かせ、以後そ
の絵を教訓として、同じ失敗を繰り返さなかったといいます。


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◆ 薬マニア家康

薬を調合するのは、知識がないとできることではありません。
現代において薬剤師になるには、免許が必要ですね。
ところが、免許などはなかった時代とはいえ、自分で自分だけの薬を調合し、飲んでしまう強者が
いました。
徳川家康その人であります。

■自分だけの薬で健康維持
家康は、漢方の書物を読んで、独自の知識で薬を調合。それを自分でも服用していました。
年をとってからの家康は、大変な健康マニアで、食事にも大変気を使っていました。
そして、ヒマさえあれば、様々な薬草を出してきて、ゴリゴリ調合していたそうです。

とにかく自分の薬に自信を持っており、家臣にも飲ませていたようです。
特別悪い効果が出たってことはないようですが、
考えてみると、飲む方としてはちょっと怖いと思うんですが…。

家康の死因の説の一つに

「自分で調合した薬があたって死んだ」

なんていうものもあるといいますから、それはそれは謎的な薬草も調合していたのでしょう。

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◆ 長篠城を救った男・鳥居強右衛門

■無根拠の自信に溢れた男、登場!
長篠の合戦のちょうど直前、徳川家康の領下・長篠城が武田勝頼の攻撃にあって、いつ陥落し
てもおかしくないような状況にあった時のことです。
城将・奥平貞昌は、窮地をしのぐための援軍を待っていましたが、一向に援軍が到着しやがりま
せんでした。そこで貞昌は、援軍の催促をすることを決定しました。
しかし、城は武田勢に囲まれて隙間もありません。貞昌は、この死ぬ確立90%の援軍要請に鳥
居強右衛門という男を指名しました。強右衛門は、「必ずや援軍を出していただきます!」と根
拠なく自身たっぷりに城を出ていきました。

■捕らえられても、忠誠を尽くす。漢の中の漢、華々しく散る!
強右衛門は、武田の囲みを破り、無事家康のもとにたどりつき、「急ぎ援軍を送ってください!」
と堂々と催促をしました。

これを受けて家康は、援軍を出すことを決意し、強右衛門には「ご苦労、とりあえず休め」と指示し
ましたが、強右衛門は、「援軍が来ることを早く長篠のみんなに教えてやりたい」と、すぐ帰路
につきました。そして、帰る途中、あと一歩の所で武田軍に捕らえられてしまったのです。

武田勝頼は、強右衛門をふんどし一丁にして長篠城から見えるところに磔にし、「長篠城に向
かって、援軍は来ないと言えば許してくれよう。」とけしかけます。援軍が来ないことを知った
ら、長篠城に籠城している兵士たちもやる気がなくなるだろうと思ったからです。
強右衛門は、これを承諾して、城将に向かい大声で「援軍は来るぞ〜!!!」と叫びました。
城将は大喜びです。やる気も出てきました。

勝頼は、約束と違うことを言われてしまって、「たばかりおったか!このふんどし野郎!」と言
わんばかりに「殺せ!」と命じ、忠烈の士、鳥居強右衛門は、長篠の露と消えたのです。よよよ
…。
ちなみに強右衛門の行動は織田信長をも感動させ、織田家からも援軍が来て、有名な長篠の戦
いが起こるわけです。

さらに強右衛門は敵方にも影響を及ぼしています。武田方の武士、落合左平次は、強右衛門の
忠義に感動し、磔の図を自分で描いて旗印としていました。その旗印は今も残っています。

残っていますが、「磔の図」ですから、ちょうど磔にされた時のかっこうです。

ですからふんどしです。

ふんどしじゃない絵にしてやればよかったのにな…。それだと感動が伝わらないのかな…。


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◆ 家康の遺言。日光ご指名の謎

日光東照宮。徳川家康が祀られているお社です。世界遺産の一つでもあり、建築技術も最高
峰。しかしなぜ、ここに家康を祀ることにしたんでしょうね。

■日光には何がある?
「遺言だから。」と言えばそれまでですが、それなら「じゃあなんで日光をご指名なのかしら?」と
も思うでしょう。その答えは、「それにふさわしい土地だから」です。

東照宮のある日光山の周りには神秘的なものが点在しているのです。西には華厳の滝、中禅
寺湖と男体山、北には霧降高原があります。

すごい!
大自然の恵みが満載だ!

中禅寺湖のある場所も標高1269メートルの位置で、日光山周辺一帯、天上世界に例えられる
ほど。家康は「神となって江戸を守る」と遺言したといいますから、こういう神秘的な場所を選んだ
んでしょう。江戸からそう遠くないし、場所的にも都合がいいですしね。

ところで、日光のある栃木県の県庁所在地・宇都宮。これは、日光の天上の宮に対して、現(う
つつ)の宮ということで名づけられたらしい。
宇都宮って地名、江戸時代前はなかったのかぁ…。


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