白石宗実(しろいしむねざね) 1553〜1599 |
■武勇に優れた重臣
幼名・老後丸。右衛門大輔、若狭守。…「幼名・老後丸」は冗談ではありませんよ。
天正12年(1584)の駒ヶ峰城攻めで殿軍を務め、天正13年(1585)には伊達郡飯野に大内定綱に対抗して出陣。内応を計策。翌
年には政宗に安達郡塩松の地を与えられて塩松城に移りました。とんとん拍子の出世と言いましょうか。
天正16年(1588)には、佐竹・芦名の連合軍と戦った際の軍表情に参加して、翌年の摺上原の合戦にも出陣しました。文禄の役
にも出陣しましたが、慶長4年(1599)、伏見で病没しました。享年は47歳と言われていますが、生年は不詳であり、55歳という説も
あります。 |
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遠藤基信(えんどうもとのぶ) 1532〜1585 |
■外交を得意とする輝宗の側近
六郎。
はじめは伊達家の宿老・中野宗時に仕えていましたが、輝宗に気に入られて、輝宗の側近くに仕えるようになりました。そして、元
亀元年(1570)に中野宗時が謀叛を起こした時も輝宗に献策しています。
基信は合戦で活躍するいわゆる武功タイプとは異なり、内政や外交で手腕を発揮するタイプでした。そのため、天正年間には織田
信長や徳川家康といった有名な大名とも書状を取り交わしたりしています。
天正13年(1585)に隠居しましたが、同年10月に輝宗が横死したため、数日後に切腹し、輝宗に殉じました。享年は54歳。城の門
前で切腹したそうです。 |
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その他の年配武将 |
茂庭良直(もにわよしなお) |
入道後の左月斎という呼び方が勇名でしょうか。大河「独眼流政宗」ではいかりや長介が演じていた武将です。茂庭の一族は「鬼庭」を称して、伊達家初代の頃から仕えている譜代の家臣です。良直は、天正13年(1585)の人取橋の合戦で、73歳という老齢ながら殿軍として奮戦し、200以上の首を挙げたそうですが、やがて敵軍の窪田十郎という将に討ち取られました。 |
茂庭綱元(もにわつなもと) |
良直の子。なかなか真面目な人物で、父を討った窪田十郎を捕らえられた時、気を利かせた同僚たちが綱元にその身柄を預けましたが、綱元はこれで窪田を討つのことは士道に反するとして、釈放しました。ちなみに窪田はのちに綱元の家来になっています。
外交や内政、軍略などの面で活躍していますが、一時、秀吉から綱元が賜った女のことで、政宗の怒りを買い、出奔しています。後で許されてその後も政宗に仕えました。寛永17年(1640)まで生きて享年92歳。当時としてはかなりの長寿ですね。 |
留守政景(るすまさかげ) |
輝宗の弟ですから、政宗の叔父にあたります。名門ながらも当時は衰退していた留守氏の当主を継いで、数々の合戦に参戦し、武功を立てています。慶長12年(1607)に一ノ関で死去。享年59歳。 |