■伊達政宗
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伊達政宗 だてまさむね 1567〜1636
奥州最強の独眼龍政宗
政宗は幼名を梵天丸といい、幼い頃に疱瘡という病で右目を失いました。そのため、母にさえ疎まれ、醜い顔を苦にした少年時代は、父・輝宗の勧めもあって、虎哉宗乙という高名な僧侶のもとで、厳しく教育されて育ちました。
元服した政宗は、ほどなくして、輝宗から家督を譲られます。まだ18歳の時でした。しかし、虎哉にしごかれた政宗は聡明で、家臣たちもこれに従いました。
ところが、19歳になった政宗に不幸がおきました。たった一人、片目を失くした自分を力づけてくれた父・輝宗が死亡するのです。隣国の畠山(二本松)義継が、政宗に挨拶に来た際、「自分はこの場で殺される」と早とちりし、輝宗を人質にとって自城に帰ろうとしたため、政宗が追っていき父もろとも射殺したのです。この時、ためらう政宗に「わしごと撃て、禍根を残すな」と言ったのは、他ならぬ輝宗本人でした。
父を失った政宗は、その悲しみを乗り越えて隣国への侵略作戦を開始します。数度の敗戦もありましたが、奥州を席捲する一大勢力を築きました。しかし、ここに豊臣秀吉が立ちふさがります。政宗は散々悩みましたが、ついに秀吉に臣従することにするのです。
秀吉没後は、徳川家康に接近。1600年の関ヶ原の合戦でも家康に味方し、奥州で敵の上杉軍を相手にしていました。徳川幕府下では、ヨーロッパ諸国との交易を目指して、慶長遣欧使節を派遣しましたが、幕府がキリスト教を禁止したため、やむなく断念。死の床には将軍・家光が訪れたそうです。
「伊達男」という言葉の語源にもなった人物です。。

■伊達政宗簡易年表
年代 出来事 関連記事(下の記事にリンクしています)
1567 政宗誕生
1571 病で片目を失う。
1577 元服して藤次郎政宗と名乗る ・政宗、不動明王たらんとす
1584 家督継承
1585 父・伊達輝宗、畠山義継に拉致され死亡 ・政宗、父・輝宗をも撃ち殺す!!
1586 畠山義継の遺児・国王丸のいる二本松城を攻める。
1588 大崎氏攻めで大敗を喫す。
佐竹、芦名、大崎、最上各氏と和睦。
1589 大崎氏を服属させる。
摺上原の合戦で芦名義広を破る。
1590 弟・小次郎を殺害
秀吉の小田原征伐に参陣。臣従を誓う。
大崎・葛西一揆を煽動
・死に装束で参陣!小田原遅参の政宗
1591 大崎・葛西一揆の件で秀吉から詰問を受ける。
大崎・葛西一揆を鎮圧。
・イタズラ過ぎた?政宗、またしても秀吉に怒られる
この 秀吉の吉野観桜に随行し、歌会に参加 ・サル関白秀吉の飼う猿は独眼龍が苦手?
1595 秀次事件について、秀吉から詰問を受けるが、許される。
1600 東軍として、西軍の上杉景勝を攻める。
1601 仙台城の普請を開始する。
1613 慶長遣欧使節を派遣 ・政宗、イスパニヤのスパイを救う?
1615 大坂夏の陣に参戦
1623 母・保春院が仙台で死去
1636 江戸で死去。(享年70歳)
年代未詳・年代特定不要の逸話 ・政宗の肖像画の秘密とは?
・グルメ王伊達政宗
・仙台の地名の由来とは?

■関連人物

●伊達政宗の一族
政宗は、伊達家17代当主。政宗の名前の由来は、「伊達家中興の祖」と言われた名将・政宗からとったものですが、それまでの伊達家の当主たちは、自分の諱に足利将軍の諱の一字を拝領して、つけていました。政宗の曽祖父・稙宗もそうです。稙宗の場合は、将軍10代「義稙」、その子の晴宗の場合は、12代「義晴」、輝宗は、「義輝」からそれぞれとったものです。ここには挙げませんが、それ以前の伊達一族も同様の人物がいます。
名前 将軍の名前 一言紹介 関連記事
稙宗 義稙 分国法『塵芥集』の制定や、段銭制度の整備
や、周辺大名、豪族との養子・縁組政策で、伊達
家の勢力基盤を築いたが、子の晴宗と対立。敗
れた後、隠居。
晴宗 義晴 輝宗の父。父・稙宗の領内支配政策や養子・縁
組政策に反対して、天文の大乱(伊達氏洞の
乱)を起こす。
輝宗 義輝 政宗の父。政宗の才能を高く評価していた。畠山
義継によって拉致され、畠山領に入る前に、政
宗によって義継もろとも射殺された。
・政宗、父・輝宗をも撃ち殺す!!


●伊達政宗の家臣団
政宗の家臣団は、大きくわけると、年齢層により2つのグループに分けられます。まあおっさん組と若手組なんですが、政宗の方針決定の流れとして、まず、若手組みが進言したり、相談されたりした案件を、おっさん組や他の家臣たちにも伝えて、合議制をとっていたそうです。おっさん組は「相判衆」と呼ばれ、基本的には先代から伊達家に仕えているような経験豊富な譜代家臣でした。血気盛んな若手だけでは過ちも多いように思いますが、政宗はこういった方法で、経験ある人物たちの意見もよく聞いて政治・戦略を行っていました。

・若手たち
片倉景綱(かたくらかげつな) 1557〜1615
■政宗の傅役として仕えた側近中の側近
通称・小十郎。父の名は景重。
景綱はもとは政宗の父・輝宗の小姓でしたが、政宗の誕生後、政宗の近傅となりました。政宗が疱瘡を患い、片目が飛び出してい
たのを斬りおとしたのも景綱だったという話もあります。
政宗の家督相続後も、政宗の側近として戦争などで献策しており、人取橋の合戦や摺上原の合戦で大功を挙げるなどして政宗か
らの信頼も抜群でした。また、天正19年(1590)の豊臣秀吉の小田原の陣の際には、「時、すでに遅し、かくなるうえは一戦を」と
主張する、若手のもう一人の代表格・伊達成実とは反対に、「ここは恥を忍んでも参陣し、家名を存続させるべきである」と進言し、
政宗に参陣を決意させました。
慶長7年(1602)、軍事の要衝刈田郡白石城主となり、元和元年(1615)10月に死亡しました。享年59歳。
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伊達成実(だてしげざね) 1568〜1646
■納得いかないことには納得いかないと言う男。
幼名・時宗丸。通称は藤五郎。父の名は実元。ちなみに実元は政宗の祖父・晴宗の弟で、ということは、成実は輝宗の従兄弟と
いうことになるから、政宗にとっては……え?なんていうの?この位置の場合は?と、ともかく若手の方の人です。政宗の一個
下。
天正13年(1585)の人取橋の合戦、同16年の郡山合戦、17年の摺上原の合戦などの奥州制覇合戦の多くに出陣しています。、
大崎・葛西一揆では蒲生氏郷のもとに人質として行ったりもしています。
ですが、なかなか剛直な人物だったらしく、伊達一族でありながら、一度出奔しています!…それは政宗が秀吉の朝鮮出兵に行
った時のこと…。成実にも武功があったのですが、なぜかその手柄を認められず、文禄2年(1593)、不満を申し立てて高野山に
出奔してしまいました。政宗は、成実を呼び戻そうとして何度も説得の使者を出しましたが、これまた成実はなかなか頑固で応じな
いわけです。慶長5年(1600)、片倉景綱が説得に赴いてようやく帰参しました。
晩年は政宗と共に徳川家に帰順し、将軍家光にもその武勇を賞賛されたそうです。
正保3年(1646)死去。成実が書いた『成実記』は貴重な史料となっています。
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その他の若手たち
原田宗時(はらだむねとき) 剛直な男で、ある時、同僚の後藤信康を恨んで討とうとまでしましたが、いざ信康に会ってみると、その義勇の大きさに大いに感嘆し、以後は厚く親交したそうです。朝鮮出兵で病に倒れ、対馬で死亡。享年29歳。
屋代景頼(やしろかげより) この人は、政宗の朝鮮出兵の時、国元の留守を任されていますが、なかなか傲慢な振る舞いが多かったそうです。また、伊達成実の出奔の際には、命を受けて成実の居城だった角田城を攻めています。政宗には重用されていたようですが、その仕事はまさに裏方だったようです。
津田景康(つだかげやす) 政宗の数々の戦いに参戦した武勇の将です。主要な合戦にはほとんど従軍しています。しかし、武勇一辺倒の男ではありませんでした。秀次事件の時には、津田の原で秀吉に謁見して、政宗の無罪を訴えています。政宗はこの忠誠心に感じ入り、褒美を与え、それ以降は津田と名乗るように命じたのです。寛永15年(1638)まで生き、享年は75歳。。

・経験豊富な年寄り衆
白石宗実(しろいしむねざね) 1553〜1599
■武勇に優れた重臣
幼名・老後丸。右衛門大輔、若狭守。…「幼名・老後丸」は冗談ではありませんよ。
天正12年(1584)の駒ヶ峰城攻めで殿軍を務め、天正13年(1585)には伊達郡飯野に大内定綱に対抗して出陣。内応を計策。翌
年には政宗に安達郡塩松の地を与えられて塩松城に移りました。とんとん拍子の出世と言いましょうか。
天正16年(1588)には、佐竹・芦名の連合軍と戦った際の軍表情に参加して、翌年の摺上原の合戦にも出陣しました。文禄の役
にも出陣しましたが、慶長4年(1599)、伏見で病没しました。享年は47歳と言われていますが、生年は不詳であり、55歳という説も
あります。
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遠藤基信(えんどうもとのぶ) 1532〜1585
■外交を得意とする輝宗の側近
六郎。
はじめは伊達家の宿老・中野宗時に仕えていましたが、輝宗に気に入られて、輝宗の側近くに仕えるようになりました。そして、元
亀元年(1570)に中野宗時が謀叛を起こした時も輝宗に献策しています。
基信は合戦で活躍するいわゆる武功タイプとは異なり、内政や外交で手腕を発揮するタイプでした。そのため、天正年間には織田
信長や徳川家康といった有名な大名とも書状を取り交わしたりしています。
天正13年(1585)に隠居しましたが、同年10月に輝宗が横死したため、数日後に切腹し、輝宗に殉じました。享年は54歳。城の門
前で切腹したそうです。
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その他の年配武将
茂庭良直(もにわよしなお) 入道後の左月斎という呼び方が勇名でしょうか。大河「独眼流政宗」ではいかりや長介が演じていた武将です。茂庭の一族は「鬼庭」を称して、伊達家初代の頃から仕えている譜代の家臣です。良直は、天正13年(1585)の人取橋の合戦で、73歳という老齢ながら殿軍として奮戦し、200以上の首を挙げたそうですが、やがて敵軍の窪田十郎という将に討ち取られました。
茂庭綱元(もにわつなもと) 良直の子。なかなか真面目な人物で、父を討った窪田十郎を捕らえられた時、気を利かせた同僚たちが綱元にその身柄を預けましたが、綱元はこれで窪田を討つのことは士道に反するとして、釈放しました。ちなみに窪田はのちに綱元の家来になっています。
外交や内政、軍略などの面で活躍していますが、一時、秀吉から綱元が賜った女のことで、政宗の怒りを買い、出奔しています。後で許されてその後も政宗に仕えました。寛永17年(1640)まで生きて享年92歳。当時としてはかなりの長寿ですね。
留守政景(るすまさかげ) 輝宗の弟ですから、政宗の叔父にあたります。名門ながらも当時は衰退していた留守氏の当主を継いで、数々の合戦に参戦し、武功を立てています。慶長12年(1607)に一ノ関で死去。享年59歳。

■伊達政宗に関連する書籍紹介

風雲伊達政宗―炯眼独眼竜の雄材大略
風雲伊達政宗―炯眼独眼竜の雄材大略
史伝 伊達政宗
史伝 伊達政宗
伊達政宗のすべて
伊達政宗のすべて
■写真や図版も豊富な決定版
若くして奥州の覇者となり、秀吉・家康とも渡り
合った「遅れてきた戦国武将」伊達政宗。その伸
るか反るかの一代記を、豊富なカラー写真や図
版とともに公開する。戦国セレクション第5弾。
■史学的考察から読み取る伊達政宗
信長・秀吉・家康のときの権力に杭いつづけなが
ら「奥州の雄」として勇名をはせた伊達政宗。そ
の生涯に秘められた謎を解く。23歳の若さで、現
状に安んじず「奥州独立国」の構想を抱き、自ら
の野望と賭けに挑戦しつづけた背景には、いっ
たいなにがあったのか?豊富な黄金(砂金)の鉱
山、支倉常長のローマ派遣、一揆の煽動と制
圧、新田開発などの冒険心に富んだ別の姿も見
えてくる。
■専門的な論文が主体
伊達政宗研究者たちの政宗に関しての基礎的
かつ質のいい論文を集めた本。内容は娯楽的な
要素はなく、ひたすら専門書スタイルになってい
る。
初心者にはオススメできないが、現在絶版。政
宗ファンなら買っておいた方がいいかも?


■伊達政宗関連小話集




◆ 政宗の肖像画の秘密とは?

■実際にはなかったものも描くように命じた政宗の心は?
奥州の独眼龍こと伊達藤次郎政宗。
「伊達男」の語源にもなったといわれる武将ですが、「独眼龍」というニックネーム(?)からもわかるとおり、彼は片目しか見えま
せんでした…。幼いころに疱瘡という病にかかり、片目をなくしてしまったのです。ところが…。

現在残っている、伊達政宗の「肖像画」と称する物は、両目が開いているものがあります。

これは、政宗本人が晩年、「自分の姿を肖像画などに残す場合は、必ず両目のある状態を描くように。」と申しつけていたこ
とに由来しているといいます。
政宗は「親から授かった大切なものであるから、一つかけた状態では不敬である」と言ったと伝えられています。
最後の戦国武将と言われた政宗の意外な点ではありますね。

■遺骨の右眼に損傷なし!
先日、仙台に行ったので政宗の墓所・瑞宝殿を見てきたのですが、中の資料館で発掘時の様子のビデオを流していました。それ
によると、政宗の遺骨には眼の部分に特に損傷はなかったそうです。
様々な文献・史料が政宗が隻眼であったことを記していますので、政宗の右目はやはり病による内部的な失部であったのであろ
うということです。

⇒政宗年表へ
⇒日本史年表(戦国)へ
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<参考>政宗の肖像画・銅像
政宗の肖像というと、甲冑姿の右目に眼帯というのをイメージしますが、おそらく最も知られている肖像画は上の画像のものでしょ
う。「甲冑姿に右目眼帯」は仙台城本丸にある銅像が広く知られているためだと思われます。
ちなみに、政宗は自分の肖像がには必ず両目を書くようにと申し付けたとされていますが、片目が欠けた形の肖像画もあります。

↑両目の開いた政宗像。

↑仙台城本丸にある銅像。





◆ サル関白秀吉の飼う猿は独眼龍が苦手?

これは『名将言行録』という本に載っている話です。

■猿も事前にしつけて先回り。負けず嫌いの伊達政宗
豊臣秀吉はでっかい猿を飼っていました。
サルが猿を飼うなんて…と言わないでください。

秀吉は、大名が秀吉に用があって登城してくる際に、この猿をけしかけて、大名たちの驚きあわてる様を見て喜んでいま
した。そうしている中で、仙台の大名、伊達政宗も小用で登城することになりました。

秀吉が猿をけしかけてくることは、既に有名だったので、政宗は、事前に知り合いの猿師に頼んで、秀吉の飼っていた猿を手に
入れました。そして、自分の恐ろしさを猿に思い知らせてやったのです。

いよいよ登城の日になりました。秀吉はいつも通り、政宗にも猿をけしかけました。しかし!
猿は、政宗が一睨みするだけで萎縮してしまい、政宗に攻撃的な態度を取ることもありませんでした。
秀吉は、これを見て、「政宗のヤツめは、またワシの先廻りをしおったか」と言って笑いました。

このエピソードは政宗の智謀をよくあらわしていると共に、そのプライドの高さも示しています。猿ごときに驚き慌てているようでは
ダメだということでしょう。
天下人になったサルには政宗も従いましたが。


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◆ 政宗、父・輝宗をも撃ち殺す!!

伊達政宗が家督を継いだのは、十八歳の時です。父・輝宗はまだ四十歳(くらい)でした。普通なら病気とかでもない限り、隠居
などしないはずですが、輝宗は隠居してしまいます。政宗は家督を継ぐと、すぐに攻勢に乗り出します。

■義継、突如として輝宗を拉致!
ある時政宗は、二本松城の畠山義継という人物を攻めようとします。
義継は政宗の怖さを知っていたので、政宗の父である輝宗に「何とか許してもらうようにとりなしてくだされ!」と情けなく泣
きつきます。輝宗はこれを諾して、政宗に「攻めないでやってくれ。」と願います。政宗は最初渋っていましたが、他ならぬ父
の頼みであるが故、これを承諾しました。

後日、畠山義継は、お礼を言いに輝宗の所にやってきました。
ところが、その帰り!
輝宗が門のところまで見送りに出てきた所を捕らえて、人質状態にして、逃げ出します!
伊達家の家臣たちも、すぐ後を追いましたが、輝宗が人質にされているため、手が出せず、ついに国境の川に来てしまいまし
た。

■独眼龍の悲劇
国境を越えれば、そこは畠山義継の領土であり、ますます手だしできなくなります。
家臣たちが戸惑っていると、川に入ったところで、輝宗が、「わしに構うな!義継もろとも撃て!」と鉄砲兵に叫びます。
ところが、やはり、主君の父親を殺せず、戸惑っていると、鷹狩に行っていた政宗が、異変を聞いて駆けつけてきました。

輝宗は政宗にも「撃て!」と叫びます。政宗は当然戸惑いまくりましたが、ついに輝宗もろとも撃ってしまいます。事が終わった
後、政宗は義継の死体をズタズタに斬り刻み、それを藤づるでつないで、城下に晒したといいます。

疱瘡で片目を失ったが故に、実の母親に疎まれた政宗。肉親として、たった一人の理解者であった父を失った悲しみが、怒りと
なって、死体となった義継になおも、ぶつけられたのでしょう。


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■政宗の父輝宗

↑伊達輝宗画像
政宗の父・伊達輝宗は、政宗の非凡な才能を見抜き、高く評価していました。それがゆえに、40歳という若さで、まだ18歳の政宗に家督を譲ったのでしょう。これは推測ですが、伊達家では、稙宗は子の晴宗と、晴宗は子の輝宗と争っています。輝宗はもう親子の争いはたくさんだと思っていたのかもしれないですね。

●輝宗略事績
1544〜1585。晴宗の次男。
牧野久仲や中野宗時といった反体制分子を粛清して、内部分裂を避ける一方、周辺諸国の豪族たちと争う。相馬氏とは特に対立関係が深く、十余年間戦い続けたが、天正12年に伊賀郡を回復した際、ついに講和した。同年中に政宗に家督を譲って隠居したが、翌年、講和を申し出てきた畠山義継によって拉致される途中、追ってきた政宗に自らと共に義継を撃つよう命じ、射殺された。享年41歳。




◆ 政宗、不動明王たらんとす

伊達政宗は幼い頃、疱瘡で右目を失います。まだ元服もしておらず、幼名梵天丸だったころです。

片目のない怪異な容貌で、家中の人間から気味悪がられていた梵天丸でしたが、虎哉宗乙というお坊さんに教育され、立
派に育っていきました。

■不動明王はなぜ恐い?
そんな修行中のある日、梵天丸は、不動明王があるというお寺にそれを見に行きました。

梵天丸は不動明王を見て驚きました。
「仏とは、優しい心を持っているものであるはずなのに、なぜ不動明王は、こんな恐ろしい顔をしているのか?」
すると、寺の和尚は答えました。
「不動明王は、人間の悪の部分を戒めるために憤怒の相を現しています。外見は恐ろしいですが、内には慈悲を備えて
いるのです。」
この回答に、梵天丸は「そうなのか。」と納得し、「梵天丸もかくありたい」と言ったため、これが流行語になりました。

…というのは大河ドラマの話しですが、この話は一応史料にも見られ、全くの作り話ではないということだけ言っておきましょう。


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◆ 死に装束で参陣!小田原遅参の政宗

豊臣秀吉が、天下統一を成し遂げるべく小田原北条氏を攻めた際、奥州の大名はこれに参陣したりしなかったり、悩んでいるも
のもいました。伊達政宗もその一人で、政宗は軍師・片倉景綱の説得で、秀吉の参陣催促から実に4ヶ月たって、ようやく重
い腰をあげたのです。

■こんな時は開き直るぜ
大いなる遅参ですので、政宗は「斬られるかもしれない」と考えていました。
やがて小田原に着いた政宗でしたが、秀吉は当然御立腹で、会おうともせず、政宗を底倉という所に謹慎させました。
しかし政宗は、開き直ったように「関白殿下の茶頭を勤めていた千利休殿に、茶を習いたい」と申し出たのです。
秀吉は「こんな時に茶を習いたいとはのう?」と思い、政宗に興味を持ちました。そして、ついに政宗に会うことにしたのです。

■とことん奇行で興味をひくぜ
秀吉が会ってくれると聞いた政宗は、ここでも一つ秀吉の興味をひく作戦を実行しました。謁見の日、白装束で現れたのです。
白装束は死装束ですから、「政宗は死ぬ覚悟がある」と示したのです。さらに政宗は堂々とした態度で、遅参の申し開きをします。

秀吉が「近うよれ」と言った時、脇差が差したままなのに気付いた政宗は、それをすぐに投げ捨て、秀吉の側によったといい
ます。この時、秀吉は政宗の首をたたいて「あともう少し遅かったらここが飛んでおった」と言って笑ったと言われています。こ
の時一応、政宗は許されたのです。

その後、政宗は秀吉に警戒されながらも、比較的優遇されていきます。これも政宗の魅力の成せる業でしょうか。


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◆ イタズラ過ぎた?政宗、またしても秀吉に怒られる

政宗は秀吉に従った後も、しばしば天下を自分の手に握らんとしたような行動をとります。今回のものはその一つです。

■ある意味謀叛の大いたずら?
政宗は小田原に参陣し、豊臣秀吉の配下に加わりましたが、奥州の他の大名・大崎氏や葛西氏などは、小田原に参陣しなかっ
たという理由で、取り潰しとなるなど、秀吉の奥州仕置きは着々と進んでいました。
そんな中、政宗は、取り潰された大崎・葛西の旧臣たちが一揆を起こそうとしているという情報をつかみました。そして、「こ
れはチャンスだぞ」と言わんばかりに陰からこの一揆を支援し始めたのです。この一揆を激化させ、どさくさに紛れて、領地
をさらに増やそうと考えたわけです。

しかし、途中で秀吉にバレてしまいました。政宗は、上洛を命ぜられました。今回はある意味謀叛ですので、もしかしたら斬られる
かもしれません。
そこで、政宗は今度は金の磔柱を作成し、上洛しました。何事もド派手好きのようですね。

■まさかの大どんでんがえし
秀吉の前に出た政宗は、一揆の手助けをしたという証拠の文書を見せられて、堂々と、「これは私のものではございません」
申し開きをしました。
秀吉が、「お前の字にそっくりだし、何よりお前の花押が書いてあるではないか」と言いました。花押とは、今で言うサインみ
たいなものです。普通は偽造できないような、複雑な丸みや角をもつものなのです。
すると、政宗は「私の花押は鶺鴒を模したものですが、私の場合は、花押を書いた後、さらに針で鶺鴒の目の部分を開け
るのです。この文書にはそれがないゆえ、私のものではないのです。」

秀吉は政宗が一揆の煽動をしていることには別の筋から確信を持っていましたが、いざという時に備えて、こういう細かいところ
にも気を配っている政宗に感心し、政宗の罪を許したそうです。

戦国武将たるもの、念には念を入れなくてはならないんですねぇ。


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◆ グルメ王伊達政宗

伊達政宗は「遅れてきた戦国武将」といわれて、豊臣政権、徳川幕府などに屈しながらも、常にその政権を覆そうと狙っていた武
将です。とにかく天下をひっくり返すことばっかり考えていたかのような政宗ですが、家康死後は、以外な趣味を持っています。
れは「食」です。

■意外な才能(?)が花開く
政宗は、とにかくグルメ。
戦国時代は、もちろん現代ほど様々な食材が手に入りませんでした。政宗も例外ではなく、家康の死までは、特別グルメというわ
けでもなく、何でも食べていたようです。

ところが、家康が亡くなると、なぜか食に走りました。色々な食材を使った豪勢な料理で、色んなものを味わったようです。
政宗の日課には、便所で午前と午後に各二時間ずつ、朝晩の食事の献立を考えるなんていうのもあったというから、そのこ
だわりぶりは並大抵のものではありません。

ちなみに便所には、墨と硯が用意されており、常に政宗が献立を考えることができるようになっていたそうです。

…いや、食いしん坊万歳の上をいくグルメこだわりぶりですね。


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◆ 政宗、イスパニヤのスパイを救う?

江戸時代初期、家康は他国との貿易に興味深々でした。南蛮貿易を奨励し、朱印状を与えて大名たちにも行わせました。
そんなある日、家康はイスパニヤ(スペイン)との交易を望みました。そこで、使者を太平洋航路で送りました。その使者たちの
返還および答礼の使者として日本に訪れたのが、セバスチャン・ビスカイノです。でも、彼は実は、イスパニヤ国王の命令
で、当時「金銀島」と呼ばれていた日本列島の探索にきたのでした。いわゆるスパイです

■ピンチのビスカイノを救った片目の男とは!?
ビスカイノは、日本に来ると、将軍に会いました。そして、「通商できる大きな港を探すために、東海岸の測量をお許しくださ
い」と言いました。通商が叶うと思った家康は喜んで、これを許しました。

家康は、本格的なイスパニヤとの通商が始まると思って、巨大な船をつくらせ始めました。ところが、測量を一通り終えたビスカ
イノは、家康に無断でさっさと撤収。いかにもしらじらしい逃げ方で日本を離れました。
家康は、「たばかられた!ヤツはイスパニヤの間者(スパイ)だったかもしれん!」と焦りましたが、意外にも、ビスカイノは船が
難破してすぐ帰ってきました船が壊れて、故郷(くに)に帰れなくなったビスカイノは、家康に泣きつきましたが、家康は
もう相手にしてくれません

途方にくれるビスカイノに一人の隻眼の男が手を差し伸べました男の名は伊達政宗。のちにビスカイノにとって最大の
強敵(とも)になる男との出会いでした

…ああ…すいません!強敵(とも)とかにはなりません。仲良くはなりましたが…強敵と書いて「とも」っていう関係じゃないです!
ちなみにビスカイノは、政宗に船を造ってもらって帰国しました「ちゃっかりビスカイノ」…

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◆ 仙台の地名の由来とは?

仙台は宮城県の都市ですが、この名称は伊達政宗が入った時につけられたといいます。
それまでは、字が違っていたのです。
仙台はもとは千代と書きました

■仙台の由来と千代の由来
これを仙台と変えた因は、唐の韓コウ(外字。人名です。)の詩「同題仙遊観」の中の「仙台初見五城楼」というものによっ
といいます。
政宗は、仙台の発展性を見越して、ここに居城をうつしたというわけです。

ところで、千代という地名についても少し触れておきましょう。
政宗のことを記した「貞山公治家記録」には、
「千代はかつてこの城の側に千躰の仏像があり、それで千躰と号し、それが転じて千代となった」
とあります。
千代はかつては在地領主国分氏の領土でこれが「治家記録」にあるような由来をもって名づけたということです。

しかし、現在の地名というのは様々な由来があるもんなんですねぇ。
自分の住んでる所の地名の由来を調べてみるのも面白そう。

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●城郭探訪●仙台城

↑仙台城跡。政宗の像が建ってい
る。
■仙台城の歴史
仙台城は、1600年の関ヶ原の合戦のあと、政宗が徳川家康にこの地への居城の移転を願い出て許され、同年12月24日に縄張りが開始されました。翌年から始まった普請工事は、5月までに一まず完成。
政宗の死後も改築・増築が続けらたが、一貫して、天守閣は建てませんでしたが、要害堅固にして、建物も防御に優れた構造になっていたようです。
現在は石垣などごく一部の遺構が残るのみ。本丸跡には政宗像が建っています。明治期に陸軍司令部があったこともあり、城域には護国神社、英霊顕彰館があります。

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