改易【かいえき】(政策)A
幕府が気に入らない大名を取り潰すこと。取り潰されると領地を没収され、浪人することになる。
江戸初期には多くの大名家が改易された。福島正則、小早川秀秋など関ヶ原の合戦で功のあった有力大名でも取り潰される。改易の理由は、城の無断改築や、後継者の不在など。この他に、大名の顔がムカつくから、カネを出さなかったから、ついカッとなって、記憶にございません…まではあったはずはない…と信じたい。

改新の詔【かいしんのみことのり】(出来事)A
646年に出された大化の改新の改革の根本を成す詔で、その内容は、@皇族・豪族による個別の人民支配体制から、公地公民制への変更。A地方行政制度を確立(国・郡制)し、中央集権的政治体制の構築。B戸籍・計帳を作成し、班田収受法を行う。C新たに統一的税制を施行する。…など。
基本的には唐のマネッコ。でも、これで、古代日本に中央集権国家体制がもたらされたのだ!

外戚【がいせき】(名詞)A
基本的には母方の親戚のことを指す。
平安時代の藤原氏の摂関政治あたりではよく登場する言葉。天皇あるいは皇太子に娘を嫁にやって、外戚として政治を見るというのが目的。また、天皇がまだ幼くして皇位につけば摂政、成人しても関白という役職について政治の実権を握った。要するに権力がほしくてやる婚姻作戦というわけですな。

解体新書【かいたいしんしょ】(書名)A
江戸時代の医師杉田玄白とか前野良沢とかが中心になって編纂した人体構造の本。
オランダの「ターヘルアナトミア」を訳したものだが、彼らは別にオランダ語を話せたわけではなく、蘭和辞典などを使いながら、
一つ一つ訳しつつ書いたらしい。現代にすると、かつて週間で出ていたデアゴ○ティーニの「ヒューマ○ボディ」に通ずるものが
ある。
そういえば、徳弘正也氏のマンガで、「ターヘルアナ富子」っていうのがあったなあ。ちょっと読んでみたい気もする。

影武者【かげむしゃ】(名称)B  
戦国大名など暗殺の危険にさらされる人物が、自分そっくりの人物を自分の身代わりとすること。
影武者となる人物には、容姿はもちろん、仕草や行動などもそっくりであることが要求される。影武者選びの第一歩は、まず姿形。そっくりな者がいなければ話にならない。その後、徹底的に仕草、行動を叩き込み、ようやく影武者として役にたてる。戦国武将では、武田信玄や真田幸村(信繁)などの影武者が有名だが、平安時代の平将門にも7人の影武者と共に描かれている絵図があり、実際に殺されたのは本当の将門ではない、などという話もあった。
ちなみに隆慶一郎先生の「影武者徳川家康」という小説はなかなかに秀逸。だが、影武者があんなにみんなの信頼を得て、本物になりすませるなんて…何気に恐ろしい。

ガダルカナル島【がだるかなるとう】(島名)B
南太平洋のソロモン諸島に属する島。現在、ソロモン諸島の首都・ホニアラがある。
太平洋戦争時は、日米双方から重要視され、飛行場の建設が困難を極めた島である。1943年2月に日本軍は完全撤退。この
島の維持と補給を巡って、ソロモン海では何度も海戦が行われている。
ちなみにブーゲンビルは、ガダルカナル島から北西に300キロくらいのところにある島。日本軍は、ガダルカナル島撤退のあと、
ここに一旦兵士を集めていた。
最近、先住民と移住民との間で内戦が発生したというが、現在は終息している。

勝海舟【かつかいしゅう】(人名)A
幕末に先進的な感覚で活躍した幕臣。麟太郎。
蘭学を学び、長崎海軍伝習所で航海術を会得した。また、咸臨丸の乗員として、米国に渡ったりもしており、当時としては外国
に関する知識も豊富で、先進性に非常に優れていた。
開国を口にしていたため、攘夷派の志士に命を狙われた。何を隠そう、坂本龍馬も勝を殺そうとした一人。龍馬は、勝を斬るつ
もりで屋敷を訪れたが、逆に勝の話しに感銘を受けて、そのまま弟子入りした。龍馬とは、その後密接な付き合いとなり、神戸
の海軍操練所でも勝や龍馬が共に活躍している。
戊辰戦争では、江戸城無血開城のために奔走。しかし、勝自身は、万が一に備え、官軍が入る前に江戸の町へ放火するよう
命じており、無血開城が成立したあと、勝は放火をとめるためにまたしても奔走したという。
維新後は、新政府に属し、海軍卿、枢密院顧問などを歴任した。
幼いころにキンタマを犬に噛み付かれて、以来、犬が大嫌いだったという。

鎌倉新仏教【かまくらしんぶっきょう】(名称)A
鎌倉時代に発生した新しい考え方の仏教。全6種類。
その6種とは、法然の「浄土宗」、これをさらに問い詰めた親鸞の「浄土真宗(一向宗)」、一遍の「時宗」、日蓮の「日蓮宗(法華
宗)」、栄西の「臨済宗」、道元の「曹洞宗」。浄土宗と浄土真宗は念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることを主とし、一遍は踊念仏、
日蓮宗は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることを主とし、臨済宗と曹洞宗は禅宗である。それぞれに特徴的な信心があり、当
時は弾圧された宗派もある。
学生時代は誰がのど宗派かを覚えるのに苦労したもので、ことに栄西と道元がこんがらがりやすいのか、ここだけは先生が覚
え方を教えてくれた。栄西は「サイ」がつくから臨済宗、道元は「ドウ(トウ)」がつくから曹洞宗…という具合である。イメージは
わきやすいが、私の友人には、「道元はトウがつくから…えーと……何だっけ?」という根本的なヤツがいた。

鎌倉の大仏【かまくらのだいぶつ】(通称)A  
鎌倉市の長谷にある大仏で、正式名称は「高徳院阿弥陀如来像」という。
はじめに完成した1243年には、木造だったが、1252年に浄光という上人の勧進で金銅造に改造された。大仏殿があったが、1495年の津波で倒壊した後は、野ざらしとなっている。東大寺の大仏の次に大きい由緒ある大仏だが、最近は、立派な立像を建立して、名所にしている町があるらしく、そういう最近できた大仏も入れると、二番目じゃないかも。ちなみに鎌倉の大仏は座高11.38Mである。

鎌倉幕府【かまくらばくふ】(政治組織)A
1192年、源頼朝が、鎌倉にたてた武家政権。
大きく政所・問注所・侍所で構成される。頼朝死後は、執権の北条氏が政権を握り、将軍はほぼ無視された。
「いいくにつくろう鎌倉幕府」で超メジャー。しかし、実際にはあんまりいい国をつくってない。

神風特別攻撃隊【かみかぜとくべつこうげきたい】(名称)A
日本海軍が提案した爆弾を積んだ航空機ごと敵艦に突っ込んでいき、より確実な被害を求めた攻撃作戦。特攻隊と略される。
言うまでもなく、搭乗しているパイロットも死亡する。海軍の大西瀧次郎中将がはじめて命じたという(大西中将は終戦の翌日、特攻隊として散った英霊たちに謝して割腹自殺)。
零戦特攻が多かったというが、特攻のために造られた機体ロケット「桜花」や「橘花」といった航空機もある。ただし、「桜花」は自己発着陸能力を持たず、別の航空機に運んでもらい、目標の地点で切り離されて、敵艦に体当たりする。「橘花」は終戦間近にテスト飛行に失敗し試作機が造られたのみであった。

甕割り柴田【かめわりしばた】(あだ名)C
織田家筆頭家老・柴田勝家のあだ名。城内の水瓶を全部割って、決死の籠城をしたことからついたあだ名らしい。
関係ないけど、笑い方が「ガハハ」がよく似合うお方である。


官位【かんい】(名称)A  
官職ともいう。朝廷の役職のようなもので、やたらたくさんある。
律令制がしかれていた頃は、位階が基本で、これに対応するように官職が与えられるようになっていた。武家政権も当たり前になってきた室町・戦国あたりでは、ただの名誉だったりする。自称しちゃうヤツも出たりして、お話にならないような状態に。でも、名誉としては、周囲に幅を利かせられるので、みんなこぞって朝廷に働きかけていた。

冠位十二階の制【かんいじゅうにかいのせい】(制度)A  
603年に聖徳太子が制定したとされている位階制度。十二階とは「徳」、「仁」、「礼」、「信」、「義」、「智」をそれぞれ大小にわけたもので、冠位によって衣服の色が異なる。
基本的に氏族社会であった飛鳥時代においては、「身分・家柄のよくないけど能力のある者」が活躍することができなかった。そこで、能力のあるものに冠位を与える形で、制度上の上下をつくることで、能力者については家柄などに関係なく登用できるようにしたのが、この制度(官僚制)である。ただ、氏族社会の風潮が根付いた当時において、それまで優位であった豪族たちにこういう制度を理解させるのは容易ではなかったらしい。太子は、翌年「憲法十七条」を制定して、この官僚制の解説などを盛り込んで浸透させようとしている。
とはいえ、最有力豪族だった蘇我馬子が序列されていないなど、もともと有力だった人たちは、冠位をもらってない。要するに、身分や家柄が低いけど能力はあるものを序列したに過ぎないらしい。とほほ。
冠位十二階の衣服は上から紫、青、赤、黄、白、黒でわけられた。「信」の冠位の人は黄色を着なくてはならない。…派手だなぁ…。

巌流島【がんりゅうじま】(名称)C  
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘を俗に「巌流島の決闘」と呼んでいる。「巌流」は佐々木小次郎の名乗りで、決闘が行われた島は正式には「船島」という。その名の通り、船の形をした島。
敗者である小次郎の名乗りをとって「巌流島」となったのは、おそらく日本人の好きな同情心的なものがあるのであろう。
武蔵は天下無双だから、無双島でもよかったのに。


 

北山十八間戸【きたやまじゅうはっけんど】(建造物)B
律宗の忍性が建てた病院的施設。主に癩病患者を収容。
名前の由来は、建物の長さが十八間だったから。今も奈良に残っているが、極めてさりげない位置にあり、発見しづらい。行くなら地図をよく見て行こう。

紀貫之【きのつらゆき】(人名)A
「男もすなる…」で始まる有名な『土佐日記』の著者。当時は仮名は女性のみが使用するものだったが、貫之は、女性に成りきって、仮名を交えてこの日記を書いた。なので、後世においても、文学史的な価値を見出されているが、当時としては気色悪いと言わざるを得なかったことであろう。特に貫之の奥さんは…。
ちなみに古今和歌集の編者でもある。比較的下級の官位ばかり歴任しており、役人としては下級官僚だったっぽい。
 

牛馬耕【ぎゅうばこう】(農業)B
牛馬を使って耕すこと。西日本では牛、東日本では馬を主に用いた。
要は大変だった耕作作業を牛まかせにしたってこと。さりげない知恵である。

御意【ぎょい】(言葉)A
主に了解、わかりました、承知しました、などの時に使うらしい。
これを使うと、武士らしくシブく決まり、かっこいい。職場で、「原田クン、これコピー頼むよ。」「御意。」と言ってみよう。間違いなく、叱られるであろうが、シブさとかっこよさの余韻を味わうことができるぞ。(無意味)

享保の改革【きょうほうのかいかく】(政策)A
江戸徳川幕府八代将軍、吉宗が行った改革。
年貢の取り立て法を検見法から、定免法に改め、目安箱の設置や、足し高の制の制定、上米の制、また、公事方御定書を作らせるなど、新感覚の政治に富んでいた。この改革は吉宗自身の質素倹約の志も好を奏し、一時的に幕府の財政の建てなおしに成功した。
やっぱり、市民の意見を聞いてくれる領主がいいんだなぁ。ウチの市にも目安箱を設置してほしいものである。

京枡【きょうます】(名詞)A
戦国時代に京都を中心として用いられた枡。豊臣秀吉が公的に採用し、全国の枡をこれで統一した。
京都中心からはじまって京枡…。またも安直な名づけ方である。

清洲会議【きよすかいぎ】(名称)B
1582年の本能寺の変ののち、信長の跡継ぎを決めるべく、織田家の重臣たちが集まって行われた会議。参加者は、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4名であると言われる。
内容としては、要するに信長の跡継ぎ相談ではあるが、具体的に言うと、勝家が信長の三男・信孝を推したのに対し、秀吉は信長の嫡孫・三法師を推した(嫡男・信忠は本能寺の変に連座して死亡、次男・信雄はなぜか名前出ず)。秀吉の「嫡男に御子がいるのであるから、その御子が跡を継ぐのが順当である」という理路整然とした口上に、丹羽・池田らは異存はなかったが、勝家は辛くも「三法師様はまだ3歳」と反論。しかし、秀吉に「(光秀を討った)わしが後見するゆえ心配無用」と言われ、どうしようなく、その場は引き下がった。…けど、やっぱり勝家は気に入らなかったらしい。あとで、秀吉のもっと対立して合戦することになる。

キリシタン大名【きりしたんだいみょう】(名詞)A
大名がキリスト教信者だとこう呼ばれる。大友宗麟や大村純忠らは天正遣欧使節などで、えらい有名だが、豊臣秀吉の配下の、小西行長や、黒田如水らもキリシタン。また明石全登なんかも割と有名。
入信する動機としては、「イエスの教えに共感して」、「キリスト教に興味を持ったから」などはもっともだが、「宣教師がかっこよかったから」「面白そうだったから」「入信特典があるらしいから」なんていうのも…あったりしたら、実に非礼である。でも、南蛮貿易による利益を求めて入信する計算高いヤツはたくさんいた。

記録所【きろくしょ】(機関)A
建武の新政の中心機関。行政・司法などの政務を担当した。
平安末期に親政を行った後三条天皇にあこがれた後醍醐天皇が、あこがれのままにはじめた政務機関である。

きんかん頭【きんかんあたま】(あだな)C
明智光秀のことを指す。信長が光秀の頭が柑橘類のキンカンに似ていると感じた(らしい)ことからそう呼ぶようになった。
信長文書では、「きんか頭」とされており、「ん」は省略可能。

 

空海【くうかい】(人名)A
真言宗の開祖。弘法大師のこと。本山は高野山金剛峰寺
中国にわたって得てきた書物を、天台宗の最澄に貸したりしてたが、途中で貸すのをやめたら嫌われてしまったという。達筆
で、三筆の一人にも数えられるうえ、「弘法も筆のあやまり」などということわざにも登場する、超メジャーなお坊様。

盟神探湯【くかたち】(名称)B
被疑者の正誤をはかるための方法。被疑者に熱した石を握らせたり、熱湯に手を入れさせたりする。手がただれた場合は、被疑者は悪人と断定される、逃れ様のない裁判。正常な人間ならば誰でもただれるため、この占いをされた時点で、無罪はありえない。逆にただれないヤツの方が怖い。

楠木正成【くすのきまさしげ】(人名)A  
南北朝時代に後醍醐天皇(南朝)に味方して活躍した武将。戦術に優れ、熱湯かけや丸太攻めなど様々な掟破りの戦術で、鎌倉幕府などの大軍を相手に戦った。最後は、献策を退けられて出陣した湊川の戦いで、足利尊氏の大軍に寡兵で奮戦したが、自害した。
なんだかんだで大軍相手に戦って、善戦しまくるお方。本人にMっ気があったかどうかは定かではない。

百済【くだら】(国名)A
朝鮮半島の南部にあった国。かつて朝鮮は大きく四つにわかれていた。「百済」は「ひゃくさい」とも読む。
隣国新羅に対抗するため、日本と結んだが、新羅は唐と連合して攻めてきた。救援のはずの日本軍も白村江の戦いで敗れ、踏んだり蹴ったりな結果に。ちなみに百済からの渡来人も多い。

黒田官兵衛【くろだかんべえ】(人名)A  
名前は孝高。官兵衛は通称。出家して如水。後にキリスト教に入信。洗礼名はドン・シメオン。実にさまざまな呼び方である。
信長配下時代から秀吉に仕え、軍師として活躍。信長を裏切った荒木村重を説得に行くが、失敗して捕まり、立つこともできないほどの狭い牢屋に一年間も入れられ、足が不自由になってしまった。秀吉の天下統一後は、その才能を逆に恐れられ、九州の筑前国中津12万石という、功に不釣合いな小録に甘んじた。
関ヶ原合戦では、徳川家康につき、戦場には息子の長政を送り、自身は九州で西軍方の城を次々に攻略。戦が終わり、帰ってきた長政に「家康公は、私の手を握られ、謝辞を申されました」と報告を受けると、「その時お前のもう片方の手は何をしていた?」と言ったという。「なぜ家康を討たなかったのか」というわけである。こんなことから、関ヶ原時の九州敵城攻略は、天下を狙っての行動だともいわれる。
軍師としては優秀で、信長死すの報を受けた秀吉に、「天下をとるなら今ですぞ」と言ったともいうが、才能が溢れすぎて、割と小心者な秀吉には散々警戒された。残念。

 

下剋上【げこくじょう】(名詞)A
下の者が上の者にとってかわること。戦国時代の風潮。
たとえば、ある大名の家臣だった者が、主である大名を滅ぼして、自分が大名になった場合は、これは下剋上。斎藤道三などのように一般庶民から一国を乗っ取るほどの強者もいる。関東地方の北条早雲、主家・三好家をいいように操った松永久秀なども有名。そもそも三好家も下剋上か。
戦国初期は、ことに幕府の権威が落ち、守護大名の力も弱くなっていたので成功例も多いが、戦国時代も信長が台頭してくるような時代に入ってくると、そうは成功しなくなる。明智光秀は信長殺しには成功したが、結局13日後には殺されてしまうし…。段々やりづらくなるので、下剋上はお早めに。

検見法【けみほう】(政策)A
年貢の取り立て方の一種。年貢率を定めず、各年の取れ高で年貢率を決めるやり方。
つまり、豊作の年はより多くの年貢をとられるので、手放しでは喜べない。もちろん不作よりはマシなんだけど。

元寇【げんこう】(事件)A
元は中国の王朝名。元が日本に攻めてきた事件を指す。1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2つがある。「蒙古襲来」というわかりやすい言葉も使われる。
元軍は精強で、しかも「てつはう」と呼ばれる火薬を使用した日本軍にとっては未知の兵器などで攻撃してきたが、2度とも嵐に見舞われ、侵攻作戦は失敗に終わった。この外寇を教訓に時の執権・時宗は海岸防衛策を強化している。
ただ、日本軍では必死に戦った御家人たちへの恩賞を充分に与えられず、結果的には御家人の不満を増加させ、幕府転覆への一つの契機となったように見えなくもない。

源氏物語【げんじものがたり】(古典)A
平安時代に紫式部が書いた、長編恋愛小説。当時も今も大人気。
内容を簡単に説明すると、光源氏という男前が、いろんな女と恋愛してやりまくっちゃうお話し。お下品な書き方になったが的は射ていると思う。光源氏が主人公なのに、彼は途中で死んでしまい、その子が主人公を引き継ぐ。長くてなかなか読む気しない。ラブストーリー好きな人は読んでみそ。

遣唐使【けんとうし】(名称)A
唐は中国の王朝名。唐に使いを遣わすから、遣唐使。そのまんま。ひねりなし。630年の犬上御田鍬の派遣が最初。
お勉強や交流などの目的があったが、894年に菅原道真の、「唐から学ぶ事なんてもうねぇよ。」という、大胆不敵な献言により廃止された。
「ハクシ(894)に戻そう遣唐使」と覚える。これは「おれは直角」のTVアニメの主題化に入っていた一節。
姉妹品に遣隋使があるが、隋のほうが先なので、お間違えのないように。特に習いたての中学生は注意。

源平藤橘【げんぺいとうきつ】(その他)B
源氏・平氏・藤原氏・橘氏を表す。征夷大将軍になるには、源氏の流れを汲むこととされているが、別にそうでもないらしい。
それはさておき、どれも由緒が正しい。ちなみに信長は平氏(自称・でも、元藤原氏)。家康は源氏(自称)。だが、秀吉は百姓の子なので、姓はなし。かわりに公家の人の養子になって、藤原姓を名乗ったことがある。でも、最終的には豊臣姓を創っちゃった。

憲法十七条【けんぽうじゅうしちじょう】(法制)A
604年に聖徳太子が作成したといわれているわが国初の憲法。当然だが全十七条で構成される。なぜかひっくり返して「十七条の憲法」と書いている本もあるが、成立当初は、「憲法十七条」という名称はなかったかもしれない、とも言われているので、それは別にいいのかもしれない。
憲法というよりは、聖徳太子による政治の理想のようなものを示した内容になっているが、この前年に太子は「冠位十二階の制」を開始しており、この冠位十二階というものについての説明的な文句も入っている。現在のような法律としての憲法ではない。
学生時代はこれの資料問題が出て泣きを見たなあ。この憲法の2条が、「一、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」というんだけど、「仏・法・僧」の部分が「○・○・○」になってて、「空欄を埋めよ」っつーわけ。結局自分は「仏」しか書けなかったんだけど、友人には「金・銀・銅」って書いてたヤツがいたなあ。珍回答として先生にテスト返しの時にさらされてた。笑った。

建武の新政【けんむのしんせい】(政策)A
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇がはりきってはじめた新政治体制。延喜・天暦の治を理想として様々な政策を実施した。
しかし、公家優先の政治体制をとったため、武士からは不満を買ってしまう。しかも、後醍醐天皇が張り切りすぎていて、様々な政務を自らみようとしたため、仕事がたまり、効率も悪かったらしい。これに対し、武士層の期待を一身に背負った足利尊氏が反旗を翻し、二年ほどで瓦解。しかし、執念深い後醍醐天皇は大和(奈良県)の吉野に逃れて、南朝をたてた。

元明天皇【げんめいてんのう】(皇族)A
女帝。天智天皇の第四皇女。草壁皇子の妃であったが、若くして崩御した文武天皇の遺志により、707年に即位。710年の平城京遷都、律令国家の確立に尽力した。ちなみに和同開珎の鋳造、『古事記』編纂(712年)、『風土記』編纂(713年)の推進なども行った。


 

弘法大師【こうぼうだいし】(諡号)A
空海の諡号。空海は本名でも諡号でもどっちでも有名だなあ。三筆の一人で、「弘法も筆のあやまり」というずっこけ系(謎)のことわざにも登場する。空海自身は、学問と宗教のこと以外にも芸術面、社会事業面などでも優れた功績を残している超人。平安時代後期の密教ブームの時は、空海にまつわる伝説がいろいろ作られたらしい。一方、ライバル的な存在(?)である最澄のほうは伝説が少ないらしい。

御恩【ごおん】(名詞)A
奉公してくれた部下に対して、褒美で報いること。よくやってくれた、これを褒美にやろう、ってな感じ。
領土を加増することが多いようだが、元寇の時などは、新たに得た領土がないため、領土をあげることもできず、苦情が殺到した。褒美がもらえず、商人から借金する武士まででるようになってしまったため、幕府は責任を感じてか、徳政令を出したりした。

古今和歌集【こきんわかしゅう】(歌集)A
日本最古の勅撰和歌集で、醍醐天皇の勅による。選者は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)ら。全20巻。歌数およそ1100首。「八代集」の一つ。紀貫之による仮名を用いた序文も著名である。
万葉集には「防人の歌」や「東歌」など、詠み人が多岐に渡ったため、歌風も様々で、「長歌」、「旋頭歌」など歌風による分類まであったが、古今和歌集では、貴族などの詠み人が多く、比較的理知的な中にも贅を漂わせる歌が多くなっているという。万葉集では、「ますらおぶり」と称されたが、古今和歌集では「たおやめぶり」とされ、平安時代という平穏無事な時代を象徴していると言える。

御家人【ごけにん】(名詞)A
主君と主従関係を結んだ武士のこと。
この主君と御家人は「御恩と奉公」という強い絆で結ばれている。それどころか二人の間には主従関係を超越した愛情すら芽生え…たら怖い。

後小松天皇【ごこまつてんのう】(皇族)D
南北朝動乱期の北朝の天皇
南朝の後亀山天皇に正式に譲位され、南北朝合一が成り、正式に統一皇室の天皇となった。
というわけで、北朝最後の天皇ともいえる。

五大老【ごたいろう】(役職名)A
豊臣政権時代の5人の大老どもをさす。そのメンバーは徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の5人。
実際には五大老とは呼ばれず、大老職が5人いたから、後世、安直に五大老と呼ぶようになっただけらしい。初めは上杉景勝を除き、小早川隆景が名を連ねていた。のち、上杉景勝も加えて六大老(そうは呼ばないが)となり、小早川隆景死後に、よく知られる五大老となった。

五奉行【ごぶぎょう】(役職名)A
豊臣政権時代の5人の内政官どもを指す。メンバーは石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家、浅野長政の5人。
五大老よりも立場的に下位だが、三成は何を思ったか、秀吉の寵愛をいいことに増長していたようだ。そんなことをしているうちに、徳川家康と対立していた。

古墳【こふん】(名詞)A
古代の大王の墓。方墳、円墳、前方後円墳、前方後方墳など様々な種類が造られた。
古墳が頻繁に造られたのは、5世紀〜6世紀ころで、この時代を古墳時代と呼ぶ。大阪の前方後円墳である「大山古墳(仁徳天皇陵)」などは最大級として有名である。
激しく余談だが、マンガ「キン肉マン」の夢の超人タッグ編決勝戦で、テリーマンが、「古墳は地球の機能を動かしたり、止めたりするための鍵穴なのさ」と言っていたが、テリーマン説をとると、そんな重要な鍵穴なのに日本中そこかしこにあって、多すぎ。というわけで、ニベもなく否定するしかない。しかし、マンガではその説をネプチューンマンたちが証明してしまっている。アメリカの超人のくせにテリーマンすげぇ。
U世では、このアポロンウィンドウで時間を…時間を…。キン肉マンU世をよろしく。

今宵はここまでにしとうございます【こよいはここまでにしとうございます】(セリフ)A
大河「武田信玄」が毎週終わる時に、ナレーション役の若尾文子さんが、これを言って終わった。
この終了のセリフが、世間一般に流行し、一部では、飲み会の終了を告げる言葉や、残業を終わらせてアガりたい時の、意思表示などとして使われたらしい。応用編は他にもいくつかあり、丁寧な語り口調が非常にウケがよかった。

五稜郭【ごりょうかく】(城名)A
江戸幕府が蝦夷(北海道)の函館に建てた星型の城塞。フランス人技師の指導のもと、西洋の技術を取り入れて造られた難攻不落の要塞…のはずだったが、予算が足らず、実は設計図通りには完成していない。今行くとちょうど一つだけ▼地帯があるところがあるが、あれは半月堡といって、本当は五箇所に設けられる予定だった。
1868年に榎本武揚が占領。函館独立政府構想の本拠地となったが、翌年明治新政府の総攻撃で陥落。新撰組の土方歳三も榎本側で、この地で戦ったので、新撰組ファンにも人気が高い(と思う)。
ちなみに近くに四稜郭というのもある。こちらは強いて言うならひし形。突貫工事で造ったはいいが、やはり新政府軍の攻撃で早々に陥落したらしい。(というかほとんど交戦しないで守備隊撤退した。)近年、整備されたので、今も函館に行けば見ることができる。

ゴローウニン【ごろーうにん】(人名)C
ロシアの海軍士官。ディアナ号の艦長として、世界周航航海を任じられた。本名は、Vasilii Mikhailovich Golovnin。読み方によってゴローニン、ゴロブニンなどとも表記される。
1811年、択捉島や国後島を測量中に、江戸幕府の役人に捕らえられ、松前や箱館に監禁されたが、翌年、ディアナ号の副艦長・リコルドが、国後島沖で捕らえた高田屋嘉兵衛と引き換えに、1813年に解放された。この交換釈放は、高田屋嘉兵衛が日露の関係悪化を危惧して、働きかけたものだという。
著書に、2年3ヶ月の監禁生活を綴った『日本幽囚記』がある。


金剛峰寺【こんごうぶじ】(寺名)A
和歌山県の高野山にある、真言宗の総本山。816年に空海が開いた。教王護国寺での真言宗の伝教が一般的になり、10世紀頃に一時衰退。しかし、平安中期の白河上皇の行幸以降、貴族らの支持を得て、寺の規模を拡大した。南北朝期には、武士や庶民の参詣も相次ぎ、宿坊制をとり、僧兵なども抱えた。1585年に豊臣秀吉に降伏。のち2万石以上の朱印地を領して、大名格寺院の扱いを受けた。
「高野山金剛峰寺」と「比叡山延暦寺」でセットで覚えた人が多いでしょう。「峰」の字を忘れて、テストで「金剛ぶ寺」と書いた人はいないだろうか。いませんか。いませんね。

近藤勇【こんどういさみ】(人名)A
新撰組局長。武蔵国多摩郡上石原村の豪農・宮川久次郎の三男。
天然理心流の近藤道場で師範代を勤めていたが、同流三代目の近藤周助に見込まれ、正式に養子となって4代目を継いだ。
土方歳三や、沖田総司などとは、この道場にいたころからの知己で、永倉、原田なども近藤道場に食客としてやってきたという。
道場主なのに、剣の腕前は弟子であるはずの沖田や食客の永倉などの方が優れていたと言われるが、近藤は実戦にはめっぽう強かったらしい。
30歳の時、将軍・家茂上洛警護の目的による浪士募集に応募したことで、京都に上洛。京都で新撰組を結成し、不逞浪士の取り締まりに活躍する。鳥羽・伏見の戦いで敗れたあと、江戸に戻り、甲陽鎮撫隊などを結成して幕府軍として戦うが、やがて流山の最後の戦いののち、新政府軍に投降。坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられていたため、土佐藩の執拗な取調べの結果、斬首に処された。享年35歳。
拳が入るほど口が大きかったといい、それを見せて、隊士を笑わせるようなこともあったという。

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