最恵国待遇【さいけいこくたいぐう】(外交)A  
複数の国と同盟している場合に、一つの国に認めたその国が有利になる取り決めは、他の同盟国すべてにも同様に適用され
るという立場の弱い側においしくない制度。幕末に主に契約されたが、不平等条件については、その後ひとつずつ改正されて
いった。

西郷隆盛【さいごうたかもり】(人名)A
維新三傑の一人。薩摩出身の巨漢。
尊皇攘夷派で、1866年、坂本龍馬の仲立ちで、元来不仲だった薩長同盟を結んだ。戊辰戦争では、政府軍の参謀として、江
戸城無血開城を実現させた。維新後は参議となったが、征韓論で破れ下野。のちに鹿児島で不平士族に祭り上げられて西南
戦争を起こした。
肖像画は実はモンタージュ写真で、本物の西郷は、とにかく写真が嫌いだったらしい。

斎藤道三【さいとうどうさん】(人名)A  
下剋上によって美濃国一国を乗っ取った戦国大名。蝮とあだ名された。
法蓮坊⇒松波庄五郎⇒西村勘九郎⇒長井新九郎規秀⇒斎藤利政⇒斎藤道三と、下剋上を繰り返すごとに名を変えていたと
される。通説では、道三は幼いころ出家していたが、やがて還俗し、油売りの商人となって美濃に来訪。守護・土岐家の家臣の
長井家に近づき、永禄銭の真ん中の穴に油を通すなどの芸や、弁舌で取り立てられる。やがて長井利安を暗殺して、長井氏を
継ぎ、さらに守護代家であった斎藤家の断絶に介入して、斎藤家を継ぐ。これで大きな権力を握った道三は、ついに守護の土
岐頼芸を攻撃して追放し、美濃を乗っ取ったのである…とされていたが、最近の研究によると、実は、道三の父の代の時に、す
でに守護代・斎藤家の家臣となっており、斎藤家の断絶後、その遺領を斎藤家の家臣で分配したのだが、道三の代の時、そ
のほかの家臣たちを討って、斎藤家の名跡を継ぎ斎藤家を名乗ったというのが真実らしい。
いずれにせよ、道三が下剋上により国を乗っ取ったのは言うまでもないが、乗っ取った後のビジョンはあまりなかったのか、国
政もたいしたことはやっておらず、割と早い段階で息子の義龍に家督を譲っている。やがて「うつけ」と呼ばれていた尾張の織
田信長と正徳寺で会見。信長の器量を見抜き、「わしの息子たちはいずれヤツに屈するだろう」と言ったとされる。
義龍に長良川で討たれる。義龍は、実は土岐頼芸の息子で、それを知った義龍が実父の復讐のために道三を討ったと言われ
るが、どうやら江戸時代の創作らしい。

斎藤義龍【さいとうよしたつ】(人名)B 
美濃の蝮こと斎藤道三の長男。
義龍は、一説に道三が美濃から追い出した元守護・土岐頼芸の子と言われている。それというのも、道三がまだ土岐頼芸の家
臣だった時に深芳野という側妾を下されたのだが、これがどうも下された時すでに身篭っていたらしく、そして生まれたのが義
龍だというからである。ただ、これは江戸時代の創作らしい。実際には、道三を討った後、「下剋上の斎藤姓」より、「正統な守
護家である土岐姓」を名乗っていた方が、国をまとめるのにちょうどいいと考えていた義龍が国内にそう喧伝していたということ
らしい。ちなみに、この後、義龍は足利将軍家に働きかけ、一色の姓を賜っているので、どうにか「斎藤道三の子」というイメー
ジを覆したかったのであろうことはうかがえるらしい。
美濃に信長が攻めてきても、堅城・稲葉山城を拠点に、散々打ち破り、美濃侵攻を阻み続けた。やがて病を得て死去。

坂下門外の変【さかしたもんがいのへん】(事件)A
1862年、老中安藤信正が、尊攘派の水戸浪士などに襲われた事件。
安藤は同年、公武合体政策の一環として、孝明天皇の妹・和宮と将軍家茂の結婚を成立させたため、尊皇派の者たちに恨まれており、それが原因になって襲われた。安藤は負傷だけで逃げおおせたが、逃走したことを「武士にあるまじき行為」と非難され、失脚してしまった。あわれ。

佐賀の乱【さがのらん】(事件)A
1874年、征韓論争に敗れて下野した江藤新平が、故郷の佐賀で不平士族の集団・憂国党の島義勇などとともに蜂起した事件。
江藤ははじめ、過激な考えを持つ憂国党を改めさせようとしていたものの、江藤を憎む大久保利通が憂国党に流した「江藤が憂国党と共に蜂起しようとしている」という流言のために、江藤が憂国党のところに着いた時には、すでに状況はのっぴきならないものになっており、やむなく蜂起に加わったとも言われている。大久保は、にっくき江藤に大罪を犯させようとしてやったともされていて、だとすると、大久保はまさに外道だね。
ちなみに乱は、この時期の他の不平士族の乱にしては半月ほどの長きにわたり続いていて、これまた大久保が江藤の罪をできるだけ重くしようとして、ある程度泳がせていた節もあるらしい。大久保、まさに外道だね。江藤は敗戦著しい状況で西郷隆盛に救いを求めて拒否され、結局、乱は鎮圧される。江藤は捕まり、裁判で「梟首(きょうしゅ):さらし首(当時の最重刑)」の判決となる。ここでまた大久保ですよ。大久保は、江藤のさらし首を写真に撮らせて、各官庁に送りつけた。いや〜、大久保利通…まさに外道!!

佐々木小次郎【ささきこじろう】(人名)B
生没年不詳の江戸時代の剣豪。武蔵のライバル。
越前か周防のどちらかで生まれたとされている。武者修行の末、小倉藩の剣術指南役に就任した。巌流島の決闘で宮本武蔵に敗れる。
小次郎は生没年不詳なだけに、決闘の時の年齢もよくわかっていない。江戸時代後期あたりには講談などでもとりあげられた巌流島の決闘だが、当時は、かなりの老剣士という設定になっていたらしい。しかし、現代では、やはり容顔美麗なる生年剣士というイメージが強くなっている。これは、吉川英治の小説『宮本武蔵』の影響があるという。
吉川『宮本武蔵』を原作とする井上雄彦の『バガボンド』では耳が不自由だが、幼年から刀にばかり興味のある人物として描かれている。

雑訴決断所【ざっそけつだんしょ】(機関)A
建武の新政の中心機関。いわゆる裁判所で、土地関係の訴訟を主に取り扱った。
なお、雑訴決断所長のことを頭人とよぶ。土地関係なので、所領問題も含まれるわけだが、時代が時代だけに所領に関しては、結構シビアな訴訟が多かったらしい。

【さる】(あだな)A
豊臣秀吉のことを指す。
信長が秀吉の顔が猿みたいだったからつけたあだ名だと言われるが、実際には、信長は秀吉のことを禿げネズミとは呼んでいるが、猿と呼んだ文書は存在しないらしい。大河ドラマなどマスコミでは、「猿」がお気に入り。逆に禿げネズミと呼ばせたことは、ほとんどない。
ヤンマガ連載中の『センゴク』では、リアルさを追求しているらしく、しきりに「はげねずみ」と呼ばせていて、結構違和感が…。この漫画、なんかだんだん各キャラの鼻が縦に長くなっていくような気がするんだけど。

三管領【さんかんれい】(呼称)A
室町幕府の役職・管領になれる守護大名三家を呼ぶときの通称。三家とは、細川・斯波・畠山の足利一門三家。
この三家、室町時代には名門なのに、戦国時代にはもう見てらんない。

斬首【ざんしゅ】(名詞)B
首を斬ること。主に、捕虜や罪人の処断の際の処分方法の一つとして用いられる。
捕らえた敵将に対し、「○○は斬首に処す」とかね。首を斬れば当然死ぬので、要するに死罪。切腹の処断がくだった場合、見事に腹を斬ったあとに首を斬るが、この場合は介錯という。

三種の神器【さんしゅのじんぎ】(呼称)A
天皇位の証となる三つの宝物のこと。洗濯機、白黒テレビ、冷蔵庫のことではない。
八咫鏡(やたかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三つ。古代王権ではシンボルだった宝物を神器としていて、即位には絶対必要なものとされているが、源平の戦いの時に平氏が海に投げ込んで紛失したり、南北朝時代には偽物の神器で即位したりと、割とアバウトな扱いになっている。
ちなみに洗濯機、白黒テレビ、冷蔵庫は、戦後に急速に普及した民間人の三種の神器。時代がさらに下って、1960年代後半以降は、カラーテレビ、車、クーラーで構成される。さすがに民間人の三種の神器は実用性にあふれている。
現代で三種の神器を言うとすると、必ずパソコンが入ってくるであろう。あとは…なんだろね…。

三蹟【さんせき】(称号)A
三筆に続く平安時代の達筆な人たち三人の称号。こちらは、小野東風、藤原行成、藤原佐理の三人を指す。
こちらは三筆に比べ、なぜか知名度が低い。

三筆【さんぴつ】(称号)A
平安初期の、達筆な人、三人の称号。三人とは、嵯峨天皇、弘法大師、橘逸勢。
唐風の書体が得意な人たち。称号は勿論後世の人がつけたもので、本人たちは知らない。現代でいうと、亡くなった方に贈られた場合の「国民栄誉賞」に通じるものがある。

三法師【さんぽうし】(人名)C
信長の嫡孫(の幼名)。のちに秀信と名乗る。
本能寺の変で、祖父・信長と父・信忠が横死した時、わずかに3歳で、その後の織田家の先行きを決める重臣会議(清洲会議)で、秀吉に正式な後継者として祭り上げられた。のち豊臣家の支配下に入る。関ヶ原の合戦直前に居城・岐阜城を大軍に攻められて、開城。出家して、高野山に行き同地で没した。享年26歳。

 

四職【ししき】(呼称)A
室町幕府の役職・侍所の所司を交代で務めていた四家を呼ぶときの通称。
山名・赤松・一色・京極の四家で、三管領と同じく、戦国時代にはだいぶ衰退した。

賤ヶ岳の合戦【しずかだけのかっせん】(合戦)A
信長亡き後、台頭する羽柴秀吉と激しく対立した織田家筆頭家老・柴田勝家の戦い。戦場は近江の賤ヶ岳。
秀吉陣営で大活躍した加藤清正や福島正則などの「賤ヶ岳七本槍」が有名。合戦は羽柴軍の勝利に終わり、続いて居城・越前北ノ庄城を攻められた勝家は、自害した。
ちなみに七本槍はもとは9人だった。秀吉からじきじきに功を激賞されて感状と3,000石から5,000石を賜ったのが賤ヶ岳七本槍であるが、このようにして感状をもらったのは、実は9人だった。この9人のうち、七本槍になれなかったのは、桜井佐吉と石河兵助の2人。理由については、「石河は戦死、桜井も戦後間もなく病死したため、七本槍に数えられていない」など様々な説がある。いずれにしてもこの2人は気の毒すぎる。

執権【しっけん】(役職)A
本来は将軍を補佐して、政治を統括する役職。
…のはずだが、北条氏は将軍をほとんど意に介していなかった。鎌倉幕府の政治は執権政治と呼ばれるところからもわかるとおり、執権中心の政治になっていたわけである。得宗家(北条一族の本家の当主)が代々継いでいくのが本来の姿だが、様々な事情から分家で執権になった人物もいる。

持統天皇【じとうてんのう】(皇族)A
女帝(花舞じゃないよ)。天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后。
壬申の乱以前から大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚しており、乱でも行動を共にした。天武天皇の死後は即位しないで、政治を行う称制をとったが、皇太子であった草壁皇子の死後、即位した。天武の代からの飛鳥淨御原令を施行し、律令制の発展に努めた。文武天皇に譲位したあと、はじめて太上天皇(上皇)を名乗る。
陵墓は、飛鳥にあり、天武天皇と同地。比較的場所のわかりやすい陵墓。天武天皇のものと二つ並んでいる。

柴田勝家【しばたかついえ】(人名)A
織田信長の家臣。織田家筆頭家老。
信長の家督相続当初は、信長のうつけぶりを危惧し、信長の弟・信勝を推して謀叛を起こしたことがある。しかし、合戦で信長に破れ、以後は信長に従う。合戦では無類の強さを発揮し、やがて北陸攻略軍の軍団長として、一軍を任された。
敵に城を囲まれた際、城内の水瓶を全部叩き割り、決死の覚悟で敵軍と対峙するという心構えを見せ、のち「甕割り柴田」とあだ名された。ちなみにこの時は無事救援軍が間に合ったらしい。
羽柴秀吉とはことあるごとに衝突していたらしく、信長死後は対立が激化。賤ヶ岳の合戦で敗れたあと、居城・北ノ庄城に退くが、ここもやがて包囲されて自害した。

死番【しばん】(役柄)D  
新撰組の鉄の掟の一つ。京都の見廻りの際にどこぞの宿に、不穏分子が泊まっているという情報を得た場合に、その宿に真っ先に突入する役目。
先頭きって突入するので、斬られる可能性も高いので、死番。見廻りの際のグループごとに交代制。非番の日を除けば、4日に一度のペースで死番になるらしい。死番が嫌で逃げ出して、局中法度で粛清された本末転倒な隊士もいるという。

下関条約【しものせきじょうやく】(外交)A
1894年から始まった日清戦争の講和条約。
日本代表は伊藤博文首相と陸奥宗光外相、清国代表は李鴻章で、明治28年(1895)4月17日に調印。
その内容は、@清国は朝鮮の独立を認める。A遼東半島と台湾、澎湖諸島を日本に割譲。B賠償金2億両(テール)(約3億1千万)。C沙市、重慶、蘇州、杭州の4港の開港。D開市、開港場での企業権の付与。などである。
戦況有利だった日本はとにかく有利な条件で、条約を締結したわけであったが、「遼東半島を日本が割譲」のニュースを聞いたロシアがそれはほっとけない!と、ズバッと切り込んできた。ロシアはフランス、ドイツと共に日本に半島の返還を要求してきた(三国干渉)ため、日本では反論するのは不利と考えて、遼東半島は返還した(代わりに3千万両(4,500万円)を受け取る)。

綜芸種智院【しゅげいしゅちいん】(学校)A
空海が京都に開いた私立の学校。主に大日如来の仏智を悟ることをめざして、儒教・仏教を学んだ。偉くないと入学できなかった大学などとは異なり、一般庶民が対象。僧侶でないものでも大歓迎だった。
空海死後はあっさり廃絶し、弟子たちは綜芸種智院を売却し、丹波の大山荘を買って、東寺の伝法料としたらしい。決して、個人的にカネに困って売却したのではない。

出家【しゅっけ】(事柄)A  
俗世を離れ、お坊さんになること。
出家には剃髪がつきものであるが、最近は髪のあるお坊さんも少なくない。お坊さんになると、各宗派の掟に従わないといけない。戦国時代には出家したくせに、さらにキリスト教にも入信する節操のない大名も存在した。ちなみにお寺での修行は厳しい。

攘夷【じょうい】(思想)A
「外国なんて嫌いだ、追い払え!」という幕末の代表的な思想。
とにかく、外国を嫌う。鎖国万歳な人々。現在でも、学校の英語の科目が苦手で、鎖国が続いていればなぁ…と黄昏る人を「攘夷信奉だね」と言ったりする…わけはない。

貞永式目【じょうえいしきもく】(法令)A
つくった年の年号が貞永だったので、そう呼ばれるようになった、名前の決め方が安直な法律。
内容は御成敗式目の項をご覧あれ。

上州【じょうしゅう】(名称)B
@主に徳川家康配下の、本多正純を指す。正純の官位が上野介だったことによる。
正純は、江戸幕府草創期の武将。大御所家康の側近として、その智謀を奮う。家康のブレーンである、金地院崇伝が、日記の中で、正純をよくこう呼んでいる。

A旧国名・上野のこと。
現在の群馬県あたりになる。江戸時代、剣術道場が多かったらしいと何かの本で読んだことがある。

正長の土一揆【しょうちょうのどいっき】(事件)A  
1428年、近江国坂本の馬借が蜂起。それに伴い、京都周辺の農民たちが徳政令を要求して起こした一揆。
折りしも4代将軍だった足利義持が死去したため徳政が期待され、京都の酒屋、土倉、寺院などが襲撃され、証文などを破棄された。初の大規模な農民一揆として有名。近畿一帯に飛び火し、翌年、播磨では領主の赤松氏に対しての一揆が起こった。

浄土真宗【じょうどしんしゅう】(宗教)A
親鸞の開いた宗派。一向宗とも。
簡単に言うと、師・法然の教えに独自の「悪人正機」、「絶対他力」などの考えたをミックスさせた宗派。悪人正機というのは、
「悪人こそが救われなければならない」という考え方で、親鸞は「悪人ほど熱心に念仏を唱えるべし」と説いたらしい。「絶対他
力」というのはすなわち「救いの道は阿弥陀様におすがりする他はない」という考え方。「とにかく南無阿弥陀仏を唱える」という
基本的なところは浄土宗とそれほど違いはない。


聖徳太子【しょうとくたいし】(人名)A
言わずと知れた、旧型のお札の顔。用明天皇の子で、推古天皇の摂政となって、蘇我馬子とともに、政治をみた。
二歳の時にお経を唱えたとか、一度に十人の言っていることを聞き分けられたとか、人間らしくないのが特徴。タイミングよく大陸からわたってきた仏教に深く帰依し、生き仏的な存在として扱われた。

定免法【じょうめんほう】(政策)A
年貢の取り立て方の一種。江戸時代に用いられた。
一定の率を決めて、毎年、その分だけ取り立てるということ。例えば、年貢率を4割とすると、その年にとれた米のうち4割を年貢として納める。豊作の年は例年並の年より、多く農民の所に残るってことだね。これが、検見法だと、その年の豊作・不作によって、年貢率が変わるのだ。ちなみに定免法の場合、不作の場合も、年貢率は一定なの?という疑問が出るが、不作の場合は貸し付けを行ったりするので、心配はいらないらしい。
でも、もともと貧しい人たちには、やはり重税となるってことだ。合掌。

真言宗【しんごんしゅう】(宗教)A
空海が開いた仏教宗派。本尊は大日如来で、根本経典は『大日経』『金剛頂経』など。
空海が遣唐使として唐に渡った際、長安で青竜寺の恵果(えけい)という僧侶から灌頂を受け、帰国後に開いた。高野山金剛峰寺、東大寺真言院、京都東寺などが道場とされた。
のち、広沢・小野の2派に分派。鎌倉時代には古義真言宗と新義真言宗とに教義も分かれる。

壬申の乱【じんしんのらん】(合戦)A
672年に勃発した、天皇家の後継者争い(のようなもの)。
天智天皇の死後、その子である、大友皇子があとを継いだが、天智の弟・大海人皇子が大友皇子を倒そうとして兵をあげた。結果は大海人皇子の勝利で、彼はのち天武天皇となる。そんな状況だから、大友皇子は在位を認められず、おくりなも追贈されなかったが、明治に入って、ようやく認められ、「弘文天皇」のおくりなを受けた。よかった、よかった。

薪水給与令【しんすいきゅうよれい】(政策)A
1842年に幕府が出した、外国船対策令。
要は、水とか食い物とかをあげて、さっさと帰ってもらおうという、武士の「ぶ」の字も見えない消極的な政策。元々、1825年に異国船打払令というのが出ており、元は日本に接近した外国船は、有無を言わさず、力づくでも帰ってもらうことになっていた。消極的になったのは、「眠れる獅子」だったはずの清がアヘン戦争で、イギリスに敗れたかららしい。

新撰組【しんせんぐみ】(名詞)A
幕末期に京都で活躍した、最強の人斬り集団。役目は、一言で言うと幕府側の警察。
もとは近く上洛する将軍・家茂の身辺警護と京都の不逞浪士の取り締まりという名のもとに江戸幕府下で召集されたが、募集したヤツが京都に着いてから、「実は天皇に協力します」と言ったため、ふざけるなと言わんばかりに近藤派、芹沢派の人間たちだけ残って結成した。京都守護職の会津中将松平容保お預かり。近藤とか土方、沖田などが有名。新選組とも書く。

 

推古天皇【すいこてんのう】(皇族)A
記紀系譜による神代を含めた第33代天皇。日本初の女性天皇で、欽明天皇の皇女だった。
592年の異母弟・崇峻天皇が馬子に殺されたあと、即位。聖徳太子は甥にあたり、摂政に任じた。また、蘇我馬子も政治の中心に置き、隋との国交樹立などに尽力。聖徳太子の提案とされているが、冠位十二階、憲法十七条制定の時の天皇である。古代国家の天皇にしては、在位期間は長めで、30年を越した。

 

征夷大将軍【せいいたいしょうぐん】(役職)A
基本的には武家の棟梁を表す役職というべきか。
もとは、蝦夷討伐のために、平安時代に設けられた役職で、初代は大伴弟麻呂がつとめた。その後、武家の棟梁を指す役職となり、これになると幕府を開くようになった。「源氏の頭領のみが役職につける」といわれるが、特別そういう規則があるというわけでもないらしい。ちなみに足利・徳川は共に源氏の子孫(徳川の方は自称)。秀吉は百姓の子だけど、さる公家の養子に無理矢理なって藤原姓を名乗ったことはある。でも、征夷大将軍にはなれず、関白職についた。一説には、公家から「関白の方が征夷大将軍よりも上ですよ」と言われて関白になったともいう。

征韓論【せいかんろん】(政論)A
明治初期の朝鮮侵略論。もともとは江戸幕府の対朝鮮友好論を批判していた後期水戸学や国学派の人たちの朝鮮侵略論である(彼らは記紀の朝鮮は大和朝廷の属国とする文を大義名分とする)。
明治新政府が、朝鮮に対し、日本の新体制を伝え、開国を迫ったものの、これを拒否されたため、「それならば武力行使だ」ということで提唱された。西郷隆盛、板垣退助などがこれを主張。

征韓論争【せいかんろんそう】(論争)A
征韓論を唱える西郷隆盛。板垣退助らと、それに反対する大久保利通らの論的対立のこと。
西郷・板垣らは、政府の実力者・岩倉具視が欧米視察で日本にいない時を見計らって朝鮮への西郷派遣を強行に決定したが、岩倉帰国後、岩倉・大久保はこれに猛反発。最終的には明治天皇が、西郷の派遣を中止するように裁可し、論争は征韓論者の負けとなった。このために征韓論を唱えていた参議たちが辞任した。
岩倉具視、影響力絶大だな。いや、これは天皇のお力が絶大というべきなのかなあ…。

西軍【せいぐん】(名詞)C
応仁の乱の際の山名宗全方のこと。また、関ヶ原・大坂の陣の際の豊臣家万歳軍団の総称。
単に相手よりも西側に領土が多かったために、そうわけられるのであろう。非常に安直だが、理解しやすいので◎。この説明文章が、東軍とまるっきり同じなのはコピペしただけであることは、三年間は隠さねばならないらしい。

関ヶ原の合戦【せきがはらのかっせん】(合戦)A
1600年9月15日、美濃国関ヶ原で起こった、天下分け目の戦い。石田三成VS徳川家康。
家康の事前工作も好を奏し、三成方からは裏切りが続出し、天下分け目のくせに半日もかからずに家康の勝利で、終戦する。一般に、三成方を「西軍」、家康方を「東軍」と呼ぶ。
関が原の合戦については、「関ヶ原ブログ」が詳しい。…とさりげなく宣伝してみる。

摂政【せっしょう】(役職)A  
天皇の代わりに政治をみる役職。
推古天皇の摂政として聖徳太子がこの職についた…と教科書でははじめて登場。平安時代の摂関政治の「摂」は摂政のこと。であるからして、平安時代にも往々にして、藤原氏あたりがやっていた。摂政・関白とか並び称されることも少なくない。でも、豊臣秀吉の養子の秀次は「殺生関白」とか言われた。シャレが聞いてるぜ。
ちなみに重要な役職なんだが、武家政権ではあえなくお飾りとなっていたこともしょっちゅう。要は天皇が政権を握っていないとダメなのよね。

切腹【せっぷく】(名詞)A
武士の死に方の一つ。腹に自ら刀を刺し、横にひく。そのあと、介錯人が首を斬る。
武士としては斬首されるよりも名誉的死に方。命ぜられてやる場合は白装束でやるのが一般的みたい。普通は刺すだけで、横にひくのは痛くてできないらしい。介錯人が下手だと、首を斬る時に骨で刀が止まってしまい、斬られるほうはこの上ない苦しみを味わうことになる。介錯人は剣に心得ある者を選ぶべし。…とは言っても、現代ではほぼ関係ない。
けして「一服」ではない(笑)。(「仁義なき忠臣蔵」(みなもと太郎著)参照。現在は復刻版の「冗談新選組」(同氏著・イーストプレス刊)に収録)

専修念仏【せんじゅねんぶつ】(思想?)C
この考え方の宗派としては法然の浄土宗が有名。
とにかく念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば往生後も救われるので、他の一切の僧侶の修行はしなくてよいという教え。ただひた
すらに念仏を唱えれば救われる、という実に単純かつわかりやすい教えだったので、発足当時は、絶大な支持を集めた。
当時は末法思想(釈迦入滅後に仏法滅尽の時代がやってくるという思想。計算上、1052年からの一万年間がそれにあたるら
しい)が強く捉えられていた時代で、その末法の時代にふさわしい教えを、ということで、この単純明快な教えに行き着いたとい
う。

 

尊王【そんのう】(思想)A
天皇を尊敬し、奉る考え方。
普通、天皇は敬うべきなんだが、幕末の場合は政権が、江戸幕府にあったので、この思想を持つ者は幕府万歳の佐幕派と対立する。幕末にはしばしば攘夷思想と合体して、「尊王攘夷」が叫ばれた。
ちなみに江戸時代最後の天皇である孝明天皇も、攘夷派なので、そんな所もからんでくるのかもしれない。



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