大化の改新【たいかのかいしん】(事件)A
645年の中大兄皇子・中臣鎌足らによる、蘇我氏暗殺のクーデターに始まる政治改革。中大兄皇子は、皇太子であったが、実権を握り、646年に改新の詔を出し、公地公民の中央集権国家を目指した。

太閤【たいこう】(名詞)A
関白職を退いた人の呼称。
豊臣秀吉は有名だね。だって、秀吉が関連すると、「太閤」がつくものが多いからね。太閤検地とか、太閤蔵入地とか。検地自体は関白の時からやっていたんだけど、その辺のつっこみはしないように。「太閤検地」という名称は有名なので、現状維持です。気になる人は、何年に太閤になって、何年に検地をしているかなどを調べてみよう。

醍醐天皇【だいごてんのう】(皇族)B
「延喜の荘園整理令」など、「延喜の治」と呼ばれる聖代政策で知られる天皇。宇多天皇の第一皇子。
13歳の時に践祖したが、やがて父と対立する。901年には藤原時平の讒言を受けて、菅原道真を大宰府に左遷した。この左遷の時は、道真を信頼する宇多上皇が醍醐天皇を諭すために、内裏を訪れたが、それを門前払いしたらしい。門前払いしたのは、別の人物だが、それに醍醐天皇の命があったのかもしれない。
政治に関しては、安定した政治を行い、後代の村上天皇の治世と共に「延喜・天暦の治」と呼ばれている。「醍醐天皇宸記」という日記を残している。

大鐘音【だいしょうおん】(名物) あえてA
男塾名物。
『暁!!男塾』掲載の民明書房刊『戦国武将考察』によれば、「戦国時代、武田信玄が上杉謙信との合戦に於て、どうしても援軍に行けず、苦戦に陥っている遠方の味方の兵を励ます為に、自陣の上に一千騎の兵を並べ一斉に大声を出させ檄を送ったという故事に由来する。その距離はおよそ二十五里。キロに直すと100キロ離れていたというから驚嘆の他はない…。」とある。たしかに驚嘆だが、『魁!!男塾』時代から、様々な方面の書籍を刊行している民明書房そのものにも驚嘆である。

大政奉還【たいせいほうかん】(政策)A
政権を朝廷に返還すること。江戸幕府十五代将軍徳川慶喜が、二条城で行った。
慶喜としては、「長い武家政権の継続で、朝廷には政治を見る力はないだろう」と判断し、一応大政奉還しておいて、「やっぱりブランクが長すぎて政治見れないよう!!」と泣きついてくることを予想して行った政策だったという。だが、思惑が外れ、薩長連合を中心とする、新政府軍にやられてしまった。そううまくはいかないもんである。

太平記【たいへいき】(古典)A
南北朝時代の動乱を描いた軍記物。筆者不明。
「太平」という題名だが、この時期は、動乱の時代であって、全然「太平」じゃない。戦乱が終息することを願ってつけられたタイトルであるとする説がある。

太平洋戦争【たいへいようせんそう】(戦争)A
日本軍と米軍の戦い。1941年12月8日の日本軍によるハワイ真珠湾のアメリカ海軍母港の奇襲で幕を開ける。
開戦当初は連戦連勝で、どんどん南方(東南アジア方面・インド方面)を占領していった日本軍であったが、前線への物資輸送が困難となり、1942年5月のMO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)の失敗や、6月5日のミッドウェー海戦での大敗北による空母4隻の失艦が痛手となり、その後は戦局は悪化。1943年2月から南太平洋の最前線・ガダルカナル島から撤退を開始した。撤退作戦中も南太平洋のソロモン海近辺では、激戦が続けられたが、これ以降は戦線を縮小し続け、1945年2月には硫黄島を奪われ、3月、首都・東京ほか、名古屋、大坂、神戸と大都市空襲が相次ぐ。
さらに5月には同盟国・ドイツが無条件降伏。6月には沖縄を占領される。8月に入っても戦争を止めようとはせず、「一億総特攻」の気構えであったが、8月6日は広島、9日は長崎へ原子爆弾が投下され、未曾有の威力とその被害を思い知った日本軍は、ポツダム宣言を受諾。ついに8月15日、連合国軍に無条件降伏をするに至った。
第二次世界大戦と連動して戦われていた戦いであるが、日米の戦争は一般的には太平洋戦争と呼ばれる。

大宝律令【たいほうりつりょう】(法制)A
律は刑法、令は行政法や民法、訴訟法に当たる。大宝元年(701)の完成だから大宝律令。律6巻、令11巻からなり、文武天皇の命により、刑部親王と藤原不比等が中心となって編纂した。古代国家によく見られる、中国文化の真似っこであるが、律令の場合も例外ではない。大宝律令は、内容にそれほど差がないと言われる養老律令の制定によって廃止となるが、実は大宝律令の中身自体は、詳しく伝わっていない。

平将門【たいらまさかど】(人名)A
939年の天慶の乱で、関東で暴れまわった猛将。良将の子。
一時は関東を席巻し、新皇を名乗るに至ったが、従兄弟の平貞盛と押領使の藤原秀郷によって鎮圧された。
死後、怨霊になったという伝説もあり、斬り離されて京でさらされていた首が、五体を求めて、空を飛んで関東に戻ろうとした、などという伝説まである。が、途中で怨霊パワーが切れて落ちてしまったなどというオチまでついてしまっている。

平将門怨霊ツアー【たいらのまさかどおんりょうつあー】(ツアー)E
平将門ゆかりの地を二日かけて周ってしまおうというツアー。主に茨城県南部を岩井市あたりを中心に周る。
胴塚や、墓などもまわるため、「怨霊ツアー」。個人的に周るだけで、そういうツアーが旅行社で企画されたとかいうものではない。姉妹ツアーに「平家物語怨霊ツアー」があり、こちらは源平時代の平氏ゆかりの地を巡る。いずれも怨霊ツアーであるが、怨霊に会いに行くわけではないので、怖がらなくてもよい。しかし、なぜか誘っても誰も行こうとしないだろう。

高床式倉庫【たかゆかしきそうこ】(建造物)B
床が高いところにある倉庫。湿気や虫害から、米や農作物を守るために高床になっている。
米倉には、「ねずみ返し」が設置してあり、まさにねずみ一匹入れない仕組になっている。単純だが、画期的な新発想である。

足し高の制【たしだかのせい】(政策)A
享保の改革の政策のうちの一つ。能力のあるものならば、その身分よりも高い職でも与え、その職についている間は給料もあがるよ、という制度。
幕府の役職につくには、能力もそうだが、ある程度の地位が必要で、そのために、能力のあるものが、高い地位につけないような事態もあったため、これの改善を狙った。これも概ねは成功したといえ、町奉行の大岡越前守忠相も、この足し高の制で、取り立てられたクチ。

伊達安芸【だてあき】(人名)B
仙台伊達藩一門。名前は宗重。
1665年、やはり一門の伊達宗倫との間に領土問題を起こした。裁定は伊達兵部が行ったが、この裁定が安芸に不利なものだったため、兵部を恨む。あとで、兵部の悪政を批判して、幕府に訴え、勝訴確実なところまでいったが、取調べ終了日に兵部派原田甲斐に斬られた。
まあ領土問題とか起こしてるし、これだけだと「どうなの?」という人物ってカンジ。情報求む。

タヌキ【たぬき】(あだな)C
主に徳川家康のことを指す。家康がぶくぶく太ってタヌキみたいだったから、ついたあだ名であろう。しかし、あの肖像画はそう見えなくもないので笑える。

田沼意次【たぬまおきつぐ】(人名)A
江戸中期の老中。
9代将軍家重の小姓から、遠江国相良藩主、幕府側用人と歴任した後、10代将軍家治に信任されて、老中となる。老中となってからは公然と賄賂を肯定し、自身も様々な大名から賄賂を受け取っており、黒いイメージがつきまとうが、賄賂というのは古来から政治家にはつきもので、取り立てて田沼だけが批判されるようなことではないらしい。
政策としては、株仲間への冥加金を課し、税金による経済対策を推進。また、銅や俵物の輸出により、金銀を輸入して、財源の調整なども行っている。さらに、蝦夷の開発や印旛沼の干拓などに代表される、大規模な土地開発政策も行った。
政策的には革新的なものも多く、最近は高い評価をする学者も少なくない。ただ、折りしも天明の大飢饉による米価の高騰など、庶民の身近には悪いことばかり起こったため、当時の庶民にはまったく人気がなかったらしい。
「役人の子はにぎにぎをよく覚え」などという風刺狂歌まで作られる始末であったが、田沼の政策自体は、後の世に必要となるものであった。
学校でも悪徳老中的な習い方をした男。肖像画は人のよさそうなじいさんの顔なんだがなあ…。次回のテスト範囲になってる人は、意次の「おき」の字は「意」なので注意。

壇ノ浦【だんのうら】(地名)B
現在の山口県下関市あたり。奢る平家が源義経にとどめをさされた因縁の場所。
まだ幼い安徳天皇は、ここで平家の二位の尼に抱かれて入水自殺している。他にも、入水自殺者が多数。現在、甲羅に平家の怨念を背負っているという、平家ガニがいる。そこで平家物語怨霊ツアーを企画したのだが…誰も行こうとしなかった。

 

嫡子【ちゃくし】(名称)C 
嫡男。嫡子。一族の長たる者の跡を継ぐ子のこと。
一般的には本家の惣領の長男が嫡子とされるケースが多いが、長男が不出来だったり、早世したりで、惣領の一存で嫡子が変わることもままある。また、惣領に側室がいる場合は、正室が初めて産んだ子を嫡子とすることが多いらしい。ちなみに源頼朝は三男。徳川秀忠も三男。割と三男もいるなあ…。

勅使【ちょくし】(名称)C 
朝廷の使者のこと。江戸時代は、定期的にくるらしい。
ちなみに浅野内匠頭が吉良を斬りつけたとき、内匠頭は勅使接待役は2度目の体験だったらしい。

勅撰和歌集【ちょくせんわかしゅう】(名称)A
天皇または上皇や法皇の命によって、編まれた和歌集のこと。全21種類。全部合わせて「二十一代集」と呼ばれる。(安直)
めんどいけど、全部書いとく。

@古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集
A後拾遺和歌集、金葉和歌集、詞歌和歌集、千載和歌集、新古今和歌集
B新勅撰和歌集、続後撰和歌集、続古今和歌集、続拾遺和歌集、新後撰和歌集、玉葉和歌集、続千載和歌集、続後拾遺和歌集、風雅和歌集、新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集、新続古今和歌集

ちなみに@は三代集、@とAを合わせて八代集、@、A、Bを全部合わせて二十一代集と呼ぶ。
受験時にはなぜか八代集までは覚えろと言われる。しかしですよ?こんな同じような歌集の名前だけ8つも覚えろなんて、よほどのモノ好きでなければ、苦痛以外の何者でもあるめえよ。とはいえ、テストに出るから覚えなくっちゃ…!ってぇ難儀なお方は、まず古今と新古今が最初と最後につくことを覚えて、間の六代を覚えるようにしましょう。これねぇ、覚え方があるんですよ。「5000円(後撰)を拾った(拾遺)後(後拾遺)で…」ってヤツ。全部載せると、これ考えた(と思われる)代ゼミの人に怒られるかもしれないからここまでにしとくけど、あとはまあ「きんよう」「しか」「せんざい」ですから、作文してネ。


 

 

で、あるか【で、あるか】(セリフ)D
そうか、そういうことか、の意。「そうであるか」の「そう」を略した形(だと思う)。
2002年の大河ドラマ「利家とまつ」で反町信長公が頻繁に使っていたセリフ。姉妹品に、「で、ある」があり、こちらは家臣に「〜なのですか!?」と言われた場合に用いる。いずれにしても、省略形ね。

敵は本能寺にあり【てきはほんのうじにあり】(セリフ)B
織田信長の家臣である明智光秀が謀叛を起こして、信長のいる本能寺に攻めこむ直前に部下一同に宣言した、非常に有名なセリフ。ただし、江戸時代の学者・頼山陽の創作。
これを言うと、その場をざわつかせることが出来る。光秀は敵を倒したが、変事を聞いて、毛利攻めからソッコーで帰ってきた秀吉と戦って敗れ、逃げ延びる際に討たれた。

寺子屋【てらこや】(施設)A
江戸時代の庶民教育のための場所。今でいう学校。
読み書きもできないんじゃあんまりと言えばあんまりということでできたらしい。そろばんも教えちゃう所もあった。習字の授業中に友達の顔に墨でいたずらして、先生に怒られる、というのは寺子屋が登場するマンガやドラマの王道。こればっかりは譲れないらしい。

寺田屋【てらだや】(名称)B  
坂本龍馬御用達(というか仮住まい?)の旅館。京都伏見にある。
龍馬が京都に来た際、女将だったお登勢が龍馬を気に入り、いろいろ世話を焼いていたので、龍馬もよくこの旅館を使用する
ようになった。龍馬が泊まっていた時、幕府の刺客の襲撃を受けたことは有名。現在も建物が残り、二階で龍馬のピストルを展
示している。

田楽【でんがく】(芸能名詞)A
豊作を願うための芸能。どんちゃん騒ぎを水田のまわりで田植え中に行う。南北朝期から室町時代まで大人気。ド派手がウリだが、ハリキリすぎてせっかく田植えをした水田に入って苗木が台無し…なんてことがあったら祭りどころではない。

天下の副将軍【てんかのふくしょうぐん】(通称)A
江戸時代の水戸黄門こと、光圀公のこと。
テレビドラマ「水戸黄門」でも、格さんが印籠を出してきて、「この紋所が目に入らぬか」と言う名シーンがあるが、あの時に光圀を「天下の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ」と紹介する。要するに、将軍様の次くらいに偉い方なんだぞ、と言っている。御三家には、どこも将軍になれる可能性があるわけで、格さんの言っていることはまあ間違ってはいないが、「副将軍」などという役職はない。ドラマ「水戸黄門」でも、あくまでも自称であろう。そう考えると笑える。
しかし、天下の副将軍ともあろうお方が、普通に諸国をうろうろしないでもらいたい。紛らわしい。

天下分け目の戦い【てんかわけめのたたかい】(名称)B
関ヶ原の戦いを指すことが多いが、応仁の乱のことも指すらしい。
天下分け目の関ヶ原が、半日足らずで決着してしまったことに不満な人は応仁の乱を指すと思えばいいだろう。

天誅【てんちゅう】(成句)B
「天に代わっておしおきよ!」ってこと。
幕末期には「天誅!」と言って要人を殺害する事件が相次いだ。「人斬り」と呼ばれた人たちが主に行う。そういえば、コーエーの維新の嵐では、要人を攻撃すると必ず「天誅だ!」と叫び、相手に「片腹いたいわ」と言い返されたなぁ。片腹いたいって何だ?
「天誅」という忍者のゲームがあるが、いやはやあのゲームはすごかった。すごい殺気だった…。

天王山【てんのうざん】(山名)C
京都府南部にある山。
山崎の合戦で、秀吉がここに先に陣取って、明智光秀を破った。光秀は先に天王山をとれる位置にいたにも関わらず、これを取らなかった。天王山を取ったものが勝利を得ることができる、という伝説から、現在も勝敗の分かれ目にあたる何かには、「天王山」という異称が与えられる。

 

【とう】(国名)A
618〜907年までの間の中国の王朝。長安に都を置く。2代太宗の貞観の治が有名。
律令制や、条里制などの多くの政策を遣唐使によって日本にパクられたパクられ国家。別に唐が悪いんじゃないけどね。古代日本がパクり国家だと(以下略)

東軍【とうぐん】(名詞)C
応仁の乱の際の細川勝元方のこと。また、関ヶ原・大坂の陣の際の徳川信奉者軍団の総称。
単に相手よりも東側に領土が多かったために、そうわけられるのであろう。非常に安直だが、理解しやすいので◎。この説明文章が、西軍とまるっきり同じなのはコピペしただけであることは、三年間は隠さねばならないらしい。

徳川吉宗【とくがわよしむね】(人名)A  New!
江戸幕府8代将軍。暴れん坊将軍としても有名。
もともと紀州の徳川分家の子で、将軍になった経緯もかなりのラッキー男と言える。定免法の採用や、倹約令、目安箱、足し高の制などの構造改革・享保の改革で幕府の財政建て直しに奮闘、それなりの結果を残した。目安箱や倹約令での自身の質素ぶりが民衆にも評判で、将軍にしては庶民的な印象があるらしい。
だが、暴れん坊将軍は庶民的すぎて、いつか斬られないかと不安でならない。

徳政令【とくせいれい】(名詞)A
愛の貧乏御家人救済大作戦。1297年の永仁の徳政令が有名。
この時の徳政令は、貧乏な御家人の商人からの借金が期間限定で帳消しになったり、御家人・庶民が被告となる、金銭関係の裁判は受けつけないなどの、理不尽ぶりがウリ。カネを貸した商人は当然ふんだりけったり。しかし、単純に貸したカネがかえってこない商人が貧しくなるだけで、御家人は借金を帳消しにしてもらったにすぎないので、あまり経済的な意味があったとは思えない。それに気付いてか、翌年には、ほとんど撤回された。

土佐日記【とさにっき】(古典)A
紀貫之が、任国・土佐から都に戻る道中で書いた日記。女に仮託して書いており、当時女しか使わなかったひらがなが使われている。
貫之はこの時ちょっとしたじいさまのはず。じいさまが女みたいな口調で日記…考えたくもない。

土佐の出来人【とさのできびと】(あだ名)C 
戦国時代の土佐の大名・長宗我部元親のあだ名。
元親は、若年時、色白で線が細く、家臣にまで「姫若子」とあだ名される頼りない人物であったが、22歳の遅い初陣で、その評価は一変。戦術の冴えを見せ、「鬼若子」と改名(?)された。その後の元親は領国経営にも優れた手腕を見せ、「土佐の出来人」と呼ばれるようになった。
しかし、領主にあだ名を三つもつけるだなんて長宗我部家臣はほんに無鉄砲じゃて!!

土佐藩【とさはん】(藩名)A
今の四国・高知県。初代藩主は内助の功で有名な山内一豊。高知城が居城。
土佐藩には武士の中にも身分制度がある。もともと戦国時代に土佐を支配していたのは長宗我部氏だが、長宗我部氏は1600年の関ヶ原の合戦で西軍(敗軍)に与したため、改易となり、代わりに入国したのが、山内一豊であった。このために身分制度がとられる結果になる。一豊が、前の領地から連れてきた家臣たちは上士、もと長宗我部家臣で、山内家に登用されたものは郷士(下士)と呼ばれた。この身分制度は、けっこうシビアで、上士の郷士に対する態度は高慢な者が多かった。そもそも山内家の殿様が、すでに郷士を半ば嫌っていたのであった。
幕末には多くの維新志士を輩出。有名どころでは、坂本龍馬、岡田以蔵などは郷士、板垣退助、後藤象二郎などは上士。ちなみに武市半平太(瑞山)は「白札」といって、郷士だが、扱いは上士並みという微妙な身分だった。
上士と郷士の確執は幕末にも残っており、後藤・板垣らは、龍馬などとは対立していたが、後藤は龍馬と手を組んで、幕府を大政奉還に導いた。

外様大名【とざまだいみょう】(名称)A
一般的には、関ヶ原後に徳川家に帰順した大名たちをいう。毛利、上杉、島津などの有名大名も外様である。
江戸幕府下では、謀叛を警戒され、遠国に転封になったり改易されることもしばしばだった。失態の許されない慎重な政略と、幕府へのゴマすりを余儀なくされたトホホな大名。

【とし】(愛称)B
新撰組副長・土方歳三のこと。局長の近藤が彼を呼ぶ時に用いていた愛称が「歳」。(司馬遼太郎ワールドによる。実際どうなのかは知らず)
局長よりも隊律に厳しく、隊内で鬼として恐れられたらしい。ドラマをやるなら、ちょっと小粋な話し方をする端整な顔立ちの俳優さんに演じてもらいたい。そういうイメージだから。

鳥羽・伏見の戦い【とば・ふしみのたたかい】(合戦名)A
幕末の戊辰戦争の緒戦。勃発年月は、1868年1月。
大坂城にいた旧幕府軍と、会津・桑名の両藩の兵士が共同で、新政府軍(薩長連合軍)と戦った。ちなみに新撰組も会津藩お預かりなので、この戦いに参戦している。
新政府軍は、外国から輸入した新式の鉄砲隊を率いており、日本刀では戦闘力にひけはとらない旧幕府軍もいいように押されまくった。ついには、新政府軍に錦旗(朝廷の旗)が掲げられ、旧幕府軍は戦意喪失。撤退したというが、実はこの錦旗は大久保利通などのお手製だったとか言われている。
いずれにしても、新兵器の使用により、新政府軍の圧勝。

富田信高の妻【とみたのぶたかのつま】(人名?)C  
織田家臣・富田信高の妻。名は伝わってないらしいが、伝説だけは伝わっている珍しいお方。
籠城中、味方の士気を上げるべく、自ら武装して城外に出て数人の兵士を一振りでなぎ倒したという。男勝りのこの妻に信高は頭があがらなかった…のかどうかは不明。戦国無双ではお市が剣玉振り回しているが、いくらなんでもありえないので、どちらかというとこの富田信高の妻を出せばよかったのに。でも名前が…。お市ほどメジャーじゃないし…あんな若く描かれたらひくし…やっぱり登場しなくてよかったのかも!
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