鎌倉幕府の創始者。源氏の棟梁。義朝の三男。
父・義朝が、平治の乱で敗れた際、義朝と共に逃げる途中ではぐれ、平清盛に捕らえられる。清盛は最初、頼朝を殺そうとしたが、清盛の母・池禅尼がが命乞いをしてくれたので、伊豆の蛭ヶ小島に流されることになった。伊豆では、北条時政が頼朝を監視しており、頼朝は毎日お経を読む生活をしていたらしい。
以仁王の令旨を受けた頼朝は、監視役ながら平氏をよく思っていなかった北条時政の援助を受けて挙兵。一時、石橋山の合戦で大庭景親に破れ窮地に陥るが、難を逃れ、安房(千葉県)に逃げ延びた。以後は、関東武士団を率い、奥州から参陣した弟の義経を大将に、平氏討伐をすすめ、1185年にこれを達成。しかし、義経とは対立し、旧知の奥州藤原氏を頼って落ち延びた義経を討つべく、奥州征伐を断行し奥州も平定した。
1192年、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開く。1199年、落馬がもとで死去したとされるが、死因については史書によって様々であるという。 |