【まむし】(人名)B
美濃(岐阜県)の戦国大名・斎藤道三のあだ名。
道三はもとは油売りで、美濃守護・土岐氏にうまく取り入って、最終的には美濃を奪った。「奪ってしまう」という毒性から蝮という、あだ名がついたと思われる。弱体化した美濃を狙った道三を賞賛すべきなのか、家臣に国を取られた、土岐氏が阿呆なだけなのか、意見がわかれるところだ。

万葉集【まんようしゅう】(歌集)A
万葉仮名を使用し、「長歌」、「短歌」、「旋頭歌」などに分類されるいろんな作風の歌がおよそ4500首も入った日本最古の歌集。収録時期は仁徳天皇の時代から759年までの歌が入っている。撰者には諸説あるが、大伴家持という説がある。
収録されている歌人の面々は豪華で、柿本人麻呂、山の上のお猿ではなくて山上憶良、山部赤人、大伴旅人、額田王などの著名歌人のほか防人の歌、東歌、詠み人知らずなどもある。
なんだか、もう「歌が良ければ収録しちまえ」っていう気概に溢れているネ。

 

三浦按針【みうらあんじん】(人名)A
日本に漂着したイギリス人・ウイリアム・アダムズの和名。「按針」というのは、船の航路を決める磁針のことらしい。家康に仕えて、江戸の日本橋に屋敷地を与えられた。詳しくはウイリアム=アダムズの項を参照のこと。

密教【みっきょう】(名詞)A
一言で言うと、「ザ・大日如来・〜秘密の教え〜」。
「仏の真実の言葉(真言)を唱え、手指で諸尊の内証を象徴する印契を結び、心を仏の悟りの境地におけば、修行者は即身成仏でき、信徒の現世利益願望も叶えられると説く」(高校時代に使っていた用語集『必携日本史用語』(実教出版)より)。
…なんだかよくわかんなかったので、引用させていただいた。素人意見ですけど、秘密の教えってそんなに広めちゃっていいんだろうか。貴族たちには熱狂的な大うけだったらしい。多くのファンを抱えた以上は、もう秘密の教えでもないような気がしないでもない。

道長【みちなが】(人名)A
平安時代に栄華を誇った、藤原道長のこと。
天皇の外戚として権力を奮い、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という歌を他の貴族が居並ぶなかで詠んで、内心「自惚れにもほどがある!」と思われていたのに気付かなかったいくらかおめでたいヤツ。著書に「御堂関白記」がある。また、藤原実資の「小右記」は道長のことを書いた本。

源頼朝【みなもとよりとも】(人名)A
鎌倉幕府の創始者。源氏の棟梁。義朝の三男。
父・義朝が、平治の乱で敗れた際、義朝と共に逃げる途中ではぐれ、平清盛に捕らえられる。清盛は最初、頼朝を殺そうとしたが、清盛の母・池禅尼がが命乞いをしてくれたので、伊豆の蛭ヶ小島に流されることになった。伊豆では、北条時政が頼朝を監視しており、頼朝は毎日お経を読む生活をしていたらしい。
以仁王の令旨を受けた頼朝は、監視役ながら平氏をよく思っていなかった北条時政の援助を受けて挙兵。一時、石橋山の合戦で大庭景親に破れ窮地に陥るが、難を逃れ、安房(千葉県)に逃げ延びた。以後は、関東武士団を率い、奥州から参陣した弟の義経を大将に、平氏討伐をすすめ、1185年にこれを達成。しかし、義経とは対立し、旧知の奥州藤原氏を頼って落ち延びた義経を討つべく、奥州征伐を断行し奥州も平定した。
1192年、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開く。1199年、落馬がもとで死去したとされるが、死因については史書によって様々であるという。

源頼政【みなもとよりまさ】(人名)B
父は仲政。摂津源氏。
保元の乱では、後白河天皇方についた。平治の乱でははじめ源義朝についたが、途中で裏切り、平清盛に味方する。以後、平氏政権下で清盛の厚い信頼を受けて官位の昇進を重ねる。治承2年(1178)には従三位に任じられたが、1180年には以仁王を奉じて反平氏の狼煙をあげる。宇治で戦死。
武芸のみならず、歌人としても優れていたといい、「新古今和歌集」にも歌が収録されている。
武芸も歌人もできるオールマイティ系。だけど裏切り者。人格に問題ありだね。コーエーゲーム系だと、いわゆる「魅力」以外は高い能力になるのだろうか。

宮本武蔵【みやもとむさし】(人名)B
言わずとしれた、二刀流の剣豪。美作の出身。
浪人して各地を渡り歩き、船島で、佐々木小次郎と決闘して、これを打ち破った。試合をしなくなってから、「五倫の書」を執筆。同書は兵法書として有名に。巌流島の時は、舟を漕ぐ櫂をけずって使ったというが、剣豪のくせに割とお粗末な武器である。また、小次郎に、「鞘を捨てるとは、小次郎は勝つ気がない」とのたもうたらしいが、武器が櫂の武蔵には、当然鞘すらない。
2003年の大河は『武蔵』だったが、個人的にはミスキャストの嵐だったと思う。'96年の『秀吉』からずと見ていた大河を見なくなった。同じ吉川武蔵が原作の『バガボンド』は展開が遅いけど、けっこう好きなんだけどなぁ…。

 

武者所【むしゃどころ】(機関)A
建武の新政の時の京都警備機関。新田義貞が主。

陸奥宗光【むつむねみつ】(人名)A
日本政府の外相として有名。陸奥陽之助。
紀州和歌山藩の出身で、幕末期には坂本龍馬の海援隊に属していた。漫画「お~い!竜馬 (10) 」では、見栄っ張りで自意識過剰な嫌味なやつになっている(笑)。明治維新後は政府に属す。一時、政府転覆計画などに属して投獄されたりもしたが、のちのヨーロッパ留学などを経て、外務省に入り、以後農商相や外務相を歴任した。日清戦争の講和条約である下関条約の時の全権だったが、この頃はもうかなり肺を悪くしており、ゴホゴホと咳をしていたらしい。漫画「日露戦争物語―天気晴朗ナレドモ浪高シ (第12巻) 」では、戦争中からかなり具合が悪そうに描かれている。
ちなみに奥さんがかなり美人。陸奥宗光でイメージ検索すべし!

宗尊親王【むねたかしんのう】(皇族人名)C
一応、鎌倉幕府の六代将軍。後嵯峨天皇の子。
実際には実権なしの傀儡。北条時頼に、「将軍がいないと困るから」とか言われて、鎌倉に連れてこられた。時宗の代に謀叛計画ありとされて、将軍職を解任されて、京都に返された。とにかく北条家の思いのままに操られたお方。将軍は主君であるはずなのに、謀叛の疑いをかける北条家が笑える。
ちなみに’01大河の「北条時宗」では、おじゃる丸的キャラで面白さNo.1だった。おそれおおい。

 

明治六年の政変【めいじろくねんのせいへん】(事件)A
1873年10月の征韓論争に敗れた征韓派の参議(西郷隆盛・板垣退助・江藤新平など)が辞職した事件。結果として、征韓論に猛反対して、内治優先を主張した岩倉具視・大久保利通らが政権の主導権を握った。
江戸幕府を倒す時には、何かと結束力の高かった新政府首脳部なのに、政権をとるとみんな「俺が、俺が」という風になてしまうんでしょうかねぇ。ことに大久保利通は……すごい。(⇒佐賀の乱の項参照

明暦の大火【めいれきのたいか】(事件)A
通称・「振袖火事」。1657年1月18日〜19日に発生し、江戸の市街地の約6割を焼き尽くした大火災。
出火地が3ヶ所あり、本郷円山の本妙寺付近、小石川伝通院付近、麹町付近からそれぞれ周辺に飛び火し、大火災に発展したという。江戸城天守閣もこの火事で焼失し、大名屋敷、旗本屋敷を含め、城下の建物も大量に焼失した。死者は10万人を越えるともいう。
幕府では、時の大老・保科正之が、被災民救済を第一とした事態収拾に努め、また、これを教訓として様々な防火対策都市建設計画をたてた。なお、被災民救済を第一としたため、予算オーバーで、天守閣は再建されなかった。
ちなみになんで通称「振袖火事」なのかというと、本郷の寺で祈祷のために振袖を火にくべたら、突風で火が移り、そこから大火に至るまでに発展したらしい。よーするに失火だったということですな。

目安箱【めやすばこ】(政策)A
享保の改革の時に設置された、「市民の意見を聞きましょう箱」。
これには何でも、思ったこと、考えたことなどを書いて入れてよいとされ、将軍批判なども書かれた。(きちんと、投書の決まりである程度制限されていたのだが…)概ね好評で、この目安箱の投書から、小石川に療養所を建てることを許された医者もいる。考え方が柔軟な吉宗だからこそ成せる業。

 

以仁王【もちひとおう】(皇族)A
高倉宮。後白河天皇の子。母は藤原成子。
源頼政に請われて、平氏打倒の令旨を出させた人物として有名。そそのかされたみたいな書き方になることが多いが、実は本人も平氏の恨みはある。平氏が圧力をかけたので、親王宣下を受けられなかったのである。平氏は、一族を皇室に輿入れさせているので、藤原氏の子である以仁王ではよろしくなかったというわけだ。
源頼政の挙兵の時は、自らも同行。さらに最勝親王と称して、全国に平氏追討の令旨を発した。「最も勝」という実に縁起のいい名前だったが、本人は宇治の平等院で流れ矢にあたって戦死した。享年30歳。
ちなみに馬に上手く乗れなくて、戦死に至るまでの過程で7回も落馬したらしい。微妙…。

文武天皇【もんむてんのう】(皇族)A
軽皇子。草壁皇子の子。
持統天皇の皇太子となり、697年に即位。701年の大宝律令の制定を命じたのはこのお方。律令制度の立役者と言ってもいいかも。

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