八色の姓【やくさのかばね】(政策)B
天武天皇が684年に定めた氏の身分秩序再編のための八種類の姓。
要は一般庶民が、皇室にどれだけ近い位置にいるかってことですな。八種類とは、上から真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)。「真人」は「まひと」と読むが、「真の人」とは一体どういうことか。一番上までいかないと人ではない、とでもいうのか、このやろう。

屋島の合戦【やしまのかっせん】(合戦)A
1185年2月、源義経が、讃岐の屋島で奇襲により、平家軍を蹴散らした戦い。平家軍が、船上に掲げた扇を那須与一が、見事に射抜いたことで有名。
源氏も平家も、与一の腕前を褒め称えた。…しかし、実は平家は敵のあっぱれぶりを賞賛している場合ではない。もう、命脈は風前の灯火。つーか、3月には壇ノ浦で滅びる。あわれ。

野望【やぼう】(語句)B
信長なら天下取りを志すこと。
「信長の野望」というゲームタイトルは、「信長の(この世の全ての茶器を収集する)野望」。( )内が省略されている。そして、シリーズ毎に「茶器収集にかける熱意」が烈風伝とか、蒼天録とかのサブタイトルであらわされるわけですな。結局は茶器が第一なのさ。(嘘)

山本五十六【やまもといそろく】(人名)A
太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官。海軍大将。(死後、元帥に昇進)
若いころに欧米視察などを経験し、欧米の国力を知っていた山本は、太平洋戦争の開戦には最後まで反対していたという。しかし、内閣および軍部は、当時の中国戦線が順調なことから、拡大方針を崩そうとせず、ついに開戦が決定する。
山本は「やるとなったからにはやる」男だった。とはいえ、基本的には勝ち目薄(あるいはほぼなし)と思っていた山本は、日本の国力が尽きる前に、米軍の戦意を喪失させる猛攻を仕掛け、できるだけ早い段階で有利な条件を提示しての講和を考えていたという。そのための最初の作戦が真珠湾攻撃であった。
ところが、この作戦自体は大成功だったものの、外務省と在米日本大使館職員らの手違いや怠慢で、米軍の戦意を喪失させるどころか、逆に「だまし討ちを許すな」と米国民の対日戦意を煽ってしまう結果となってしまった。
山本は、その後も連合艦隊司令長官として、作戦に関わり続けるが、すでに「勝利を目指す」つもりはなく、「負けない」戦い方を模索するのみだったという。
ミッドウェイ海戦では国民の期待に反して大敗北を喫す。
1943年4月、当時の最前線・ブーゲンビル島南方のブインにいたガダルカナル島からの撤退兵の視察のため、ラバウル東飛行場を発ち、ブーゲンビル島上空で、米軍航空機編隊に機体を撃墜されて戦死した。
山本は開戦(昭和16年12月8日)前に「私の寿命はあと一年か一年半」と漏らしたといい、予言は当たっていたのであった。

山崎の合戦【やまざきのかっせん】(合戦)B
1582年6月に京都府南部の山崎で行われた、明智光秀VS羽柴秀吉の戦い。
本能寺の変で、織田信長が明智光秀に倒されたことを知った、秀吉が、毛利攻めから帰ってきたため、光秀がこれを迎え撃った。迎え撃ったはずなのに、地の利も秀吉に奪われた。史上稀に見る、敗れるべくして敗れた戦い。

大和【やまと】(国名/艦名)A
@現在の奈良県の旧国名。古くは都も置かれた地である。
A旧帝国海軍による、当時世界最大の主砲を搭載した超ド級戦艦。造船については、徹底して厳密に行われ、国民にすらその状況は明かされなかった。主砲に46センチ9門を搭載。もともと当時の米軍最高の戦艦に搭載されていた40センチ主砲を越えるものを作るというのが目標だったため、必然的に米軍を上回った戦艦となった。防御装甲も厚く、首脳部では活躍を大いに期待したが、戦いの主役は航空機に移っていき、その巨砲からの砲撃をほとんどすることなく、最期は特攻作戦中に敵航空機の猛攻によって轟沈した。同型艦に「武蔵」があるが、こちらもフィリピンのシブヤン海で轟沈している。
2005年には「男たちの大和」という映画が放映され、話題になった。最期の大和に乗り込んだ海兵たちの心を描いた作品である。

ヤン=ヨーステン【やん=よーすてん】(人名)C
オランダ船の航海士。のち、耶揚子(やようす)と名乗る。
リーフデ号で、航海長のウイリアム=アダムズと共に日本の豊後に漂着し、徳川家康に取り立てられ、アダムズと共に、幕府の外交顧問として活躍。朱印船貿易の発展にも力を尽くし、シャムやトンキンに船を送った。バタビア渡航の際に遭難し溺死。


 

雄略天皇【ゆうりゃくてんのう】(皇族)B
古代史上でも結構有名な王。俗にいう、「倭の五王」である讃・珍・済・興・武のうちの「武」が雄略天皇であるという。
また、熊本の江田船山古墳出土の鉄剣の銘にある、「ワカタケル王」(実際には漢字表記)も雄略天皇であるという。書いてあるばっかりで、何をしたのやら。管理人はよく知らないので、情報求む。

 

用明天皇【ようめいてんのう】(皇族)C
聖徳太子の父。31代天皇。
仏教帰依について、蘇我馬子や物部守屋らの重臣に協議を持ちかけ、馬子が賛成、守屋は反対したため、蘇我対物部の抗争の原因を作ったと言えなくもない。即位の翌年から病で伏せりがちとなったため、在位期間は短いという。


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