■徳川15代将軍
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徳川15代将軍
■徳川15代全将軍早見表
名前 一言紹介 関連記事
初代 徳川家康 幕府創設者。秀忠の後見役。(大御所として実権は握
る)
2代 徳川秀忠 大坂の陣で豊臣家を滅ぼす。大名の改易を頻繁に行
い、幕府の基盤固めをする。家光の後見役(大御所)
・2代将軍秀忠には隠し子がいた!
3代 徳川家光 参勤交代・武家諸法度など父の作った制度を確立す
る。鎖国を実施。
4代 徳川家綱
5代 徳川綱吉 過剰な動物愛護法・生類憐みの令発布。病で身長が
120センチそこそこだったといわれる。
6代 徳川家宣
7代 徳川家継 5歳で将軍になって、8歳のとき風邪が原因で死亡。で
も、すでに婚約していた。昔はすごいのね…。
8代 徳川吉宗 享保の改革で幕府財政の建て直しをはかる ・強運で将軍になった吉宗
9代 徳川家重 言語障害があり、側近の大岡忠光以外は言葉を聞き
取れず。
・不肖の息子か?9代将軍・家重
10代 徳川家治 田沼意次を重要し、改革を推し進める
11代 徳川家斉 将軍在位期間は長いけど、ほとんど何もしてないらし
い。超絶子沢山で有名。側室40名、子供は55名もい
た。
12代 徳川家慶 ペリー来航後、その対策で老中一同があたふたして
るころに死亡。
13代 徳川家定 病弱だった。
14代 徳川家茂 倒幕に向かう時勢を立て直そうと、公武合体を狙って
皇女・和宮を娶るが、21歳の若さで急死。
15代 徳川慶喜 「神君の再来」と言われて期待されたが、大政奉還を
実施。新政府軍には恭順の姿勢をとり、明治時代に
生き残った。15人中もっとも長生き。
・「神君の再来」すまし顔の慶喜さん

●誰が有名人?

・有名なのは1,3,5,8,15代
徳川15代、業績も様々ですが、とりわけ学校などで詳しく学習するのは初代・家康、3代・家光、5代・綱吉、8代・吉宗、15代・慶喜になるかと思います。家康は言うまでもないですが、家光はちょうど幕府制度の確立期の将軍で、様々な制度を確立したためで、特に鎖国制度の実施は大きいと思われます。また、綱吉は悪名高い生類憐みの令で有名です。歴史の授業が好きだった方は、「人間も愛護しろ」と思った方もいるのではないでしょうか(笑)。8代の吉宗も「享保の改革」の一連の改革を自ら進んで着手していたということで、有名です。15代慶喜、彼は…まあ最後の将軍ですので…。
というわけで、歴史が好きでない方はこの人たちだけ知っていれば無問題です(笑)。

・その他の将軍たち
ですが、それ以外の将軍は、軒並み凡庸だったというわけではありません。
4台・家綱の時代は名大老・保科正之が、6代・家宣の時には新井白石や間部詮房が特に重用され、それぞれきちんとした政治をしていました。ただ、6代・家宣は在職わずかに3年、家継はわずかに8歳で没してしまうので、なんとも言いがたいところです。
9代の家重は病弱で言語障害があったために、将軍としては特別何も行っていないようですが、吉宗の改革をそのまま何も変えなかったので、政治的な問題はそれほどなかったようです。(一揆が続発したらしいけど…)
10代・家治は田沼意次を重用しています。田沼に政治関係の多くは任せっきりだったようですが、この田沼も積極的な政策を展開したという意味でも、大いに評価されていい老中だと私は思います。学校だと、やれ賄賂政治だなんだと黒いイメージの強い意次ですが、まあ…みんなやってることだったみたいですから…。
11代・家斉は…まあちょっと豪勢にやりすぎたという感じがしますね。松平定信の寛政の改革の後、田沼時代のような賄賂横行の政治体制がとられた時期があったようです。ほとんど政治らしい政治はしていなかったようですが…。
12代・家慶は親父の家斉が大御所として死ぬまで実権を握っていたため、目だつことはしてません。ペリーが来航したとたんに急死しちゃうし…。13代・家定は病弱、14代・家茂も病弱(でも比較的積極的)ということで、あまりでかいことをできませんでした。

つまり、あんまり有名じゃない将軍たちは、有名な政治担当者がいるか、病弱かという感じですね。(家斉はアレですが…)

■徳川一門の有名人
一門の有名人は結構大勢いますね。そもそも将軍職を継いだ人たちの中にも、吉宗や家茂などのように御三家・御三卿から養子になって継いだ人物もいます。
名前 一言紹介 関連記事
本家 松平秀康 家康次男。秀吉→結城晴朝と養子に出される人生を
送る。母親の身分が低く、家康に疎まれたといわれ
る。
本家 松平忠吉 家康4男。関ヶ原の戦いで負傷。武芸は秀忠より優れ
ていたという。
本家 松平忠輝 気性が荒いことで有名。伊達政宗の娘を娶り、政宗と
懇意だったこともあり、逆に将軍家の不興を買った。
大坂の陣に参戦しなかったので改易された。
尾張 徳川義直 家康9男。御三家尾張家初代。儒教を奨励し、藩政基
盤の確立に尽力した。
紀伊 徳川頼宣 家康10男。御三家紀伊家初代。和歌山藩は当初、治
めるのは困難とされていたが、職制や法令を整備、家
臣団の編成に尽力し、藩政確立に成功した。
水戸 徳川頼房 家康11男。御三家水戸家初代。領内総検地、鉱山開
発などを行って、藩政基盤の確立に尽力した。
水戸 徳川光圀 2代水戸藩主。頼房3男。テレビ「水戸黄門」でおなじ
み。実際の光圀は「大日本史」の編纂にいそしむ。
・出不精の水戸黄門
本家 千姫 秀忠長女。豊臣秀頼と政略結婚させられるが、豊臣
家滅亡後は、本多忠刻に嫁いだ。
千姫の肖像画の不思議
本家 徳川忠長 秀忠3男。才気に溢れ、「将軍職は家光ではなく忠長
に継がした方が」という風に囁かれたが、結局それは
ならず。駿河・遠江で55万石を与えられたが、異常な
行動が見られ、兄・家光に切腹させられた。
保科 保科正之 秀忠4男。隠し子として育てられる。のち、異母兄にあ
たる家光と対面。家光の信頼を得て、家光死後、大老
職。自領の会津でも名君として名高い。
白河 松平定信 老中。寛政の改革を行った人物。御三卿の一・田安家
の人。家治が養子にと望んだが、田沼意次によって白
河松平家に養子に出された。定信はこれにより、意次
を恨んでいたとされる。
水戸 徳川斉昭 15代慶喜の父親。藩政改革に熱心だったが、過激な
のも含まれていて一時、謹慎させられる。のち幕府の
海防参与。徹底的なまでの攘夷論者で、安政の大獄
に伴い、国元で永蟄居となった。
※「家」は本家・御三家・その他を区分した。

●一門衆とはどういう立場??
一門集というのは、一般的には、一族の人たちを指します。徳川家の場合は、かつての姓である、「松平」を名乗る人物も一門衆である場合がほとんどです。

・御三家
御三家は、家康の9男・10男・11男(義直・頼宣・頼房)が立てた家で、それぞれ、尾張、紀伊、水戸に領地を持っています。基本的に「徳川」姓を名乗り、万が一、本家筋の将軍に跡継ぎが生まれなかった場合には、御三家から跡継ぎを選ぶという決まりがありました。しかし、実際にはこの御三家から将軍になったのは、8代の吉宗だけです。将軍じゃないですけど、水戸の光圀は『水戸黄門』でおなじみですね。

・御三卿
御三卿は、吉宗の次男・宗武と四男・宗尹がそれぞれ田安家、一橋家を立て、9代・家重の次男・重好が清水家を立てたものです。総称して御三卿と呼びます。こちらもいざと言うときには将軍家を継げる家柄です。実際に家斉が将軍になっており、また、15代慶喜も、一橋家に養子に入ってから、将軍になりました。







◆ 不肖の息子か?9代将軍・家重

徳川幕府の9代将軍・家重は、名君とも言われる8代・吉宗の子ですが、言語障害があったよ
うです
話す時、ぼそぼそと何を言っているのかさっぱりわからず、例えば、「上様、これこれこういうこと
をしてもいいでしょうか?」と聞いても、
「ぼそぼそぼそぼそ……」
「………。(むぅ…わからん…)」
ということになってしまっていたのです。

■介護人、大名になる
しかし、一人だけ、家重の小姓を勤めてきた大岡忠光という人だけはこのぼそぼそを聞き
取れたといいます。忠光は、かの大岡越前の親戚です。何しろ将軍の言葉を聞くには、常に忠
光の仲介が必要だったため、家重の言葉を聞き取れるというだけで、忠光は大名にまでなっち
ゃいました。(役職は側用人)

しかし、怪しいですね。彼しか聞き取れなかったということは、「上様はこうおっしゃている」と彼
の意向を答えることもできたわけですから。「政治はわしの思うがままじゃ」、ということにな
らないとも限らないと思うんですが。。。
ちょっと調べてみたら、その点は心配なかったようです。忠光は清廉潔白な人物で、将軍の言葉
を聞き取れるということで驕ることもなく、むしろ「大名にまでなっていいの?」という感じだった
らしいです。

それにしても肖像画で見ると家重公は、歴代将軍の中では不肖な描き方をされている気がします
…。なんとなく…。これはリアルなんだろうか。


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◆ 強運で将軍になった吉宗

江戸幕府の八代将軍といえば、徳川吉宗です。テレビでも「将軍なのに暴れん坊」になっちゃっ
てます。しかし、吉宗は徳川家の嫡流ではありません。七代の家継が若死にしたので、御三家
の一つ、紀州藩の藩主を務めていた吉宗にお鉢が回ってきたというわけです。
こう書くと当たり前のように感じるかもしれませんが、実は吉宗公、相当運がいいんです。お年玉
年賀はがきの1等〜4等に全部当たるくらい運がいいんです。

■吉宗の最初の境遇は…
吉宗は、紀州藩主時代は、徳川頼方と名乗っていました。彼は、紀州二代藩主光貞の四男。母
親はわかっていません。腰元系列の女性に殿様の手がついたんじゃないかと言われています。
まあ、それはおいといて…。
頼方は、越前のとある大名のところに養子に出されていました。四男だから、当時としては当然と
いえば当然。
ところが!ここから吉宗のうなぎ登り人生が始まるのです。

■めぐりめぐって将軍に
まず、宝永二年(1705)、三代紀州藩主となっていた長兄が死亡します。次男は早世してい
たため、三男がその後を継ぎましたが、これも程なく死亡してしまいました。こうして吉宗に
紀州藩主のお鉢がまわってきたのです。
本来ならこういう流れで当主になれることはほぼないでしょう。吉宗は運がいいんです。ところ
が、吉宗が藩主を継いだ頃の紀州藩は、経済状態がボロボロでした。
決して気楽な藩主就任ではありませんでしたが、吉宗は、早速改革に乗り出し藩の経済状態を
立てなおすことに成功しました。

そんな折、正徳六年(1716)七代将軍・家継が死亡。幕府の老中たちは、後継ぎがおらず、話
し合いを重ねました。そこで、「紀州藩では藩主吉宗公が、経済状態をたてなおしたらしいぞ」とい
う話があがりました。「それならば吉宗公にお任せしよう」となり、吉宗はついに将軍にまでなっ
たというわけです。

実は六代将軍の家宣が「いざという時は吉宗を将軍に」と遺言していたとも言われています
が、それはそれとしても本当に運がいいですね。


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◆ 出不精の水戸黄門

テレビの時代劇でも人気の『水戸黄門』。実際にはあんな漫遊はしていませんでした。では、黄門
様は、どの辺まで外出していたのでしょうか?

■黄門様の漫遊は狭範囲
黄門様がうろうろしたのは、水戸と江戸の間に過ぎず、その他に娯楽で熱海の温泉に行っ
たくらいだったといいます。殿様であるからわからなくはないが、少し出不精ですね。
ですが、『大日本史』の編纂のため、学問にもいそしんでいたため、あまり外をウロウロしている
場合ではなかったのです。

当然、全国各地で毎週毎週面白いように事件に遭遇して人助けをする余裕などなかった
わけです。
ところが、そのおかげで、名君として名が高くなり、現在のようにテレビなどでも親しまれる存在に
なりえました。黄門様にとっては思わぬイメージアップだったのではないでしょうか。

ちなみに黄門様は、徳川家康の十一男・頼房の三男として産まれましたが、祖父・家康のような
タヌキ系の顔ではなく、なかなかの美男子だったらしいです。母が美人だったからだそうで
す。ただ、正確は悪戯好きで、割と粗暴。藩主としてはちょっとアレだったとか。

ところで、
テレビ『水戸黄門』では、必ずラストで、悪代官チームと戦闘になり、しばらく戦ってから、格さんが
「ええい、静まれ、静まれーい!」と叫んで、「この紋所が目に入らぬか」ババーンと決める
けど…

もし、静まらなかったらどうするつもりなんだ。

「静まれ、静まれーい!」
「うるせぇ!」ザシュッ!!
「うわあ。こら、静まらぬか!」
とかね。


…ドラマが成り立たねぇな。


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◆ 2代将軍秀忠には隠し子がいた!

まじめ一辺倒の江戸幕府の2代将軍・秀忠は、女性関係にも当時としては珍しく超マジメでし
た。秀忠には基本的に側室はおらず、正妻だけだったのです。正妻・お江与の方は嫉妬深
、それが怖くて…という武将にしては情けない理由だった、という話もありますが…。
ですが、そんな律儀な秀忠も一時の過ちがあったのか何なのか?
隠し子がいたんです!

■たった一度の過ち?
秀忠は、4男5女をもうけていますが、そのうちの一人がこの隠し子に該当する人物です。隠し子
ですから当然ですか、この一人だけ母親が違います。他の8人はみんな正妻・お江与の方と
の間の子供です。側室が当たり前のように居た時代ですから、いかに正妻様が嫉妬深いとは言
っても、何も天下の将軍様が隠し子にしなくてもいいじゃないか、と思ってしまいますが、秀忠は
(よっぽど妻が怖かったんでしょう)、隠そうとします

■意外なハッピーエンドになった!
この隠し子をつくっちゃった女性は、お江与の方の侍女で志津という人でした。奥さんの侍女と
関係を持ったというのも、秀忠が奥さんを恐怖する理由だったのかもしれません。

秀忠は、奥さんを恐れてか、関係を持ってからこの侍女を遠ざけて、実家に帰してしまいまし
。しかし、この侍女、出自は身分の低い浪人の娘だったので、実家で秀忠の隠し子を産んで、
幸松丸と名付けましたが、いろいろ苦労しました。
しかし、さすがに秀忠は律義者ですから、実家に帰した後も、ひそかに様子を見させていまし


紆余曲折の後、ついに老中土井利勝らのはからいで、幸松丸は、甲州武田家の遺臣・保科正
光の養子となったのです。正光には実子がなく、跡継ぎとして育てられました。

のち、ふとしたことからまだ見ぬ弟がいることを知った3代将軍家光は、幸松丸を呼んで謁見し、
すっかり信頼して幸松丸を補佐役として重用するのでした。この幸松丸が、地味ながらも江
戸時代屈指の名君といわれるのちの会津藩主・保科正之です。

どろどろ系の話からずいぶんうまく美談にまとまったなぁ。自分は保科正之はかなり好きなんで
す。(知識足らずなんですが…)
「風雲児たち」に登場した保科正之が最高でして…。ちょっと調べてみたら名君だというので…。
何冊か本を買ったので、いま読んでます。


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これが巨大千姫だ!


◆ 千姫の肖像画の不思議

千姫は、徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼のもとに半ば政略結婚のような形で嫁がされた、という悲劇
の姫として有名ですね。

■身分差を絵で表現するとこうなる
ところで、この千姫、弘隆寺に肖像画が残っているのですが、そこにある千姫の姿は、一緒にか
いてある侍女よりもはるかに大きく描かれています。
その極端な大きさの差がやや不気味な絵なんですが、これは当然、「千姫が並外れた巨人だ
ったから」というわけではなく、千姫の身分の高さを絵だけで表現しようとしたものだそうです。

考えてみれば、この千姫、天下人・家康の孫として産まれ、前代天下人・秀吉の息子・秀頼に嫁
ぐという、天下がらみの人生を送っています。
…ある意味、凄まじい人生ですね。
しかし、親の都合で結婚させられたり、離婚させられたり…。
姫にとっては迷惑千万な話でしょう。


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↑これが巨大な千姫。(弘経寺蔵)

ちょっと端っこが暗くなってしまっていますが、左が千姫で、右が侍女です。千姫の大きさは、侍女の4倍はありますね。
身分差を絵で表現した、と言われていますが、それはそうとしか考えられないということ…かな?もしかしたら、本当にでかかったのかも…ということはないでしょうかねぇ。
ちなみに千姫は、秀頼未亡人になったあと、本多忠刻に嫁ぎました。


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