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 データ
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 開城から討ち入りまで
 吉良を討って切腹へ
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■忠臣蔵関連人物
 赤穂藩浪士四十七名
 因縁の2人
■忠臣蔵関連逸話・裏話 

忠臣蔵(吉良邸討ち入り) (1702年)

■データ
勝敗 ○赤穂浪士 対 吉良上野介●
概要 江戸城松の廊下で刃傷沙汰に及び、切腹となった浅野内匠頭の旧臣たちが主君の仇を討つべく、仇敵・吉良上野介の屋敷に討ち入った事件。
起こった時代・年月日 江戸時代・元禄期 1702年(元禄15年)12月15日
起こった場所・地名 江戸本所・吉良上野介邸(屋敷の総坪数2550坪(8415u))
関連人物 大石内蔵助以下赤穂浪士四十七名
吉良上野介、吉良義周、清水一学(一角)、小林平八郎ほか
注目度 100%
※注目度は、その事件・人物が有名であればあるほど高くなります。(0〜100まで。独断により決定。)

■討ち入りの原因

●刃傷・松の廊下
討ち入りの直接の原因は、徳川綱吉による不公平な裁きだったとされています。
勅使の接待役を仰せつかっていた赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)にその作法を教わります。ところが、吉良に賄賂を贈らなかったため、いろいろと意地悪され、ついに堪忍袋の緒が切れた浅野内匠頭は、江戸城松の廊下にて、吉良上野介に斬りつけてしまいます。「上野介、この間の遺恨覚えたるか!」と叫んで、吉良の額と背中を斬りつけた浅野でしたが、すぐに梶川与惣兵衛という旗本に「殿中でござるぞ」と取り押さえられてしまいます。映画やドラマでも、有名なワンシーンですね。

●どんな意地悪をされたか、なぜ意地悪をされたか
上野介による意地悪は、まず内匠頭を「田舎者」と罵り、他の者にも悪し様に評価したということ。城内で内匠頭と目が合ったとき、隣の同僚に何やら耳打ちして笑いあったなどというのもあります。脚色くさいですが、これは確かに腹立たしいですよね。
また、大事な情報を伏せていたというのもあります。おかげで、屋敷の畳を一晩で全部取り替えるハメになったり、勅使の接待の時、他の者はちゃんとしているのに、内匠頭だけ衣装が違うというようなことがありました。
上野介が、なぜ内匠頭だけにこのような意地悪をしたのかについては、先に「賄賂を贈らなかったため」としましたが、その説が一番有名なだけで、実は他にもいろいろな説があります。

横恋慕説 内匠頭の妻・阿久里に上野介が横恋慕し、文を送ったが、無視されたため。
塩の精製法説 赤穂藩は「赤穂の塩」でも有名な塩の名産地だったので、上野介が、「塩の精製法を教え
て欲しい」と内匠頭に頼んだが、「企業秘密」と断られたため。
茶器を他人に譲渡説 上野介が欲しがっていた茶器を、内匠頭が上野介にはあげずに、別の者に譲渡したた
め。

これらの説は、いずれも様々な書物の記録から推し量ったものですが、実際のところははっきりしてません。しかし、中には上野介の逆恨みとしか言えない説もありますね。

●費用問題で上野介と対立?
内匠頭は、勅使饗応役に任ぜられると、老中から「費用が年々つり上がって来ているので、今年はできるだけ抑えてほしい」と言われました。内匠頭は、それまでの年々の饗応にかかった費用を調べ、その年は700両で賄おうと決めました。そして、それを上野介のところに相談したところ、上野介に反対され、しかもこれが原因で上野介と不和になったという話しもあります。
この話しからすると、上野介は「をいをい、700両って…勅使饗応なめんなよ」と思ったんですかねぇ。

●不公平な沙汰とは?
松の廊下の刃傷事件を聞いた将軍・綱吉は、「勅使を迎える大事な場を血で汚した」と言って、激怒します。普通、勅使の接待などの特別な役目がなくても、殿中で刀をちょっとでも抜こうものなら、切腹になるので、今回の事件の場合などもう問答無用で、即日切腹の命がくだりました。
不公平な沙汰と言われるのは、「吉良家には何もお咎めはなし」だからです。吉良上野介は被害者ですから、お咎めなしでもいいじゃないかと思ってしまう方もいるかと思いますが、「喧嘩両成敗」という言葉もあるように、お咎めなしというのはちょっと不自然な話しなのです。実際、それで浅野家の家臣(赤穂浪士)も納得がいかなかったようですし、その時の幕府の老中なども「いま少し詮議(取調べ)をしてから、沙汰を申し付けては?」と綱吉に進言しましたが、全て一蹴されてしまいました。綱吉の怒りは激しく、もう誰も諌めようとはしませんでした。

■開城から討ち入りまで

残された赤穂藩士たちは、赤穂城を明け渡すことになります。ここでも、家臣たちは家老の大石内蔵助に「開城反対」「一戦仕る」と猛反発しましたが、最終的には内蔵助の説得もあって、開城をすることになりました。しかし、内蔵助も腹にわだかまりを抱えており、のちに各地に散らばった浪士を集め、討ち入り計画を持ちかけます。
しかし、幕府にばれては、全てが水の泡。内蔵助は、京都近郊をブラブラと遊び歩いて、幕府の目を欺いていました。でも、遊びすぎて味方からも不安がられたようです。「敵を欺くにはまず味方から」と言いますが…。そんな内蔵助を見て、浪士たちの中には、不安を感じて脱盟するものもいました。
そんな中、吉良邸で茶会が催されることを掴んだ内蔵助をはじめとする残った赤穂浪士たちは、これを好機と討ち入りを決定し、当日の夜中(払暁)、雪の降る中を吉良邸に討ち入ります。

■吉良を討って、切腹へ

●制限時間付きの仇討ち
吉良邸に討ち入った赤穂浪士たちは、吉良を探すのに苦労します。吉良も赤穂浪士が自分を討ちにきたと知って、早々に寝所から逃げ出し、身を隠してしまったからです。どれだけ探してもいません。夜が明ければ、幕府の役人が大勢やってくるので、ぐずぐずしていられません。浪士たちに「もうダメか」という絶望の色が見え始めます。しかし、内蔵助は浪士を励まし、なおもよく探させました。

そして、ついに上野介を発見します。上野介発見の合図の呼び笛が鳴ると、浪士たちが一同に集まりました。ここもドラマなどでは名場面として必ずと言っていいほど描かれますが、浪士たちが吉良を取り囲み、内蔵助が「吉良上野介どのですな?」と聞くと、吉良は「無礼にもほどがある」などと言いますが、内蔵助は「主君の仇として、御首頂戴仕る」と言って、上野介を斬首。この時、浪士たちは涙を流して、主君の仇討ちを果たしたことを喜び合うのです。そのあと、浅野家の菩提寺・泉岳寺に行き、内匠頭の墓前に吉良の首を供えるのです。
しかし、この吉良斬首の話しを創作だそうです。吉良を見つけた時に、逃がしてはならない、というので、浪士たちがすでに吉良を斬り殺していたというわけです。言われてみれば、不自然な気もしますね。歌舞伎などで好まれた事件だけに、大衆受けのいいように脚色が加えられたんですね。

●討ち入り後…
この後、赤穂浪士たちは幕府に自主します。ただ一人、寺坂吉右衛門だけは途中で離脱します。内蔵助に国元の内匠頭の一族の人々に今回の討ち入りの事を細かく報告するように命を受けてのことと言われています。
浪士たちは、それぞれ大名家にお預け、順次切腹の沙汰を受け、果てていきました。
浪士の切腹と連座して、吉良家も改易、生き残った上野介の子・義周も信濃国高島城に配流になりました。上野介を討ち、吉良家は改易。赤穂浪士の悲願は達成されたのでした。


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■忠臣蔵関連簡易年表

年代 出来事 関連記事(下の記事にリンクしています)
1701 2月4日、浅野内匠頭が勅使饗応役を拝命
3月14日、江戸城内松の廊下にて、浅野内匠頭、吉良上野介
に斬りつける(江戸城松の廊下刃傷事件)。内匠頭は、取り押
さえられ、田村右京大夫邸にお預け、即日切腹
4月19日、内匠頭家臣、赤穂城を開城
11月10日、京で隠遁中の大石内蔵助、江戸にて仇討ちを狙う
過激派の浪士と会談し、翌年3月には仇討ちを決行することを
約束し、なだめる。
12月12日、吉良上野介が隠居。養子の義周が家督を継承。
12月末、高田郡兵衛が脱盟
1702 1月14日、萱野三平自刃
2月15日、京都山科の内蔵助宅で、浪士会議(山科会議)
4月15日、内蔵助が妻のりくを離縁
7月28日、京都円山で浪士会議(円山会議)
この頃、脱盟相次ぐ
10月17日、内蔵助、江戸入り
12月10日、吉良邸茶会の情報を入手。討ち入り決行をその日に定める
12月15日払暁、討ち入り決行。吉良上野介を討つ ・本当は弱かった!二刀流のあのお方
1703 2月4日、内蔵助以下浪士46名切腹。吉良義周は知行没収の
うえ、信濃高島城へ配流
・生き残り・寺坂吉右衛門の重大な役目とは?
前代未聞!そんなものを領収書に!
浪士・事件に関して

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忠臣蔵関連人物
赤穂藩四十七士
吉良邸討ち入りに参加した浪士は全部で47名です。このうち、寺坂吉右衛門だけは討ち入り後、隊を離脱したため、切腹を免れました。

名前 ルビ 順位
(※)
一言紹介・関連記事
赤埴源蔵重賢 アカバネゲンゾウシゲカタ 36番
磯貝十郎左衛門正久 イソガイジュウロウザエモンマサヒサ 33番 当初は同士と認められず、独自の行動をとったが、のち義士に加えられた。
潮田又之丞高教 ウシオダマタノジョウタカノリ 7番
大石内蔵助良雄 オオイシクラノスケヨシタカ 1番 赤穂藩家老。改易後、浪士をまとめて義挙を成功に導いた。
・大石内蔵助の気になる素顔
大石瀬左衛門信清 オオイシセザエモンノブキヨ 39番
大石主税良金 オオイシチカラヨシカネ 6番 内蔵助の子。
大高源五忠雄 オオタカゲンゴタダタケ 8番
岡島八十右衛門常樹 オカジマヤソエモンツネシゲ 20番
岡野金右衛門包秀 オカノキンエモンカネヒデ 17番
奥田貞右衛門行高 オクダサダエモンユキタカ 32番
奥田孫太夫重盛 オクダマゴダユウシゲモリ 27番
小野寺十内秀和 オノデラジュウナイヒデカズ 5番
小野寺幸右衛門秀富 オノデラコウエモンヒデトミ 18番
貝賀弥左衛門友信 カイガヤザエモントモノブ 23番
片岡源五右衛門高房 カタオカゲンゴエモンタカフサ 44番
勝田新左衛門武堯 カツタシンザエモンタケタカ 21番
茅野和助常成 カヤノワスケツネナリ 43番
神崎与五郎則休 カンザキヨゴロウノリヤス 37番 もと津山森家家臣。俳句が得意。『赤城銘伝』の著者でもある。
木村岡右衛門貞行 キムラオカエモンサダユキ 46番
倉橋伝助武幸 クラハシデンスケタケユキ 31番
菅谷半之丞政利 スガノヤハンノジョウマサトシ 22番
杉野十平次次房 スギノジュウヘイジツギフサ 42番
千馬三郎兵衛光忠 センバサブロビョウエミツタダ 19番
武林唯七隆重 タケバヤシタダシチタカシゲ 10番
近松勘六行重 チカマツカンロクユキシゲ 11番 武より知に優れる。討ち入りでは、山吉新八と激闘し、庭の池に落ちて負傷。
寺坂吉右衛門信行 テラサカキチエモンノブユキ 47番 吉田忠左衛門に仕える陪臣だったが、志願して討ち入りに加わった。
・生き残り・寺坂吉右衛門の重大な役目とは?
富森助右衛門正因 トミノモリスケエモンマサヨリ 30番
中村勘助正辰 ナカムラカンスケマサトキ 9番
間喜兵衛光延 ハザマキヒョウエミツノブ 14番
間十次郎光興 ハザマジュウジロウミツオキ 15番
間新六光風 ハザマシンロクミツカゼ 45番
早見藤左衛門満堯 ハヤミトウザエモンミツタカ 16番
原惣右衛門元辰 ハラソウエモンモトトキ 2番
不破数右衛門正種 フワカズエモンマサタネ 34番
堀部安兵衛武康 ホリベヤスベエタケツネ 26番 弥兵衛の養子。高田馬場の決闘の助太刀で有名な武勇の士。
・堀部安兵衛「高田馬場の決闘」の史実とは?
堀部弥兵衛金丸 ホリベヤヒョウエアキザネ 29番
前原伊助宗房 マエバライスケムネフサ 38番
間瀬久太夫正明 マゼキュウダユウマサアキ 4番
間瀬孫九郎正辰 マゼマゴクロウマサトキ 41番 久太夫の子。討ち入り後、袖印を欲しがる町童に笑ってこれを与えた。
三村次郎左衛門包常 ミムラジロウザエモンカネツネ 25番
村松三太夫高直 ムラマツサンダユウタカナオ 13番 喜兵衛の子。討ち入りでは、裏門組の一番乗りで、大活躍した。
村松喜兵衛秀直 ムラマツキヘエヒデナオ 12番
矢田五郎右衛門助武 ヤダゴロウエモンスケタケ 35番
矢頭右衛門七教兼 ヤコウベエモンシチノリカネ 24番
横川勘平宗利 ヨコカワカンペイムネトシ 28番
吉田沢右衛門兼貞 ヨシダサワエモンカネサダ 40番 忠左衛門の子。
吉田忠左衛門兼亮 ヨシダチュウザエモンカネスケ 3番
(※)志深浅働次第…内蔵助がこっそりつけていた勤務評定だそうです。(『忠臣蔵四十七義士全名鑑』より)順位は「47人中○番」です。

因縁(?)の二人

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)
■性格が災いしたのか
9歳で家督継承。浅野内匠頭は、一本木な性格で、真っ正直に事を行う融通のきかない人物だったようです。性格上の折り合い
のつかなさが上野介との確執を招いたようですが、内匠頭は、実は17歳の時にも勅使の接待役を歴任しており、しかも、その時も
上野介に指南を仰いでいたようです。しかし、この時はまだ若年であることもあり、側に大石頼母助がついていたので、内匠頭と
上野介はあまり接触していないともいわれます。

松の廊下の刃傷に及んだ理由は様々ありますが、なぜ殿中で抜刀するような愚を犯したかについては、その場においての上野
介の悪口(内匠頭にはそう聞こえたorそう見えた)が、直接の原因という点は確実のようです。
辞世は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」。享年35。
関連記事 ------
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)
■「高家」としての自負心
吉良家は有職故実などの古来からのしきたりや礼儀作法などに精通した「高家」です。上野介も幼い頃からそういう儀礼を学んで
きており、そういう特色のある重要な家柄であるから、驕り昂ぶって、賄賂も横行していたようです。ただ、当時の賄賂はむしろ一
般的だったと言われますので、上野介だけが悪いとは言えないのですが。
そういう家柄なので、上野介はたしかに浅野内匠頭を「田舎大名」と蔑んでいたきらいはあるようです。

内匠頭が勅使接待役を仰せつかり、吉良に教えを請おうとしたものの、吉良は京都に行っていてなかなか帰ってこず、ようやく帰
ってきた時、内匠頭はかなり焦っていたそうです。それもそのはず、内匠頭は接待に不慣れですから、「時間的な面で接待に不備
があったらどうしよう」という考えはあったと思われます。慣れないことって、早く準備万端にしとかないと、なかなか落ち着かないじ
ゃないですか。内匠頭もそういう気持ちだったんじゃないかと思います。しかし、上野介は違います。接待で何をするかは経験上、
すべてわかっています。「焦る必要はない。何を焦っているのだ、田舎大名」という気持ちだったようです。

上野介は、現在は悪逆の徒として、有名になってしまいましたが、地元では「名君」と呼ばれるなど、その評価は見直す必要があ
るとも言われ、'99年の大河ドラマ「元禄繚乱」では、「悪役でない吉良上野介」が描かれたりしました。
刃傷では、眉間に6針、背中に3針の重傷。翌年、赤穂浪士に自邸で討たれます。享年62。
関連記事 ・実際は名君です。吉良上野介様

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忠臣蔵関連記事





◆ 大石内蔵助の気になる素顔  大石内蔵助の知る人ぞ知る意外な素顔

ドラマなどでみる大石内蔵助は、故・長谷川一夫氏に代表されるように、それなりに威厳のありそ
うな、恰幅のよい人が演じており、そういうイメージが焼きついています。
しかし、実は内蔵助はやせっぽちの小男だったらしいです。

■やる気なし夫の内蔵助?
内蔵助は「昼行灯」と言われていたという話がありますが、まさにそれにふさわしいやる気なさ
そーな梅干みたいな顔した小男だったのです。さらに、性格も飄々としており、家老のくせに藩
の政治をみず、政治は大野九郎兵衛というもう一人の家老に任せっきり。まあ、九郎兵衛は
好きでやっていたから、あえて口だししなかったそうなんですが。

■飄々と内蔵助、活躍する
しかし、知っての通り、しめるところはしめるのが内蔵助です。
ある時、お隣の備中松山城の城主が、お世継ぎがいないのに亡くなったということで、江戸幕府
では、これを改易とし、城を開けわたさせることに決まりました。その時、城の受け取り役を命じら
れたのが、赤穂藩でした。内蔵助は、主君・浅野内匠頭と共に三千七百の兵を率いて松山城に
向かい、二日で松山城の引き取りを済ませたのです。

たかだか城の開けわたしとはいえ、城を枕に討ち死にしようと反抗する輩が出てくる可能性も
往々にしてあるため、兵を率いて行くのは別に不思議なことではありませんでした。
内蔵助のすごいところは、こうした過激な発言をするものが出る可能性のある城受け取り
を、松山藩家老・鶴見内蔵助と相談してわずか二日で収めたことにあります。

ダブル内蔵助、あなどりがたしというわけですな。そして、この時から、「大石内蔵助」の名が広
く知れわたるようになっていったようです。やる気なさそーでもしめるところはしめる。人気者に
もなるわけですね。


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◆ 堀部安兵衛「高田馬場の決闘」の史実とは?

堀部安兵衛は、「高田馬場の決闘」の人です。
この決闘は、安兵衛の知人で父と慕う伊予西条藩士・菅野六郎左衛門という人が、同藩の村上
庄兵衛と些細なことから争論になり、元禄七年二月二十一日午前十時に高田馬場で決闘するこ
とになったものです。

■安兵衛の豪傑物語
安兵衛は、この時はまだ堀部家の養子にはなっておらず、中山姓を名乗っていました。
それはともかくとして、安兵衛は、その朝も居酒屋で酒を飲んでおりました。

しかし、父と慕う菅野が、決闘と聞いてすぐさま家を飛び出します。ダッシュで高田馬場に向かった
のです。しかし、途中でなぜか酒屋に飛びこんで、酒樽の蛇口を勝手にひねり、五号枡に一
杯、酒を水を飲むように飲み干して、さらにダッシュ。(私…ドラマの見すぎかな…)

その頃、果し合いの現場・高田馬場では、菅野が、村上の連れてきた助っ人たち十八名に袋
だたきにされていました。果し合いは一対一と決めたのですが、村上はそれを破ったのです。

そんななかに安兵衛が到着。
「中山安兵衛、義によって助太刀いたす」という有名なセリフとともに、颯爽と登場。決闘の様
子をたまたま見に来ていた、堀部弥兵衛とその娘・ほりから、たまたま扱帯を借りて襷にすると、
村上一派を次々に倒します。
その様子を見て、安兵衛に惚れこんだ弥兵衛が、安兵衛に「養子になってくれまいか」と申し
入れ、紆余曲折あった後に、安兵衛がこれを承諾する

…というのが、講談などで有名な高田馬場のお話です。

■史実は全然違った!
しかし、これは史実とは全く異なっていて、村上の助っ人は十八名もおらず、二〜三人で、果し合
いはちゃんと、菅野と村上の一対一で行われたそうです。安兵衛が倒したのは、だまし討ち
しようとしていた(別に村上の指図ではない)村上の助っ人二名だけだといいます。
また堀部弥兵衛親娘はこの場に居なかったというし、そもそも安兵衛は大酒飲みではなく
この日も、菅野に助太刀を頼まれて、菅野と一緒に決闘場に向かったんだそうです。

…なんじゃい、ほとんど作り話じゃねぇか。
堀部安兵衛といえば、やっぱり山下慎二氏のような方だと思っていたんですが…。
昔テレビでやっていた赤穂浪士のドラマで安兵衛役が山下氏だったんですよ。


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◆ 本当は弱かった!二刀流のあのお方

討ち入りの時、吉良方で戦った清水一学と小林平八郎。
いずれも講談などでは、浪士たちとの激闘のすえ討たれた剣豪として描かれています。しかし、
実は史実は全然違います。

■実際は超逃げ腰の清水&小林
例えば、講談では「二刀を振るい、庭の池の橋上で、浪士数人を相手に一歩もひけをとらな
い戦いぶり」など華々しい活躍ぶりの清水一学は、浪士討ち入りと聞くと、上野介の寝所近くに
居て、上野介と共に逃げ、少しは戦ったようですが、結局上野介と共に倉に隠れ、上野介
発見に伴って討たれたのです。全然剣豪じゃないですね。

小林平八郎の方も惨憺たる有様です。
講談では、冷静に浪士を相手に剣を振るっているシーンが多いですが、実際は、木戸口の所で
浪士数人に捕らえられ、「上野介はどこだ」と聞かれて、「わたしは下っ端なので存じません」
と答え、逃げようとしたそうな。でも、「下っ端がそんな立派な服を着てるか!阿呆が。」
と一蹴され、悪・即・斬の正義のもとにその場で斬られてしまったそうです。
死ぬか生きるかの問題ですので、しょうがないとは思いますが、講談で、その力戦ぶりを焼きつ
けてしまった私たちとしては、やっぱりちょっと情けない感じがします。

■本当の勇者はこの方々です!
吉良方で、実際に力戦したのは、新貝弥七郎と山吉新八の二人で、彼らはそれこそ講談に
描かれる清水一学と小林平八郎の奮戦ぶりを、実際にやっていた人物だということです。

清水・小林のモデルは別の人物だったんですねぇ。
しかし、これじゃあ新貝と山吉の二人がかわいそうですなぁ。新貝と山吉の名前で登場させてや
ればよかったのに…。なんで、わざわざ情けないヤツを持ち上げたんだろう。


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◆ 生き残り・寺坂吉右衛門の重大な役目とは?

赤穂浪士は四十七人で、うち四十六人が討ち入り後、切腹の沙汰を賜っています。しかし、一人
だけ生き残った人がいます。それが寺坂吉右衛門です。

■お国へ帰って報国せよ!
一人だけ生き残ったとは言っても、彼は逃げたわけでもなんでもなく、討ち入りにもちゃんと
参加しています。討ち入り後、吉良を討ったことを泉岳寺にある主君の墓に報告に行く際に、大
石内蔵助からじきじきに、「お前はこれからすぐ、赤穂の大学様(浅野大学長広。内匠守の
弟。)に金銀受払帳を渡して、こたびの討ち入りの子細を報告するように」と命じられたので
す。
寺坂は、「せめて、亡君の墓前まで行き、みなさんと共に報告させてください」と願いましたが、内
蔵助に「ここから先はならん、お前には報告の役目、くれぐれも果たしてもらわねばならぬ。
墓前に行けば、この寺を出ることは叶うまい。」と言われ、やむなくそれに従って、播州赤穂に
戻ったのです。

■なぜ寺坂に役目を与えたのか
寺坂は、もともと赤穂家の家臣という身分ではなく、赤穂浪士の一人・吉田忠左衛門の付き人
的な役目をしていたいわば陪臣でした。しかし、亡君仇討ちへの参加の意思が強く、特別に内
蔵助の許しを得て、討ち入りに加わったものでした。それだけに内蔵助も、「この男まで死なせる
ことはあるまい」と思ったのかもしれません。

結局、生き残った形になった寺坂は、その後、他家に仕官して、八十三歳まで生き、延享四年十
月六日に亡くなりました。

あとで、他家に仕官したことから、実は裏切り者だったとする本もありましたが、まあ働かないと喰
っていけないですし…。皆様はどう思いますでしょうか。

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◆ 前代未聞!そんなものを領収書に!

忠臣蔵のエピローグで、すごいものに領収書が出されています。

■演出で盛り上げられたラストシーン
吉良上野介は、討ち入りされたとき、すぐさま逃げ出し、物置小屋に隠れていました。夜明け近く
まで見つからず、赤穂浪士たちにもあせりの色が見え始めます。夜が開けてしまうと、やたら人目
についてしまうからです。

浪士たちは、探しても探しても見つからないため、「吉良はすでにどこからか逃げたのではな
いか」と絶望感すら抱き始めました。しかし、大石内蔵助が、「吉良は必ずこの邸内のどこか
にいる。もう一度よく探せ」と命じて、浪士たちは、再びやる気を取り戻し、探しまわったのです。

すると、吉良が外の物置小屋の奥に、物に隠れてしゃがんでいるのを浪士の一人が発見しま
す。そこで吉良をそこからひきずり出し、額と背中にキズがあるのを確認しました。そうです、松の
廊下で内匠頭がつけた傷です。
吉良を大石の元に連れていくと大石は、「吉良上野介殿ですな?」と聞きました。吉良は「お、お
のれ…。ぶ、無礼であるぞ、貴様ら。」と答え、大石が「黙らっしゃい、亡君の無念を晴らさんが
ため、御首頂戴つかまつる。」と言って、吉良の首を落としたのです。

しかし、実は吉良は物置の中ですでに死んでいたそうです。
吉良を発見した浪士が、吉良発見と同時に槍でブスブス突き刺し、吉良発見を知った浪士たち
がわらわら集まってきて、さらに我も我もとみんなして吉良に刃物をザクザク突き刺したので
す。これでは一たまりもないですよね。一も二もなく吉良は絶命したというわけです。

吉良をみんな集合しているところで斬首する、というのは、映画などを最後に感動的に盛り上げる
ための演出だったわけです。

■猟奇的な領収書
この吉良の首、泉岳寺で浪士たちが浅野内匠守の墓前で仇討ちの報告をしたあと、吉良家の菩
提寺・万昌院に引き取られました。しかし、この時、渡す側の泉岳寺の住職は、首の領収書を要
求したそうです。吉良家の生き残り家老は、この要求に対し、「首一つ、確かに受け取り申し
候」という領収書を出したそうです。

……怖いっつーの。


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◆ 実際は名君です。吉良上野介様

吉良上野介は、忠臣蔵では悪役とされています。ですが、国許では名君の誉れ高き人気者だっ
たようです。

■いかにも悪い人っぽく描かれた上野介
勅使(天皇の使者)の接待役を幕府から仰せつかった浅野内匠頭は、高家の吉良上野介に接待
の仕方を習いますが、吉良は嘘を教えたり、浅野に辱をかかせようとしたりと、様々な嫌がら
をしました。怒った浅野が、江戸城内松の廊下で、吉良を斬りつけ、切腹させられると、浅
野の遺臣たちが吉良への復讐をする、というわけです。

しかし、この吉良上野介、自分の領土である三河国の幡豆郡では名君と言われた人物でし
た。

■国では名君なのになぜ悪役なのか
新田開発、堤防築造などの政策は勿論、国に戻ると、農民たちと交流するために、領内巡
視を自ら行ったのです。
…という感じの領民にとっては最高の領主だったので、お国では評判もよく名君と呼ばれた
です。

では、吉良はなぜ、浅野に嫌がらせをしたのか?
一般的には、浅野が吉良に賄賂的な献金をしなかったためといいます。しかし、これは「忠臣
蔵」の話しにおいて、赤穂浪士たちを英雄とするために創った話しで、実はもっと政治的な確
執があったのではないかとも言われています。

その一つに、「塩のこと」があります。
自分の領内で、いい塩がとれなくて困っていた吉良が、いい塩が取れる赤穂藩の浅野に、塩の
精製法を尋ねたところ、浅野は「企業ヒミツだから教えられない」と言って教えてもらえなか
ったために確執が生じたとか。

現在、他にもいくつかの説が取り上げられています。
いずれにせよ、吉良が「忠臣蔵」の話しに出てくるような「悪役中の悪役的な人物」でなかった
ことだけは確かなようですね。


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