■討ち入りの原因
●刃傷・松の廊下
討ち入りの直接の原因は、徳川綱吉による不公平な裁きだったとされています。
勅使の接待役を仰せつかっていた赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)にその作法を教わります。ところが、吉良に賄賂を贈らなかったため、いろいろと意地悪され、ついに堪忍袋の緒が切れた浅野内匠頭は、江戸城松の廊下にて、吉良上野介に斬りつけてしまいます。「上野介、この間の遺恨覚えたるか!」と叫んで、吉良の額と背中を斬りつけた浅野でしたが、すぐに梶川与惣兵衛という旗本に「殿中でござるぞ」と取り押さえられてしまいます。映画やドラマでも、有名なワンシーンですね。
●どんな意地悪をされたか、なぜ意地悪をされたか
上野介による意地悪は、まず内匠頭を「田舎者」と罵り、他の者にも悪し様に評価したということ。城内で内匠頭と目が合ったとき、隣の同僚に何やら耳打ちして笑いあったなどというのもあります。脚色くさいですが、これは確かに腹立たしいですよね。
また、大事な情報を伏せていたというのもあります。おかげで、屋敷の畳を一晩で全部取り替えるハメになったり、勅使の接待の時、他の者はちゃんとしているのに、内匠頭だけ衣装が違うというようなことがありました。
上野介が、なぜ内匠頭だけにこのような意地悪をしたのかについては、先に「賄賂を贈らなかったため」としましたが、その説が一番有名なだけで、実は他にもいろいろな説があります。
横恋慕説 |
内匠頭の妻・阿久里に上野介が横恋慕し、文を送ったが、無視されたため。 |
塩の精製法説 |
赤穂藩は「赤穂の塩」でも有名な塩の名産地だったので、上野介が、「塩の精製法を教え
て欲しい」と内匠頭に頼んだが、「企業秘密」と断られたため。 |
茶器を他人に譲渡説 |
上野介が欲しがっていた茶器を、内匠頭が上野介にはあげずに、別の者に譲渡したた
め。 |
これらの説は、いずれも様々な書物の記録から推し量ったものですが、実際のところははっきりしてません。しかし、中には上野介の逆恨みとしか言えない説もありますね。
●費用問題で上野介と対立?
内匠頭は、勅使饗応役に任ぜられると、老中から「費用が年々つり上がって来ているので、今年はできるだけ抑えてほしい」と言われました。内匠頭は、それまでの年々の饗応にかかった費用を調べ、その年は700両で賄おうと決めました。そして、それを上野介のところに相談したところ、上野介に反対され、しかもこれが原因で上野介と不和になったという話しもあります。
この話しからすると、上野介は「をいをい、700両って…勅使饗応なめんなよ」と思ったんですかねぇ。
●不公平な沙汰とは?
松の廊下の刃傷事件を聞いた将軍・綱吉は、「勅使を迎える大事な場を血で汚した」と言って、激怒します。普通、勅使の接待などの特別な役目がなくても、殿中で刀をちょっとでも抜こうものなら、切腹になるので、今回の事件の場合などもう問答無用で、即日切腹の命がくだりました。
不公平な沙汰と言われるのは、「吉良家には何もお咎めはなし」だからです。吉良上野介は被害者ですから、お咎めなしでもいいじゃないかと思ってしまう方もいるかと思いますが、「喧嘩両成敗」という言葉もあるように、お咎めなしというのはちょっと不自然な話しなのです。実際、それで浅野家の家臣(赤穂浪士)も納得がいかなかったようですし、その時の幕府の老中なども「いま少し詮議(取調べ)をしてから、沙汰を申し付けては?」と綱吉に進言しましたが、全て一蹴されてしまいました。綱吉の怒りは激しく、もう誰も諌めようとはしませんでした。
■開城から討ち入りまで
残された赤穂藩士たちは、赤穂城を明け渡すことになります。ここでも、家臣たちは家老の大石内蔵助に「開城反対」「一戦仕る」と猛反発しましたが、最終的には内蔵助の説得もあって、開城をすることになりました。しかし、内蔵助も腹にわだかまりを抱えており、のちに各地に散らばった浪士を集め、討ち入り計画を持ちかけます。
しかし、幕府にばれては、全てが水の泡。内蔵助は、京都近郊をブラブラと遊び歩いて、幕府の目を欺いていました。でも、遊びすぎて味方からも不安がられたようです。「敵を欺くにはまず味方から」と言いますが…。そんな内蔵助を見て、浪士たちの中には、不安を感じて脱盟するものもいました。
そんな中、吉良邸で茶会が催されることを掴んだ内蔵助をはじめとする残った赤穂浪士たちは、これを好機と討ち入りを決定し、当日の夜中(払暁)、雪の降る中を吉良邸に討ち入ります。
■吉良を討って、切腹へ
●制限時間付きの仇討ち
吉良邸に討ち入った赤穂浪士たちは、吉良を探すのに苦労します。吉良も赤穂浪士が自分を討ちにきたと知って、早々に寝所から逃げ出し、身を隠してしまったからです。どれだけ探してもいません。夜が明ければ、幕府の役人が大勢やってくるので、ぐずぐずしていられません。浪士たちに「もうダメか」という絶望の色が見え始めます。しかし、内蔵助は浪士を励まし、なおもよく探させました。
そして、ついに上野介を発見します。上野介発見の合図の呼び笛が鳴ると、浪士たちが一同に集まりました。ここもドラマなどでは名場面として必ずと言っていいほど描かれますが、浪士たちが吉良を取り囲み、内蔵助が「吉良上野介どのですな?」と聞くと、吉良は「無礼にもほどがある」などと言いますが、内蔵助は「主君の仇として、御首頂戴仕る」と言って、上野介を斬首。この時、浪士たちは涙を流して、主君の仇討ちを果たしたことを喜び合うのです。そのあと、浅野家の菩提寺・泉岳寺に行き、内匠頭の墓前に吉良の首を供えるのです。
しかし、この吉良斬首の話しを創作だそうです。吉良を見つけた時に、逃がしてはならない、というので、浪士たちがすでに吉良を斬り殺していたというわけです。言われてみれば、不自然な気もしますね。歌舞伎などで好まれた事件だけに、大衆受けのいいように脚色が加えられたんですね。
●討ち入り後…
この後、赤穂浪士たちは幕府に自主します。ただ一人、寺坂吉右衛門だけは途中で離脱します。内蔵助に国元の内匠頭の一族の人々に今回の討ち入りの事を細かく報告するように命を受けてのことと言われています。
浪士たちは、それぞれ大名家にお預け、順次切腹の沙汰を受け、果てていきました。
浪士の切腹と連座して、吉良家も改易、生き残った上野介の子・義周も信濃国高島城に配流になりました。上野介を討ち、吉良家は改易。赤穂浪士の悲願は達成されたのでした。
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