■乱の推移
天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子が、皇位を巡って争った戦いです。
もともと天智天皇は、大海人皇子に皇位を譲る気で居ましたが、やがて、大友皇子に譲ることを考え始めました。そこで、邪魔者となった大海人皇子を排除しようとします。これに気づいた大海人皇子は、先手をとって大津宮(当時の都)を離れ、大和(奈良県)の吉野に、出家して妻子と共に引きこもります。
671年12月、天智天皇が崩御すると、大海人皇子は、大友皇子が自身の命を狙っているという話しを聞き、またしても先手を取るべく、吉野を出発。途中、まだ近江(滋賀県・大津宮の所在地)にいた子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼びにやらせ、数人を自身の領地があった美濃(岐阜県)に送り、挙兵の準備をさせました。さらに飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)やその弟・吹負(ふけい)を味方につけます。
吉野を出てから伊賀の積殖山口で、高市皇子と合流。さらに伊勢、美濃と進軍し、大津皇子とも合流して、美濃の不破関に本陣をかまえました。この後、さらに尾張(愛知県)などから軍勢が合流しました。
このとき、大友皇子は、先手をとられて戦の準備に手間取っていました。この様子を尻目に、大海人軍は、軍を二手にわけ、一隊を琵琶湖畔を北から周り込んで大津宮に至るルートを進ませ、もう一隊は琵琶湖の南側を進み、大津宮を目指しました。
飛鳥では、大海人方の大伴吹負が大友皇子の軍と戦い、敗北し逃走しましたが、置始莵(おきそめのうさぎ)と合流し、大和(奈良県)の箸墓で、大友皇子の軍と再戦し、今度は勝利しました。
二隊に分かれた大海人軍は、琵琶湖の南側を進む軍勢が、鳥籠山、安河、栗太などで大友軍と戦い、勝利を重ね、ついに瀬田川を挟んだ最終決戦でも勝利しました。大友皇子は宮を脱出しましたが、山崎で自害しました。
約1ヶ月に渡る後継者争いでした。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申だったからです。 |