■正中の変・元弘の変
トップサイト内のご案内日本史年表>正中の変・元弘の変   
正中の変(1324年)
■データ
概要 後醍醐天皇とその一味が倒幕を企て、それが露見し、逆に加担したものが倒された事件。
起こった時代・年月日 正中元年(1324)9月19日
起こった場所・地名 京都
関連人物 後醍醐天皇、日野資朝、日野俊基、多治見国長、土岐頼員、土岐十郎、斎藤利行ほか
注目度 80%
関連記事 -----
※注目度は、その事件・人物が有名であればあるほど高くなります。(0〜100まで。独断により決定。)
※関連記事は、このページの下部にある記事にリンクしています。
■当時の情勢
●永仁の徳政令
13世紀末の元寇によって、御家人たちは幕府に従って戦いましたが、この戦いは防戦だったため、新たに領土を得たわけでもなく、幕府は御家人たちに恩賞を与えることが出来ませんでした。それゆえに御家人たちは生活苦に陥ることになってしまいます。
そもそも、元寇の時、御家人たちは戦の準備を各自で行ったため、多くの御家人が商人に土地を質入れして金を借り、その金で武具を揃えたりしました。ところが、元寇の恩賞は出ず、借りた金も返せないため、土地も戻ってきません。まさに御家人諸君たちには踏んだりけったりということになってしまいました。
とは言っても、御家人たちも座して死を待つわけにはいきませんから、連日、評定所に行って「何とかしてくれー」と訴えていました。その訴えが実ったのか、1297年に、幕府は「永仁の徳政令」を出します。これは、簡単に言うと、御家人が質入れした土地を無条件で返してもらえるという令です。これで、御家人たちは安堵しましたが、商人からすれば、「土地は返さなくてはならないのに、貸した金は戻らず」というわけで、経済事情の混乱を招いてしまい、わずかに一年で廃止令が出されました。

●ちょっとアレな執権
鎌倉幕府末期の執権に北条高時という人がいます。
彼は、政治をほとんど側近の長崎高資などに好きなようにやらせ、自分は毎日のように田楽や闘犬に興じたり、酒や女に狂っていたりしました。長崎高資たちは権力を思うままに行使して、乱れた政治を行ったので、各地で治安が悪化し、世の荒廃は誰の目にも明らかでした。

●後醍醐天皇即位
さて、ここでかの有名な後醍醐天皇が即位します。1318年のことです。世間では前述の北条高時がこれでもかという道楽ぶりで、政治は乱れ放題乱れていました。
後醍醐天皇は政治意欲旺盛な天皇で、即位後、さっそく院政を廃止し、かつて朝廷にあった記録書という役所を再興して、民の訴えを聞きながら自ら政治をみました。1321年の飢饉の時も民のことを思い、倹約を心がけ、悪政で物価が高騰するなか、悪徳商人や役人を取り締まり、施しをしたりしました。天皇は、「延喜・天暦の治」と呼ばれるかつての天皇親政の時代を理想としていました。
しかし、やはり政権は幕府が握っているため、なかなか思い通りにならないことも多く、かつ幕府の政治は明らかに間違ったものであったため、後醍醐天皇は、幕府討伐を企てます。


■正中の変
●密談
倒幕謀議は、天皇の側近の公家たちとで行われました。この中で、幕府に不満のある武士たちを誘うことになり、日野資朝や、日野俊基らが、在京の武士や、各地の武士たちに密かに接触し、謀議に加担する武士たちを増やしていきました。

やがて、1324年6月になって、いよいよ計画を実行に移す謀議が行われました。この時、挙兵は9月23日と定めました。9月23日は北野神社の祭礼があるため、それに気をとられている隙を狙おうというわけです。そして、具体的に土岐頼員と多治見国長という味方してきていた2人の武士が、幕府の京都出張所・六波羅探題を襲撃するというように決められました。

●謀議漏洩
ところが、この土岐頼員というのが、意外と肝が細いというか、うかつな男というか、妻に謀議のことを話してしまいます。まあ、もともとは話す気ではなかったものの、失敗すればもう妻の顔も見れないと思って、つい「今生の別れ」のようなことを言ってしまたんです。何にも知らないのに、急に夫から「今までありがとう。死後も一緒になろうな。」と言われれば、そりゃびっくりしますよね。この妻も、土岐を問い詰め、ついに土岐は六波羅襲撃計画をしゃべってしまいます。

そして、さらに運命というのか何なのか、この妻の父親は、幕府側・六波羅の奉行である斎藤利行だったのです。土岐の妻は、謀議が失敗したらと考えて怖くなり、土岐が寝静まってから、父・斎藤利行にこのことを話してしまいました。斎藤利行は、ひとまず、娘婿である土岐頼員を説き伏せ、謀議への加担を思いとどまらせ、すぐに六波羅⇒幕府へと六波羅襲撃謀議のことを報告しました。

●謀議加担の武士が六波羅の攻撃を受ける
こうして、倒幕の謀議は幕府の知るところとなり、六波羅の軍隊は、それに加担した土岐十郎や多治見国長らの屋敷に攻め込み、彼らを討ちました。
もちろん、天皇や公家にも詮索の手が伸びましたが、幕府も天皇まで加担しているということで、できるだけ穏便にすませようと考え、首謀格だった日野資朝と日野俊基の2人を捕らえるにとどめ、しかも、資朝は佐渡に流罪、俊基は無罪という判決を出しました。倒幕を計った者の処分としては、異例なほどに軽い罪に終わったということです。

元弘の変 (1331年)
■データ
概要 後醍醐天皇による、二度目の討幕計画で、吉田定房の密告により発覚し、天皇が隠岐に流されるなどした事件。
起こった時代・年月 元弘元年(1331)年     
起こった場所・地名 京都ほか(奈良東大寺・興福寺、比叡山などでも動きあり)
関連人物 後醍醐天皇、大塔宮、吉田定房、陶山義高、小宮山次郎
注目度 60%
関連記事 ---
※注目度は、その事件・人物が有名であればあるほど高くなります。(0〜100まで。独断により決定。)
※関連記事は、このページの下部にある記事にリンクしています。
■元弘の変
●宗教を味方につけ、祈祷調伏
正中の変後も、後醍醐天皇は討幕をあきらめません。そのため、宗教勢力を味方につけることにします。宗教勢力は、当時も僧兵などに代表されるように、一大武力をもっていました。そこで、後醍醐天皇は、東大寺・興福寺・比叡山などに行幸して、討幕の志を告げて、味方につくように誘います。
特に、比叡山の座主となっていた後醍醐天皇の第3子・大塔宮(護良親王)は、座主でありながらも武芸に秀で、天皇からも厚い信頼を得ていました。

その一方で、幕府調伏の祈祷なども行います。京都山科小野の文観僧正などに祈祷調伏を依頼し、その祈祷は4年にわたって続きました。後醍醐天皇自らも祈祷を行いました。

●発覚・処断
ところが、その天皇の頑なな討幕の姿勢を危惧した近臣の吉田定房は、この動きを「天皇の側近が考え、天皇はそれにそそのかされている」というような形で、幕府に密告してしまいます。吉田定房としては、天皇には危害が及ばないようにと考えてのことでした。

幕府はこの吉田定房の密告を聞いて、ただちに状況を調べ、まず幕府調伏の祈祷を行ったとされる、文観、円観、忠円の3僧を捕らえ、鎌倉に遅らせました。このなかでも、文観はなかなか口を割らず、かなりの拷問にあったそうです。しかし、やがては精神力の限界がきて、天皇に頼まれて鎌倉幕府調伏の祈祷をしていたことを話してしまいました。文観は、もう観念して、洗いざらいしゃべってしまったので、続いて正中の変で無罪とされて、京に戻っていた日野俊基が捕らえられます。俊基は、鎌倉に護送され斬られました。さらに幕府は、正中の変で佐渡に流罪にしていた日野資朝も斬罪処分としました。このほかに、源具行という人も、天皇へ謀叛を勧めたとして斬罪処分になっています。

●天皇はどうしたか
二度目と言うこともあり、後醍醐天皇にも当然幕府の手が伸びます。天皇には、他の者の処分よりは少し遅れて、1331年8月になって宣告されました。その処分とは、天皇は流罪、大塔宮は死罪というものでした。
大塔宮は、これを事前に察知し、後醍醐天皇に伝えます。そして、天皇は笠置に移り、おとりとして、比叡山に天皇になりすました花山院師賢という人物が入りました。

当然、幕府軍は比叡山を一斉に襲いましたが、比叡山はなかなか落ちません。やがて、比叡山には天皇はいないことがわかり、幕府軍は笠置に移動して、攻撃を開始。とにもかくにも、笠置は難攻不落を極め、しかも、この間にも後醍醐天皇の煽動による周辺諸国の武士の蜂起が伝えられたため、笠置攻めはますます難航しました。幕府軍は、攻めあぐねている状況を見て、さらに追討軍を鎌倉から送りました。
しかし、士気旺盛な笠置の軍といえども、奇襲攻撃にはかないませんでした。9月末、陶山義高と小宮山次郎の2人が、部下数人と共に、天嶮のためか無防備な、北の絶壁をよじ登り館に火を放ちました。
こうして、笠置はその後難なく落城し、天皇は籠にも牛車にも乗らず、自らの足で逃亡しました。しかし、途中で捕らえられついに隠岐に流されることになります。

一方、せっかく鎌倉からやってきた幕府軍ですが、笠置が落ちてしまい、役目がなくなってしまいました。はるばるやってきて、手ぶらで帰るのもバカらしくなったこの追加の幕府軍は、近くで城に立て籠もっているという楠木正成を攻めることにしました。

⇒トップページに戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送