■今日は何の日?                 

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一月(睦月)
1日
天文5年年(1536)
豊臣秀吉誕生。
豊臣秀吉の誕生の記録については、確実なものは一切残っていない。秀吉は、世に知られるように農民から実力で天下人になった人物で、幼年期の
信頼できる記録はほぼない。しかし、尾瀬甫庵の『太閤記』や『公卿補任』などには1月1日に日の出とともに産まれたと記される。ただし、秀吉が実際
に話したことを、秀吉の祐筆・大村由己が記したという『秀吉事記』には天文6年(1537)2月6日誕生ということになっている。
2日
3日
慶応4年(1868)
戊辰戦争勃発。
江戸幕府の終焉を告げる戦いの火蓋がきっておとされた。この日は、鳥羽・伏見の戦いが開戦。京洛で警備にあたっていた薩長軍5千人が、大坂を拠
点とする1万5千人を数える旧幕府軍と激突した。旧幕府軍は数では圧倒的に有利だったが、兵器の差が出て、翌日にはすでに薩長軍が優勢だった
という。戊辰戦争は、この鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、一年半の間、東に向かいながら続く。
4日
永暦元年(1160)
源義朝殺される。
源義朝は、頼朝・義経らの父だが、平治の乱で、平清盛らの軍勢に敗れ、東国に落ち延びる途中、尾張国内海荘で、従者の鎌田政清の舅にあたる
長田忠致にだまし討ちされた。風呂に入っている最中に襲われたという。義朝の首は京都でさらされた。享年38歳。長田忠致は、後年頼朝の軍門に
降ったが、義朝殺しの罪は許されず、刑死したとされている。
5日
6日
7日
8日
1642年
ガリレオ・ガリレイ死す。
ガリレオ・ガリレイはイタリアの天文学者。天文学者であるが、物理学にも長け、振り子の等時性を発見した。また、アリストテレスによる「物を同時に
落とすと、重いものほど早く落ちる」という当時の一般論を、ピサの斜塔最上階から物を落とす実験で、「空気抵抗がなければ、物体の落ちるスピード
に差が生じることはない」という理論を実証し、否定してみせた。
天文学者としても、木星に4つの衛星を発見するなど、多大な功績を残した。当時は、地球ではなく、空が回っている、というプトレマイオスによる「天動
説」が信じられていたが、ガリレイは、コペルニクスによる「地動説」を支持、証明せんとしたが、時代がら、宗教裁判にまで発展し、最終的に自身の地
動説支持の学説を否定させられた。この時、「それでも地球はまわっているのだ」と言ったことは有名である。望遠鏡も性能のいいのを造っている。
ちなみに、ガリレオ死去のこの年、万有引力のニュートンが誕生している。
9日
10日
11日
永禄11年(1567)
「敵に塩を送る」。
越後(新潟県)の戦国大名・上杉謙信が、宿敵武田信玄の窮地に塩を送った。武田家の領地は甲斐(山梨県)で、内陸にあり、塩が取れなかった。そ
れまでは、駿河(静岡の一部)の今川氏真や、相模(神奈川県)の北条氏康と友好関係にあったため、特に問題はなかったが、今川・北条が、武田家
の弱体化を狙って、塩の輸出をとりやめたため、武田家は窮地に陥った。
この話しを聞いた上杉謙信が、「卑怯な」と言って、ただちに宿敵・信玄に塩を送った。信玄は宿敵からの援助に感動したが、戦で手を抜くことはなかっ
た。まさに好敵手同士で、お互いを認め合っていたのかもしれない。
12日
建武元年(1334)
建武の新政で新紙幣発行。
建武の新政を行った後醍醐天皇は、88代後嵯峨天皇以来、持明院統と大覚寺統に分かれた皇統の大覚寺統の天皇。
源頼朝以来の武家政権を、以前のような天皇親政の時代に戻したいと考え、ついに鎌倉幕府の討滅に成功した後醍醐天皇は、建武の新政と呼ばれ
る天皇親政を復活させ、新紙幣なども発行。内裏を造営するなどしたが、内紛なども発生して新政の評判は落ち、二条河原落書などの悪政風刺をさ
れるに至った。
後醍醐天皇は、武家の期待を背負った足利尊氏に叛乱されて、吉野に退き南朝を立てるに及ぶ。
13日
正治元年(1199)
源頼朝没。
源頼朝は、平治の乱で平清盛に敗れた義朝の三男で、鎌倉幕府の創設者。義朝の死後、清盛によって伊豆で監禁状態にあったが、やがて挙兵し、
平家討滅に成功する。さらに奥州に勢力を誇った藤原氏をも屈服させて、鎌倉に幕府を開いた。
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』は、頼朝の死因として、稲毛重成が亡妻の追悼のために相模川に架けた橋の供養に向かった時に、落馬したことをあげ
ている。
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31日


二月(如月)
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20日
21日
22日
推古天皇30年(622)
聖徳太子没。
聖徳太子は、19歳のとき、蘇我馬子の推薦によって推古天皇の摂政となった。仏教信仰心に篤く、法隆寺・中宮寺などの建立を積極的に行った。政
策では、冠位十二階、憲法十七条などを実施。外交では、小野妹子を隋の煬帝のもとに送った際、国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天
子に致す、恙なきや云々」と記し、煬帝の怒りをかったことが有名。
斑鳩宮で死去。49歳。
23日
天正4年(1576)
織田信長、安土に移る。
安土城は、近江国の安土山(現在の滋賀県蒲生郡安土町)に築かれた城。信長は、同年正月中旬に、「米五郎左」と呼ばれた腹臣・丹羽長秀を総奉
行に命じて、築城を開始した。築城は、羽柴秀吉・滝川一益らの手勢や、職人、近隣住民から毎日3千人の人夫などを雇って行われた。天正4年のこ
の日は、信長が安土に移ってきた日で、天守閣の完成は天正7年(1579)。信長は、家臣に安土に屋敷を持つことを許可した。
24日
元弘3年(正慶2年)(1333)
後醍醐天皇、隠岐を脱出。
1331年の元弘の変のあと、笠置(現在の京都府相良郡笠置町)に逃れていた後醍醐天皇だったが、笠置の城もやがて陥落し、捕らわれの身となり、
のち、隠岐に移された。隠岐に向かう途中の院ノ庄(現・津山市)で、後醍醐天皇を思う児島高徳が、木に「天 勾践を空しゅうすること莫かれ、時に范
蠡なきにしも非ず(読みくだし)」という詩を刻み、密かに天皇に自分の忠誠心を知らせたという話しはなかなか有名。高徳のように、鎌倉幕府に反感を
持ち、天皇を頼みとする武士は他にも多く、各地で叛乱が起き、後醍醐天皇も、隠岐を脱出することに成功した。なお、天皇の隠岐脱出は閏2月24日
のこと。
25日
延喜3年(903)
菅原道真没。
藤原時平の讒言で大宰府に流された菅原道真が失意のうちに病没。
道真は、時平の父・基経の時の「阿衡の紛議」で、宇多天皇に事を収める案を提案し、それによって事が収まってから、天皇から深く信頼を得た。の
ち、醍醐天皇の即位後、時平は左大臣、道真は右大臣になったが、道真の才能と出世を藤原氏の権勢を揺るがすものと危惧した時平に讒言され、そ
れを信じた醍醐天皇に道真は大宰権帥という閑職に左遷されてしまった。道真死後、時平や醍醐天皇の皇子たちなどの死や、清涼殿への落雷が相
次ぎ、人々は「道真公の祟り」と恐れた。
26日
昭和11年(1936)
二・二六事件勃発。
この事件は、軍部内の皇道派と統制派の派閥抗争から巻き起こった事件。
昭和11年2月26日未明のことである。皇道派の一部青年将校が役1,300名の軍隊を率い、松尾伝蔵陸軍大佐、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育
総監、高橋是清蔵相を殺害した。はじめ岡田啓介首相を狙って、首相官邸を襲撃したが、岡田は隠れていて無事だった。青年将校らの合言葉は「尊
王・討奸」で、天皇親政の昭和維新を成し遂げようとしたという。
しかし、この叛乱に天皇は激怒。軍部でも勧告ビラをまき、叛乱を起こした兵士たちはその多くが帰順、幹部は自決した者が多かった。
27日
明暦3年(1657)
徳川光圀が「大日本史」の編纂を始める。
徳川光圀は、水戸黄門でも有名な人物。実際には、諸国漫遊などはしていなかったことは、いまやよく知られている。
「大日本史」は、神武天皇から後小松天皇までの歴史を膨大な史料をもとに客観的に詳述。特徴としては、南北朝時代の正統を南朝とし、また、壬申
の乱後、その正統性を認められていなかった大友皇子の即位を認め、神功皇后を后妃伝に加えていた。
この7年前、幕府の儒学者・林羅山が「本朝通鑑」という史書を幕府に献上しており、これに影響を受けて編纂を開始したらしい。
「大日本史」は、水戸家で代々編纂事業が受け継がれ、やっと全て完成したのは、明治39年(1906)であった。
28日
天正19年(1591)
千利休自刃。
千利休は堺の商人の子。幼い頃から茶の湯をたしなみ、武野紹鴎に師事した。のち、信長、ついで秀吉に仕え、秀吉の信頼ぶりはことのほか厚く、政
治にも軍事にも秀吉に対して発言をしていた。ところが、天正19年2月23日に突然、秀吉に堺に退去するよう命を受け、26日、再び京都に戻るもそこで
切腹を命じられている。
切腹事件の理由については、利休の娘・お吟を秀吉が側室として差し出すように求めた際、これを拒んだためと言われている。しかし、もう一説に、利
休が大徳寺の山門に自身の木像を飾り、その下を秀吉がくぐった際に、「利休めは権勢に慣れすぎて、わしをも見下すか」と大変な怒りを買った時が
あり、これが理由とも言われ、定かでない。
29日


三月(弥生)
1日
明治7年(1874)
佐賀の乱が平定される。
佐賀の乱を起こした江藤新平は、左院副議長、司法卿、参議などを歴任した政治家で、司法卿の時には国憲の制定、刑法、民法ほか諸法律の制定
に尽力したが、征韓論争や官吏不正の摘発などで大久保利通や長州閥とはしばしば対立し、明治六年の政変で下野した。1874年1月には民選議員
設立建白に参加したが、2月の佐賀の乱で首領となり、この日政府によって鎮圧されたのである。
2日
延元元年・建武三年(1336)
多々良浜の合戦。
後醍醐天皇による建武の新政が始まったものの、これが公家第一の武家にとっては受け入れがたい政治方針だったため、全国の武士たちの不満は
募った。足利尊氏も戦功第一で遇されたものの、征夷大将軍にはなれず、各地の武士たちの声もあり、ついに叛旗を翻す。
はじめ、怒涛の如き進撃で京をも占領した足利軍だったが、奥州から北畠顕家が戻ってくると、これに破れ、九州まで逃れた。
九州で、後醍醐天皇方の菊池氏と争ったのが、この多々良浜の合戦である。諸説あるが、菊池軍6万に対し、足利軍1千という兵力差の著しい合戦だ
ったらしい。はじめはもちろん菊池軍優勢だったが、尊氏自ら敵陣に斬り込むなどの豪勇ぶりを見せ、結局足利軍の勝利に終わる。
この後、尊氏は、九州の武士をまとめ、大軍を率いて再び京都を目指す。
3日
万延元年(1860)
桜田門外の変。
桜田門外の変は、半ば強行的に、幕府を本格的な開国方針に向かわせた時の大老・井伊直弼が、江戸城に登城しようと外桜田の藩邸を出て、桜田
門外にさしかかったところで刺客に襲われ絶命した事件。
下手人は、攘夷派の高橋多一郎、関鉄之助ほか水戸脱藩17名と、薩摩藩士1名である。この日は上巳の節句の祝いで、直弼は60余名の行列を作
り、籠に乗っていたが、刺客に襲われると、戦闘のために直弼の籠は放り出されてしまい、直弼は、籠の中に居ながらにして白刃の餌食となり、あと
で首をとられた。
司馬遼太郎氏の小説「幕末 (AA)」に短編・桜田門外の変が載っている。短くてすぐに読めるので、興味のある方はぜひ読んでみていただきたい。
4日
明和8年(1771)
杉田玄白らが腑分けを見る。
杉田玄白、前野良沢、中川順庵らが千住・小塚原の刑場で行われた腑分けを見たのは、この日のことである。3人は蘭学仲間で、杉田玄白は、先だ
って手に入れていたオランダの医書である『ターヘル・アナトミア』を持参して、図と比べながら腑分けを見た。
今まで東洋の医学書ばかりしか見たことがなかった彼らは、この腑分けで、『ターヘル・アナトミア』の正確さに舌を巻き、翌日から右も左もわからない
ままに『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業を始めたのである。
その翻訳作業の苦労ぶりはのちに玄白が著した『蘭学事始』に詳しい。かの有名な『ターヘル・アナトミア』の翻訳書である『解体新書』の完成は、1年
10ヶ月のちのことであった。
『解体新書』作成については、コミック『風雲児たち (4) (AA)』が詳しい。ギャグ調で読みやすいのオススメです。
5日
文永5年(1268)
北条時宗執権となる。
北条時宗は鎌倉幕府の第8代執権。5代時頼の子。
ちょうど元寇の時の執権で、困窮する幕府の御家人を動かし、北九州沿岸の防備日につかせるなどして、二度とも退けた。
時宗が執権に就任したのは18歳の時。ほどなくして、蒙古襲来、これの対処に追われる中、国内では鎌倉で反名越氏らの反乱が起きる(二月騒動)
など、難局続きであった。時宗の享年は34歳。大河ドラマにもなった。
6日
永仁5年(1297)
永仁の徳政令発布。
貨幣などの流通による経済の仕組みの変化により、御家人たちは高利貸しなどに土地や武具を質入して生活するほどに困窮した。しかし、そんな日
本を、元寇が襲う。
御家人たちは、おのおの、幕府の恩賞を期待して、自費を投げ打って日本の防衛にあたったが、幕府も困窮しているうえ、外国の進攻による防衛戦だ
ったため、新たに得た土地もなく、御家人たちへの恩賞はいつまでたっても出されなかった。
さらに困窮していく御家人たちを、幕府は徳政令を出して救おうとする。これは、「これまでに御家人が質入した土地や財産は、一定の期間内のものは
無条件で御家人に返還される」というのが大きな項目で、これにより、商人には貸した金は戻ってこず、質入れしてもらった土地も返さなくてはならない
という事態が発生した。
この徳政令は、社会経済に混乱を巻き起こし、一年で撤回された。
7日
8日
大宝2年(702)
度量衡制定。
「度」は長さ・面積、「量」は容積、「衡」は重量を指す。
度量衡そのものは、大陸からもたらされたという。大宝元年(701)の大宝律令の完成、そして翌年の施行に続いて、3月8日に令に従い度量衡が制定
された。時の天皇は文武天皇
度量衡は、やがて律令制の衰退と共に用いられなくなっていく。
9日
安政3年(1856)
開港地で踏絵を廃止。
幕府は、1854年にアメリカと日米和親条約を結び、事実上、開国した。ただし、この開国では、開港地は、下田・箱館の二港に限られていた。
しかし、最恵国待遇により、アメリカの他5カ国とも同様の条件で条約を結ぶことになった日本は、民のキリシタン判別に用いていた「踏絵」を開港地に
おいては廃止した。これは、外国文化の流入により、踏絵によるキリシタン取り締まりがあまり意味を成さなくなったことによると思われる。
10日
和銅三年(710)
平城京遷都。
これに先立つ694年に、持統天皇による藤原京遷都が行われたが、701年に大宝律令が完成。これによって、ときの文武天皇は、その律令国家の発
展のために藤原京では手狭であると判断し、藤原不比等や官位五位以上の臣と相談する。
文武天皇の跡を継いで即位した、元明天皇は和銅元年(708)に平城(なら)の地に新都を造営することを発表。中国の都・長安を模した都造営が始ま
り、710年のこの日、正式に遷都の運びとなった。
11日
天正10年(1582)
武田勝頼、田野で自害(天目山の合戦)。
武田信玄で知られる名門武田家は、勝頼の代になて長篠合戦に破れ、大きく衰退した。やがて、織田信長の軍勢の進攻を招いた武田家は、内通者
が続発し、一気に追い詰められてしまった。勝頼は、新府城から笹子峠、天目山栖雲寺と落ち延びていくが、その付近で地下人の蜂起を受けて行く手
をふさがれ、さらに織田家の滝川一益が後方より近づく。結局、田野付近で進めず退けずの状況におちいった勝頼は、ここで一戦交えて自害した。享
年37歳。
「天目山」は栖雲寺の山号で、そういう名の山があるというわけではないらしい。
12日
明治9年(1876)
日曜休日、土曜は半ドンと定められる。
江戸時代の日本には、これと言って休日というものはなく、職人たちが羽を伸ばすのは、盆と正月くらいであった。明治になって休日制が定められる
と、「一六」の日が休日と定められ、毎月の一と六のつく日が休日とされた。
しかし、外国では日曜休日制はすでにとられており、日本でもこれを取り入れることにした。これにより、官庁、学校、会社などは日曜は休日、土曜は
半日休日となった。当時、土曜は「半ドン」と呼んだが、これはオランダ語の「ドンタク」という言葉が、休日を示す言葉であることから、土曜は半日なの
で、「半ドン」と呼ぶようになったらしい。
制度が制定され、一部地域での開始されたのは、3月12日だったが、この制度が全国に共通して普及したのは、同年の4月1日からだった。
13日
天正6年(1578)
上杉謙信、脳溢血で没。
上杉謙信は、越後の戦国大名で、甲斐の武田信玄の宿命のライバル。雪解けを待って関東出兵を考えていたが、居城・春日山城の厠で倒れ、その
まま脳溢血で死去した。享年は49歳。
謙信には実子がなかったため、謙信没後、家督相続をめぐって養子の景勝と景虎との間で乱が起こるが、景勝が勝利して家督を相続した。
14日
元禄14年(1701)
浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷。
「忠臣蔵」で名高い赤穂浪士の吉良邸討ち入りに原因となった事件。浅野内匠頭は、幕府から勅使饗応役を仰せつかっており、これの作法を指導し
たのが、高家である吉良上野介であった。しかし、吉良は浅野を侮る気持ちがあったのか、何かにつけて意地悪をした。
様々な嫌がらせに耐えてきた浅野であったが、ついに我慢しきれず、この日、こともあろうに殿中で抜刀し、吉良の額と背中を斬りつけた。
浅野内匠頭はその場で取り押さえられ、将軍・綱吉の激怒を買い、即日切腹の処分となった。当時は喧嘩両成敗が基本であったが、吉良は被害者と
して扱われ、ろくな調べもないままにお咎めなし。事件後、赤穂藩は取り潰しとなった。
⇒「忠臣蔵」詳細ページへ行く
15日
慶長3年(1598)
豊臣秀吉、醍醐の花見開催。
この時、病で体力も衰えていた秀吉は、はじめ、3月10日にこの花見を計画した。しかし、10日は雨だったため、15日に延期となったのである。
秀吉はまず、家族と共に醍醐寺三宝院に入って歌を詠んだ。さらに上醍醐から山門まで桜を見ながら回遊したという。この花見は家族と懇意の大名
のみが参加して、庶民は立ち入り禁止となったが、秀吉最後の盛大な催しであった。
16日
慶長5年(1600)
オランダ船・リーフデ号が豊後に漂着。
リーフデ号が漂着したのは、豊後の臼杵湾佐志生。リーフデ号の乗組員は24名で、この中にイギリス人のウイリアム・アダムズ三浦按針)が乗って
いた。
リーフデ号は、慶長3年(1598)にオランダの東インド商会(ロッテルダム会社)が東洋遠航艦隊を編成した時に艦隊に組み込まれていた船で、アダム
ズは航海長として艦隊の旗艦であったホープ号に乗っていた。しかし、途中度々、天候による被害や、漂着した島で島の住民に攻撃を受けるなどの受
難に見舞われ、艦隊も離散。アダムズはリーフデ号に乗り換えて航海を続け、ついに慶長5年(1600)の3月16日に豊後に漂着した。
ちなみに家康は、この報せを受けて、ウイリアム・アダムズらを江戸に呼び寄せ、アダムズと、ヤン・ヨーステンを手元に置いて、イギリスとの貿易顧問
とした。アダムズはこの時三浦按針と名乗るようになる。のち、朱印船貿易でも活躍。
なお、東京の八重洲は、ヤン・ヨーステンの名が地名の由来とされている。
17日
天武天皇9年(681)
日本書紀の編纂始まる。
『日本書紀』は、それまでにあった天皇家の記録である『帝記』や、神話や氏族の記録の『旧辞』の内容が不統一であったため、統一した歴史書を作
ろうという目的で編纂が開始された。『帝記』・『旧辞』の他にも、諸家の記録なども採用している点、古事記と異なる。天武天皇の命により、舎人親
王、太安万侶らが編纂に従事し、養老4年(720)に全30巻で完成した。
18日
19日
天智天皇6年(667)
近江の大津京に遷都。
大化の改新でクーデターを成功させた中大兄皇子は、即位せずに天皇を助けながらも皇太子のままで政治に携わった(称制)。
中大兄皇子は、朝鮮半島の親和国・百済が外敵に脅かされているということで救援に向かったが、663年に白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に大
敗を喫してしまう。これにより、唐や新羅に危機感をもった中大兄皇子は、九州に防人を配置。また、大宰府には水城を築くなどして、防衛策を講じた。
しかし、それでも安心できなかったのか、中大兄皇子は、万が一、難波の港に唐・新羅の軍が現れれば、当時の都であった飛鳥の地では、決定的に
不利であると考えた。そこで、多くの群臣が反対するなか、大津京への遷都を敢行。遷都自体は、都に近いということで、飛鳥周辺で力を持ちすぎた
豪族の力を弱めるためもあったという。
大津京遷都については、『日本書紀』にも短く記されている。なお、大津京は、壬申の乱ののち、また遷都となる。
20日
元和9年(1623)
上杉景勝没す。
上杉景勝は、越後の龍と言われた戦国大名・上杉謙信の養子。織田信長など周辺勢力や豪族と戦ったが、豊臣秀吉の台頭に屈し、以後、豊臣政権
に従う。慶長3年(1598)3月、先代から伝来の越後から会津120万石に転封になった。豊臣政権下では重きをなし、秀吉臨終にあたって、五大老とい
う重役の一人に任命される。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍についたため、所領を大幅に削減され、米沢30万石に封じられた。以後は、領内整備に尽力し、米沢藩の基
礎を築いた。
21日
承和2年(835)
空海没す。
空海は、高野山金剛峰寺の開山者で、真言宗の開祖。弘法大師
804年、遣唐使としてに渡り、長安の青竜寺の恵果(えけい)から密教の教えを受けた。806年に帰国してから、嵯峨天皇より教王護国寺(東寺)を
賜り、天台宗の開祖である最澄などとも交流があった。816年に高野山の開山に着手。828年に綜芸種智院を創始した。晩年は高野山で真言宗の基
盤の確立に努めたという。
書に優れた「三筆」の一人。「弘法も筆の誤り」ということわざは、空海が三筆に数えられるほどの達筆であったからこそ言われるようになったものであ
ろう。
22日
23日
天保9年(1838)
緒方洪庵が大坂に適塾を開く。
緒方洪庵は、もとは備中の下級藩士の子であったが、16歳の時に医術を志して出奔。大坂や江戸で蘭医・中天游や坪井信道、宇田川玄真らに学ん
だ。のち、長崎にてオランダ人医師ニューマンにも教えを請うた後、大坂に戻って蘭学塾を開いた。適塾は、初めは洪庵の号をとって適々斎塾と言わ
れていた。
適塾は、蘭学塾として全国一と評され、全国から639名に及ぶ門下生が集まったという。その門下生の中には世に名を成さしめる若者も多く居た。
村益次郎橋本佐内といった傑物を初め、大鳥圭介、福沢諭吉、高松凌雲なども適塾の出身である。
洪庵自身は蘭学に平行して医学にも優れ、特に不治の病とされていた天然痘の予防に力を尽くして、牛痘を接種する「除痘館」を開いた功績は大き
い。晩年は幕府の奥医師兼医学書頭取も勤めた。
24日
文治元年(1185)
壇ノ浦の合戦で平家滅亡。
源平合戦最後の戦い。勝敗はこの日わずか一日で決した。平家は源義仲の軍勢に都を追われ、続いて義仲を破って京に入った源頼朝から軍勢を預
かる、頼朝の弟・義経に瀬戸内海沿いに攻め立てられていた。
敗戦に次ぐ敗戦でついに長門国引島(山口県下関市)まで逃れた平家は、ここで一族郎党一同、死ぬ覚悟で海上に無数の船を浮かべ、義経の軍を
迎え撃つ。船の数には諸説あるが、ともかく源氏が優勢であることは言うまでもない。平家軍は、船戦に比較的慣れており、潮の流れを使って、得意
の矢合戦で一時源氏軍を破ったが、やがて潮の流れが改まると、強制的に源氏得意の接近戦に持ち込まれてしまう。
形勢不利になるに及んで、平家はもはやこれまでと、次々に入水自殺をはかり、今は頼みと連れてきていた幼帝・安徳天皇も三種の神器と共に入水
自殺した。伝説では、平教経がただ死んでなるものかと義経を探して追いかけたが、義経は舟から舟へひらりひらりと重い甲冑を着たまま飛び移り、う
まくかわしたという
平家軍の名だたる武者はみな入水自殺したが、平家の棟梁宗盛は死のうとしないので、家来に海に突き落とされたが、すでに勝敗定まったということ
で、命あるものの救助および捕縛に乗り出した源氏に捕らえられた。義経は三種の神器は取り返すように頼朝から厳命されていたが、ついに宝剣の
みは見つけることが出来なかったため、この後悲劇の末路を歩むことになる。
現在、壇ノ浦古戦場には、平家の無念を甲羅の模様に背負った平家ガニが生息するという。
25日
明治二年(1869)
宮古湾海戦
戊辰戦争後、なおも旧幕府軍を率いて、蝦夷(北海道)函館五稜郭に立て籠もり、独立政府樹立を目指す榎本武揚らを討伐すべく、明治新政府は、8
隻からなる軍艦艦隊を品川から出航させた。政府軍艦隊が一旦宮古湾に寄航することを知った榎本らは、これらの新鋭軍艦を奪取しようと画策し、保
有軍艦3艦をを向かわせたが、途中で悪天候やら故障やらで、宮古湾にたどりついたのは「回天」1艦のみであった。
しかし、回天は、アメリカ船に偽装して新政府艦隊を油断させて近づいた。そして艦を隣接させると、乗組員だった元・新撰組の土方歳三の命で小銃
による砲撃を開始。さらに、これまた同じ新撰組隊士だった野村利三郎ら4人が新政府の艦に乗り移って激戦となった。しかし、回天はもともと隣接戦
には不向きで、敵が反撃に出てくると、圧倒的に不利となった。
乗り移った4人は戦死。回天は応戦しながら宮古湾から引き揚げた。
26日
安和二年(969)
安和の変起こる
安和の変は、藤原氏による他氏排斥事件の最後の一つと言われる事件。
具体的には、左大臣の源高明が源満仲の密告によって、失脚させられた事件であるが、事情はなかなかややこしい。
まず、高明の娘婿は為平親王という。そして、この為平親王は、時の冷泉天皇の弟なのだが、皇太子として有力視されていた。このまま為平親王が
次期皇位を継承し、為平親王の后である高明の娘が皇子を産めば、高明は外戚となり、より絶大な権力を得ることになるわけである。
これが権力を一手に握っていたい藤原氏にとっては、実によろしくないことであった。そこで、まず権力に任せて強引に為平親王の弟である守平親王
を皇太子とし、なおかつ為平親王が皇太子として有力視されていたことを逆手にとって、「高明が為平親王を皇位につけようとした」という密告をして、
高明を謀反人として左遷したというわけである。
高明は大宰権帥という閑職に左遷された。密告者は源満仲という男で、陰謀を裏で操っていたものについては、藤原氏と考えられるが、実ははっきり
とはわからないらしい。

ちなみに高校の時の先生によると、年号は「高明さん?あんなのへんよ。黒く(969)って。」と覚えるらしい。貴族女性の間の会話だという。高明はガン
グロのギャルメンという設定になっているが、もちろんそんなことはない。でも、なかなか覚えやすくて笑える。
27日
寛文11年(1671)
伊達騒動起こる
伊達騒動は、仙台藩伊達家中で起きた刃傷事件。
一言で言うと、原田甲斐伊達安芸に斬りつけた事件なのだが、内情は単なるこの2人だけの対立というわけではない。
まず、1660年、仙台伊達藩は藩主綱宗の隠居後、わずかに2歳の亀千代(綱村)が新藩主となった。亀千代は幼君のため、これの後見役となり権勢
を振るったのが、政宗の末子・伊達兵部宗勝という男である。
兵部は、実権を握って以来、奉行の原田甲斐らと共にますます専横の振る舞いが目立った。この兵部らの悪政を幕府に訴えたのが伊達安芸である。
安芸は、以前、家中の領土問題で伊達宗倫と対立した際、兵部に自分に不利な裁定を下され、個人的な恨みをあったという。
ともかく、幕府は安芸と原田らを召還し、取調べを行った。しかし、原田らの供述は明快でなく、敗訴は確定的だった。
全ての取調べ終了後、老中らの前からさがった安芸と甲斐だったが、突然甲斐が安芸に斬りかかったのである。安芸は即死、甲斐も駆けつけてきた
者たちに成敗された。
伊達家の処分は、兵部は土佐藩へお預け、甲斐の家は断絶となったが、仙台藩そのものは安堵となった。
28日
寛文11年(1671)
秀吉が尾張楽田城に入城し、小牧山城の家康と対峙(小牧の戦い)。
小牧の戦いは、小牧・長久手の戦いと総称される戦いの小牧付近での合戦である。
秀吉は1583年の賤ヶ岳の合戦の後、織田信長の二男・信雄の家老たち3人と会談し、信長の孫である三法師(秀信)に忠誠を誓うことを約していた
が、信雄は、この3家老を秀吉への内通の疑いありとして誅殺してしまった。さらに、この3家老の知行地を攻めた信雄は、秀吉からその行為を宣戦布
告とみなされ、秀吉は1584年3月21日に大坂城を出陣した。
一方、信雄は徳川家康と結び、これを迎え撃とうとした。秀吉の台頭に危機感を持っていた家康もこれに同調し、3月7日には居城・浜松城を出発し、3
月15日には尾張の小牧山城に入城。17日に羽黒砦の秀吉先鋒隊・森長可隊を破って再び小牧山に戻った。
3月28日は、秀吉がついに小牧山城から5キロほど北東に位置する楽田城に入城した日。事実上の秀吉対家康の争いはここから始まる。。
29日
万治4年(1661)
神田川の改良工事が完成。
神田川はもともと幕府がつくた掘割水路で、平川、小石川の水を隅田川に流すためにつくられた。
この神田川の水運を向上させるため(と、外様の財力削りのため)に、万治3年(1660)、仙台藩主の伊達綱宗が工事にとりかかった。5万両の費用を
かけて、御茶ノ水から市ヶ谷まで、舟運を可能にする運河が完成した。
ちなみに1657年の明暦の大火による被害を教訓としてかけられたといわれる隅田川の両国橋もちょうどこの頃にかけられたと言われており、神田川
の再整備と相まって、江戸の町の利便性はさらに高まったと思われる。
30日
明治28年(1895)
下関休戦条約調印
下関条約は、前年から始まった日清戦争の講和条約であるが、3月30日にはその事前条約といえる休戦条約が調印されている。
はじめは清国の講和の持ちかけを拒否していた日本政府だったが、ついに明治28年2月11日、伊藤博文首相と陸奥宗光外相が日本政府代表とし
て、最初の講和談判に臨んだ。しかし、この時は、清国側の使者が全権委任状を持っておらず、談判は中止になった。
3月に入って、清国全権大使として李鴻章が来日し、20日、再び談判となった。李鴻章は即時停戦を希望したが、連戦連勝の日本側は、じきに占領で
きる地を占領してから休戦するつもりだったため、即時停戦は拒否した。ところが、24日、李鴻章が戦争推進論を唱える小山六之助という過激派に狙
撃されて顔に重傷を負ってしまった。清国の反応を危惧した明治天皇は、この事件のことを聞くと、ただちに講和条約をまとめるよう指示した。
休戦条約が両国共に調印されたのが3月30日である。なお、講和条約の調印は4月17日。
31日


四月(卯月)
1日
承安3年(1173)
親鸞誕生
親鸞は、鎌倉新仏教の一つである浄土真宗(一向宗)の開祖。
親鸞の父は皇太后宮大進の日野有範という人物で、親鸞はいわゆる貴族の出身である。わずか9歳で延暦寺に出家したものの、1201年、自分のな
すべきことは何かを求めて下山し、京都の六角堂に籠もる。そこで、聖徳太子の示現を受けて、当時「南無阿弥陀仏と唱えれば救われる(専修念仏)」
と説いて評判だった法然のもとに弟子入りする。ところが、1207年、法然の教えのあまりの評判ぶりに、危機感をもった朝廷に専修念仏は弾圧され、
親鸞も越後に配流となった。
親鸞は配流先の越後でも熱心に布教活動を行ったが、1211年には赦免されて関東の常陸国稲田に移住。以後は同地で「悪人正機」や「絶対他力」
などの独自の思想に至りながら布教を続け、帰依者も多く集めた。晩年は京都で過ごす。
2日
天明4年(1784)
田沼意知が死亡
田沼意知は、「賄賂政治」で有名な老中田沼意次の子で、若年寄を務めていたが、この年の3月24日、新御番組の佐野善左衛門政言に江戸城中で
斬りつけられた。
佐野は、退出しようとした意知に「おぼえがあろう」などと三度叫んで、脇差で意知に斬りかかり、意知は肩に3寸、深さ7寸という重傷を負った。意知が
亡くなったのが4月2日。享年は36歳だった。
佐野はただちに捕らえられ、取調べを受けた。取調べに対し、佐野は「田沼に貸した佐野家の系図をいつまでたっても返してもらえず、ムシャクシャし
てやった。」と供述。さらに620両もの賄賂献金をしていたことも明かし、「賄賂を贈っても、一向に昇進させてもらえなかった」などと話した。佐野は意知
が死亡するまでの間は殺人未遂と殿中抜刀の罪で取り調べを受けていたが、4月2日の意知の死に伴い、「乱心」のかどで4月3日に切腹させられた。
この事件に伴い、田沼は失脚。田沼の失脚で、飢饉や天災が解消されたこともあって、庶民は佐野を「世直し大明神」と囃したてた。
3日
推古天皇12年(604)
聖徳太子の憲法十七条が成立
憲法十七条は、「一、和を以って貴しとなし、忤ふること無きを宗とせよ。一、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」などの条文17条で構成されるわ
が国初の憲法である。
この憲法は、今日の日本国憲法のような「法の基盤」としてのものではなく、どちらかというと精神的な教訓という色合いが濃く出ている憲法であった。
また、前年にすでに制定されていた冠位十二階の制度についての説明文なども盛り込まれており、当時の聖徳太子の政治体制を理想から実際ま
で、細かく解説したような内容と言えなくもない。
「憲法十七条は実は聖徳太子が作成したものではない」という説もあがっているが、『日本書紀』にはたしかに「皇太子(聖徳太子)、親(みずか)ら肇
(はじめ)て憲法十七条作りたまふ」と記載されている。
4日
弘安7年(1284)
北条時宗没。
北条時宗は鎌倉幕府の第8代執権。父は5代執権の時頼
時宗は時頼の次男であったが、兄・時輔が庶腹になる子だったため、嫡男として育てられた。時頼は1256年、30歳の時に、病のため執権職を長時に
譲って出家するが、これは時宗が幼少のため、成人までの眼代であり、実権は時頼が握っていた。ところが、長時もやがて病を得て出家。この時、時
宗は元服は済ませたものの未だ14歳であったため、北条一族の長老・政村が執権となり、時宗は連署に就任した。
時宗18歳の1268年、元からの使者が来訪するなどの混乱期に、執権に就任。1272年には反時宗派の勢力を討ち、幕府をまとめあげる。1274年、
1281年の元寇では防戦のための総指揮をとった。
1284年、病に倒れ、4月4日に最明寺で死去した。享年34歳。
円覚寺を創建し、無学祖元を開山とするなど、政治以外の面でも功績がある。
5日
文政10年(1827)
高田屋嘉兵衛没。
高田屋嘉兵衛は江戸時代の廻船業者で淡路の出身。
蝦夷の箱館に支店を開設して、上方〜蝦夷間の物資輸送航路を開く。これにより、蝦夷の開発に貢献している。他にも幕府の蝦夷地開発には深く関
与しており、択捉島への航路開設や、蝦夷地産物売捌方などをつとめた。
1812年、国後島の沖合いでロシア人リコルドに拿捕されて、カムチャツカに連行されたが、前年に千島・国後島測量中に幕府の役人が捕らえたロシア
人・ゴローウニンと交換で釈放された。
6日
明治15年(1882)
板垣退助、刺客に襲われる。
板垣退助は、土佐藩出身の政治家で、1881年、自由党を組織してその総裁となった。
総理に推された板垣は、刺客に襲われたこの日、自由党員の懇親会で演説するため、岐阜にいた。そして、演説が終わって、玄関から退席しようとし
たところを襲われたのである。
刺客は、「国賊!」と叫んで斬りかかり、板垣も必死の防衛をしたが、胸など6ヶ所を刺された。やがて、騒ぎを聞いて駆けつけた板垣の随員・内藤魯
一が刺客をねじ伏せた。この時、血の海に伏せる板垣が刺客に向かって「板垣死すとも自由は死せず」と言ったという話は有名である。
しかし、この言葉、発言したのは取り押さえた内藤だ、という説もある。そもそも6ヶ所も胸を刺されていて、そんなことを言えるか、というわけである。
ちなみに犯人は愛知県の教員で士族の相原という男であった。はじめは思想敵として板垣に物申すために、板垣を付まわしていたそうだが、面会を拒
絶され、ついに凶行に及んだらしい。
相原は死を覚悟の凶行だったが、判決「無期徒刑」。出獄後、板垣に謝罪に行って、「わしが国家に害する行為をしたら、同じことをしてくれ」と笑って
許されたという。
7日
昭和20年(1945)
戦艦大和轟沈。
太平洋戦争における1945年の日本軍は、2月に硫黄島を抑えられ、本土爆撃が続いていた。米軍は4月には沖縄上陸作戦を開始。日本軍は、沖縄
住民による義勇隊を結成させて、頑強に抵抗したが、やがて2つの飛行場を奪われる。
海軍ではすでに航空機による神風特別攻撃隊を編成して、敵艦に対する特攻作戦を繰り返していたが、4月6日になって、ついに戦艦による特攻作戦
を指示した。その特攻作戦の旗艦が大和だった。大和の他、駆逐艦を中心とした11隻の軍艦は、片道の燃料だけを搭載して、「帰らぬ覚悟」で出撃。
もともとは沖縄の海岸に乗り上げて、要塞として敵艦砲撃をするというのが目的だったらしいが、当時の沖縄海域には米軍のM.A.ミッチャー中将指揮
の空母が14隻も展開しており、無事海岸にたどりつく見込みはほとんどなかった。
敵軍の航空機による爆雷撃は予想通り、大和に集中した。大和は航行も困難な状態に陥り、ついに司令長官・伊藤整一中将は、退艦して、駆逐艦
「冬月」に移乗するよう命じたが、自身は沈没する大和と運命を共にした。
8日
9日
天平勝宝4年(752)
東大寺の大仏開眼供養
奈良の東大寺の大仏は、聖武天皇の発起によって鋳造された国内最大級の盧舎那仏である。聖武天皇は天平12年(740)に、河内国知識寺の盧舎
那仏を拝み、「朕も造り奉らしむ」と思われて鋳造が開始されたと伝わっている。
造立には、行基や国中公麻呂らが中心となり、200万人以上の知識人たちが参加。天平15年(743)に始められた。大仏は、まず地面を固めた土台の
上に一本の柱を立て、そこから支柱を組んでいき、横木や割り竹をまわりにとりつけていく「はりこ」方式で行われたらしい。形ができたら、上から粘土
を貼り付け、そのあと、大仏をいったん土で埋めて、上から少しづつ土を取り除いて、銅を流し込んでいった。すべての作業が終わったら、大仏の頭に
羅髪をつけて、全体に金を塗って出来上がり。
大仏開眼供養は孝謙天皇の時に行われたが、聖武天皇は上皇として健在で、開眼成るを大変お喜びになったという。
10日
推古天皇元年(593)
聖徳太子が推古天皇の摂政になる。
聖徳太子は、用明天皇の皇子で、厩戸皇子と称した。仏教に篤く帰依した偉人である。推古天皇は日本初の女性天皇。聖徳太子は甥にあたる。
太子が推古天皇の摂政になったという記事は『日本書紀』に見られるが、実際には実力者・蘇我馬子も政治の中枢にいたので、太子が本格的に政治
に深く関与するのは、冠位十二階のできた602年ころからだと言われている。
太子は用明天皇の子であるので、即位できる立場にあり、「なぜ即位しなかったか」というテーマを研究した著書は数多い。最近では、「聖徳太子はいなかった (AA)」とい
う書物も出版されていて、なかなか興味深い。価格も安いので、興味のある方はぜひご一読を。
11日
明治元年(1868)
江戸城無血開城
同年1月から始まった戊辰戦争で、官軍はついに旧幕府軍の本拠地ともいえる江戸城に迫った。しかし、ここで、江戸を戦火にさらしたくない幕臣・勝
海舟が江戸城総攻撃を思いとどまらせるべく動き出す。勝海舟は、攻撃軍の西郷隆盛と会談し、「開城するので、総攻撃は思いとどまってほしい」と頼
む。西郷はこれを一応約したが、独断では決定できないため、駿府の大総督府に報じ、大総督府は、西郷に京都に報告を入れるように命じた。京都で
は、幕府軍の責任者とも言うべき徳川慶喜の処分を話し合い、ついに寛大な処置を許されることになった。
これを聞いた西郷は、江戸城の開城の準備を進めた。こうして、「4月11日までに、慶喜は水戸に引きのき、謹慎せしむべきこと、武器、軍艦等を一旦
官軍に引き渡すこと」などの、5か条の条約とともに、江戸城は開城された。
しかし、旧幕府軍にとっては納得のいかない開城だったことも事実であり、海舟は、自ら海軍局に赴き、きちんと明け渡しが完了するまで監視していた
という。
12日
天正元年(1573)
武田信玄没
武田信玄は甲斐の戦国大名。残忍非道な父・信虎を駿河に追放して、家督を強引に継いだ。
その後、信濃を平定。北に上杉謙信と川中島(⇒「川中島の合戦」参照)で5度も宿命の対決を繰り広げたが、南は北条家、今川家と甲相駿三国同盟
を結んで、後顧の憂いをなくしたりしている。政治手腕にも長け、たびたび氾濫していた領内の川を見事な治水事業で治めた「信玄堤」は有名。
1572年12月、三方ヶ原の合戦で徳川家康を圧倒し、さらに西上の兵を進めたが、すでに信玄の体は病に侵されており、1573年の4月には信州駒場ま
で秘かに退き、危篤状態に陥る。そして、12日に没した。信玄は「我が死を3年の間隠せ」と遺言したという。
武田信玄は、織田信長や徳川家康にも最も恐れられた一代の英雄であった。上杉謙信との宿命の川中島がなければ、早い段階で上洛し、天下に最
も近い男になったとも言われているらしい。
13日
慶長17年(1612)
巌流島の決闘
巌流島の決闘の舞台は、関門海峡に浮かぶ船島という小島である。船島は下関から300メートルもない位置にあり、武蔵は小船で現れたという。
決闘の様子は武蔵の伝記『二天記』に載っている。
まず決闘場には、佐々木小次郎が剣術指南を務める細川家の家臣と、佐々木小次郎本人が先に来て、武蔵を待った。そして、武蔵は遅れてやってく
る。一説には武蔵の遅刻は小次郎の戦意を乱そうとしたものという。武蔵は来る途中で船を漕ぐ櫂を削って、刀となし、二刀流で決闘に臨んだ。
決闘開始直後、小次郎は刀をスラリと抜くと、鞘を投げ捨てた。それを見た武蔵は「小次郎敗れたり!」と叫ぶ。「勝つ気でいるなら、刀を納めるために
鞘はいる」というわけだ。
勝負は一瞬であった。しばしにらみあったが、わずかな隙を突いて、武蔵が小次郎の脳天を叩き割った。決着が着くと、武蔵は乗ってきた小船で、速
やかに引き揚げてしまったという。その場にいた細川家の家臣たちに襲われることを案じたのであろう。
ちなみに「巌流島」という呼び方は、小次郎が「巌流」と名乗っていたところからついた呼び方である。負けた小次郎の名乗りが島の代名詞になるとい
うのはいいのか悪いのか…。
14日
1865年
リンカーン撃たれる。
リンカーンはアメリカ合衆国の第16代大統領。
リンカーンは1860年の選挙で大統領に選ばれ、翌年3月4日、正式に大統領に就任するが、リンカーンは黒人奴隷の解放を唱えていたため、テキサス
やアラバマといった南部の州がリンカーンを認めず、合衆国を抜けていった。リンカーンの大統領就任の頃から、南部と北部は交戦状態となり、各地で
熾烈な戦争を繰り広げた。一旦は、不利に陥ったリンカーン率いる北軍であったが、やがて形勢は逆転し、リンカーンはついに南部の奴隷解放宣言を
出す。1863年にはゲティスバーグでの戦闘に勝利し、かの有名な「人民の人民による人民のための政治」を含む演説を行った。
そして、戦闘総数625回にも及んだという内戦・南北戦争は1865年4月9日、北軍の勝利で終結した。
リンカーンがフォード劇場で観劇中に、南部支持者だった俳優のジョン=ブースという男にデリンジャー拳銃で撃たれたのが4月14日であった。リンカー
ンは重態のまま、翌朝、帰らぬ人となった。ちなみにブースは、馬で逃げたというが、1週間後に射殺されたという。ただし、射殺されたのがブースであ
るという確認はされなかったらしい。
15日
延喜5年(905)
古今和歌集が成立(一説に編纂開始)
古今和歌集といえば、醍醐天皇の勅命によって、編纂された初めての勅撰和歌集である。日本には、最古の歌集に『万葉集』があるが、『万葉集』は
勅撰ではないので、勅撰和歌集の最古は古今和歌集である。なお、この古今和歌集を筆頭にして、以後編纂された勅撰和歌集八種を総称して『八代
集』と呼んでいる。
選者は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)らで、全20巻。収録歌数はおよそ1100首にも及ぶ。掛詞
や縁語が使用されており、文学的にも進歩が見られた。
16日
応永4年(1397)
京都北山に金閣が造営される
金閣寺は、正式名称を「北山鹿苑寺」といい、金閣は足利義満の別荘として使われた。
金閣は、はじめ西園寺家の山荘だったが、1397年に義満がこれを譲り受け、邸宅として大改修を行った。この改修工事が一応完了したのが、4月16
日である。金閣は、現在にも見られるように、外面は総て金箔が貼られ、総工費はなんと百万貫(百億円?)以上と言われる。
義満は、翌1398年5月に花の御所からここに移り、後小松天皇の行幸を迎え、連日の宴が催されたという。ここに義満の権勢は頂点を極めたのであ
る。
義満の死後、金閣は邸宅ごと禅寺となった。義満の法号「鹿苑院天山道義」にちなんで、寺名は鹿苑寺としたという。
ちなみに現在の金閣は再建。昭和33年に関係者による放火で焼失し、その後、再建されたものである。
17日
元和2年(1616)
徳川家康没
この前年、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、1615年の9月末から関東に巡視旅行をしていた。12月には駿府城に戻ったが、その翌年の1月21
日、家康は、高齢にも関わらず、鷹狩りに出かける。関東視察で、関東諸地域がよく治まっていることに安堵したのか、機嫌はよかったらしい。ところ
が、その時、珍しい鯛の天ぷらを食したのがあたってしまう。気分もよかったうえに、天ぷらという珍味(当時はほとんど知られていなかったらしい)が大
変美味だったために、老齢にも関わらず、大量に食したためだという。その日の夜から、寝込みがちになった家康は、その病状が次第に悪化。何度か
小康状態に戻ったりもしたが、ついに4月17日に逝去した。享年は75歳。一説には家康の死因は胃ガンとも言われる。
家康の健康状態について、『徳川将軍家十五代のカルテ 』に詳しく書かれている。同書は、タイトルどおり、他の将軍たちの健康状態についても詳しく述べられているので、歴
史ファンならずともオススメ。
18日
昭和18年(1943)
山本五十六連合艦隊司令長官戦死
山本五十六は、太平洋戦争開戦時の海軍連合艦隊司令長官。軍政・軍令の双方に優れた能力を発揮した名将。
熾烈な戦闘の末、日本軍が南太平洋のガダルカナル島から撤退した2ヵ月後、山本は前線視察のために、ラバウル東飛行場を一式陸攻で飛び立つ。
しかし、真珠湾攻撃以来、山本を殺害する機会を狙っていた米軍に待ち伏せされていた。山本の乗る機体は、ブーゲンビル島上空で米軍のP-38型の
編隊に襲われて墜落。山本五十六は戦死した。
ミッドウェイの失敗などにより、山本を凡将ととる専門家もいる。しかし、ミッドウェイの失敗はなんとも言いようもないが、偉功が多いことも事実である。
19日
元禄14年(1701)
赤穂城明け渡し
赤穂城主・浅野内匠頭は、勅使の接待役を仰せつかっていたが、指南役の吉良上野介を殿中・松の廊下で斬りつけ、即日切腹となった。
さらに赤穂藩は改易と決し、赤穂城も開城することになったのである。
赤穂藩の家臣たちは、「喧嘩両成敗」のはずが、内匠頭だけが処分を受け、吉良家には何のお咎めもなかったということに納得がいかず、赤穂城の明
け渡しにも反対して、一戦をというものもいたが、家老の大石内蔵助の決心によて、ついに苦渋の開城という道をとったのである。
以降、内蔵助は表向きは、放蕩人を装って、赤穂浪士の手による吉良への復讐計画を進めていた。その計画はついに翌年12月に実行される。「吉良
邸討ち入り」である。
「忠臣蔵」事件紹介ページ参照。
20日
弘治2年(1556)
長良川河畔で斎藤道三、息子・義龍に討たれる
斎藤道三は「美濃の蝮」とあだ名された典型的な下剋上大名で、もとは油売りの商人であったと言われている。以前は、道三一代で商人から大名ま
での下剋上を成し遂げたと言われていたが、最近の研究では道三の父の代から、美濃の守護代・斎藤家の家臣として近づき、やがて斎藤家が断絶
してから、ライバルだったもう一人の家臣を道三の代に殺害し、斎藤氏を名乗ったという。そして、そのまま美濃守護・土岐頼芸に仕えたのだが、道三
は大層気に入られ、深芳野という頼芸の側妾を下された。そして、この深芳野が産んだのが義龍である。
ところが、深芳野は道三が貰い受けた時、すでに身篭っており、義龍は実は土岐頼芸の息子であるという噂がたった。にわかにこの噂を信じた義龍
は、道三を実父の仇として討つことを決意し、ついに長良川で合戦となる。義龍はその時すでに正式に家督を継いでおり、多くの家臣が集まったが、
道三はすでに隠居の身で、人望が厚かったわけでもなかったので、兵力に大変な差があった。
結局、死を覚悟の道三は、かつての家臣の手によって討たれたといわれる。
21日
22日
23日
24日
25日
26日
27日
28日
29日
30日
31日


十月(神無月)
1日
2日
3日
4日
5日
6日
7日
8日
9日
10日
11日
12日
13日
14日
15日
16日
17日
18日
19日
20日
21日
22日
23日
24日
25日
26日
明治42年
・伊藤博文暗殺。
大日本帝国初代総理大臣・伊藤博文がハルピンで安重根に銃殺された。
27日
安政6年(1859)
吉田松陰処刑される。
長州藩の学者・吉田松陰は、弟子の金子重之助と共にアメリカに密航しようとして捕縛されていた。
28日
明治九年(1876)
萩の乱起こる。
長州出身の前原一誠が、木戸孝允らの政策に不満を持ち、不平士族を糾合して起こした乱。
29日
30日
31日
明治17年(1884)
秩父事件起こる。
田代栄助を中心とする秩父の困民たちが借金の分割払い許可や減税などを求めて立ち上がった事件。


十一月(霜月)
1日
皇極天皇2年(643)
斑鳩宮襲撃事件発生。
蘇我入鹿が軍勢をもって、権力争い上、邪魔な存在であった山背大兄王のいる斑鳩宮を襲撃した。山背大兄王は聖徳太子の長子。一旦、宮から脱
出するが、数日後帰還して自害した。
2日
慶長6年(1601)
江戸大火発生。
江戸で大火事が発生。当時の江戸の町は藁葺きの家がほとんどで、大きな被害を被ったが、これを教訓に、町人たちは、燃えにくい瓦葺の屋根にし
たという。
3日
大永元年(1521)
武田信玄誕生。
甲斐の虎と異名され、織田信長も恐れたという戦国最強の呼び声も高い武田信玄が誕生。父を追放して家督をもぎ取ったつわもの。
4日
安政元年(1854)
安政大地震発生。
東海地方一帯に大地震が発生。津波・火災も各地で発生し、推定死者1万人以上、倒壊・流出家屋8400戸の大惨事を招いた。
5日
延暦16年(797)
坂上田村麻呂が征夷大将軍になる。
征夷大将軍は、この頃は奥羽の蝦夷の征討を役目とした。ちなみに坂上田村麻呂は征夷大将軍の2代目。初代は大伴弟麻呂。
6日
7日
寛永11年(1634)
鍵屋の辻の決闘。
伊賀上野城下で渡辺数馬という岡山藩の藩士が、弟源太夫の仇・河合又五郎を討ち取った。助太刀の荒木又衛門の36人斬りが講談で有名だが、実
際には4人を斬っただけだという。日本三大仇討ちの一つ。
8日
応永6年(1399)
応永の乱勃発。
室町幕府3代の足利義満による金閣造営手伝い命令を拒否した中国地方の大内義弘が反義満勢力を形成して起こした反乱。乱を起こした大内義弘
もはじめは将軍家に忠実だった。
9日
明治5年年(1872)
太陽暦採用決定日。
太陰暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6年1月1日にするということで取り決められた。12月1日、2日はそれぞれ11月30日、31日にすることになっ
たため、明治5年は12月が存在しない。大晦日もなくなったため、急に正月になり、慣れない庶民は慌しかった。
10日
元和8年(1622)
江戸城本丸完成。
江戸幕府の本拠地・江戸城が完成した。家康が征夷大将軍に就任した慶長8年(1603)から、諸大名に手伝わせて、ついに完成を見た。建坪11,400
坪という途方も無い広大さを誇ったが、江戸は火災が多く、天守閣はわずかな期間で焼失。財政問題から、保科正之が大老だった頃から再建されな
かった。
11日
12日
13日
14日
15日
16日
17日
18日
19日
20日
明暦元年(1655)
宇喜多秀家没。
豊臣家五大老の一人とまでなったが、関ヶ原の合戦で西軍について敗れ、戦後八丈島に流罪となった宇喜多秀家が没した。秀家は、八丈島で前田
家の仕送りをもって気ままな流人生活を送り、83歳の大往生を遂げた。
21日
文明13年(1481)
一休さん没。
テレビアニメなどの元となった室町時代の名僧・一休宗純が死亡。晩年を連れ添った愛人に看取られつつ、「死にとうない」ともらしながら亡くなったと
いう。
22日
23日
宝永4年(1707)
富士山大噴火。
富士山の大噴火により、江戸はもちろん、関東の各国に火山灰がふりそそぎ、凶作と民衆の混乱を招いた。折りしも4年前に関東では大震災に見舞
われており、それもあって、幕府財政にも多大な影響が出たらしい。。
24日
昭和19年(1944)
B29による東京初空襲。
B29は米軍の当時最新鋭の戦略爆撃機で、正式名称は「ボーイングB29スーパーフォートレス」という。4トン爆弾を積み込んで時速580キロ飛行が可
能。航続距離も5500キロと、かなりの長距離飛行が可能だった。当日は、80機のB29が来襲した。
25日
26日
大正11年(1922)
ツタンカーメンのミイラ発見。
1917年からツタンカーメンの王墓捜索を続けてきたイギリス人考古学者ハワード・カーターが1922年11月4日に発見したツタンカーメンの王墓から、26
日、そのミイラを発見した。未盗掘状態で発見された墓室内には多数の宝物が3000年以上の間、静かに残されていた。
27日
28日
弘長2年(1262)
親鸞没。
親鸞は、幼くして両親を亡くし、9歳で出家した。のち法然の門に入り、専修念仏をおさめた。一時、朝廷から迫害を受けて捕らえられる。赦免された
後、常陸国で浄土真宗を立宗した。享年90歳。
29日
30日
明治37年(1904)
日露戦争で203高地を占領。
大本営の意見と対立していた乃木希典司令官の部下の兵士が奇襲によって、203高地を占領。この占領は一時的なもので、翌日早朝にはロシアに
奪回された。その後、児玉源太郎参謀長が司令官を代行して、同所に重点攻撃を加え、12月5日に完全占領に至る。



十二月(師走)
1日
2日
正保2年(1645)
細川忠興没。
細川幽斎の子で、文化人としても知られ、豊臣→徳川政権の変革期を渡りきった細川忠興が没した。当時としてはなかなかの長寿で、享年は82歳。
千利休の門下として、「利休七哲」の一人としても有名。
3日
4日
元和3年(1617)
山内一豊の妻没。
内助の功で有名な山内一豊の妻(まつ、千代が名という。夫の没後、出家して見性院)が没した。夫の出世に一役買った。嫁入り時の持参金を名馬
購入に宛てた話や、関ヶ原直前に大坂の様子をつぶさに報せたという話などが知られ、他にも様々な逸話が存在するが、虚構も混じるとされる。享年
61。
5日
6日
元禄13年(1700)
水戸黄門没。
テレビドラマでもおなじみ水戸黄門こと徳川光圀が死亡した。ドラマのような諸国漫遊はしなかったことはもはやよく知られている。(「出不精だった水
戸黄門」参照)史書『大日本史』の編纂をライフワークとした生涯であった。晩年は、水戸の西山荘に移って隠居生活を送る。享年73歳。
7日
享保7年(1722)
小石川養生所開設。
小石川養生所は、8代将軍吉宗の時に設置された、庶民が意見を投書できる目安箱に投書された意見から設立の動きが始まった医療施設。基本的
には、困窮者や身寄りのない人たちを対象とした。投書したのは町医者の小川笙船。小石川の御薬園内に設置された。
8日
昭和16年(1941)
真珠湾奇襲攻撃実施。
アジアの中の盟主としての「大東亜共栄圏」の樹立を目指す旧・大日本帝国は、昭和16年12月1日の午前会議で、ついに米国との開戦を決定した。
当時の連合艦隊司令長官・山本五十六は、平和的な問題解決を期待していたが、戦争は不可避となった。入念な訓練を繰り返し、当日、ハワイ沖ま
で秘密裏に航行してきた連合艦隊機動部隊は、司令長官からの「ニイタカヤマノボレ」の無電を受けて、奇襲を決行。撃沈8隻、撃破10隻、航空機破
壊479機という大戦果を上げた。
9日
慶応3年(1867)
王政復古の大号令下る。
倒幕思想の藩による、武力倒幕の気運が高まるなか、徳川慶喜は大政奉還を実施。これにより、予定されていた倒幕の密勅は解除されたが、倒幕
派の岩倉具視らは、王政復古の大号令を明治天皇臨御のもとで発することに成功。新政府樹立への第一歩を踏み出した。。
10日
11日
12日
天正12年(1584)
小牧・長久手の合戦和議成立。
小牧・長久手合戦は、織田家の事実上の後継者と自認する羽柴秀吉と、それに対抗する徳川家康・織田信雄連合軍の戦い。野戦の名手・徳川家康
が優勢であったが、織田信雄が単独で秀吉と講和交渉を進め、成立させてしまったため、家康もやむなくこれに従った。
13日
14日
15日
天慶2年(939)
平将門、新皇を名乗る。
平将門は、領地問題のことなどから、叔父の国香と対立。これを攻め滅ぼしたが、それにより、国香の縁者らとも対立することになる。将門はこれらと
戦う中、関八州を席捲し、天慶2年のこの日、新皇と名乗るの至る。妖しげな巫女のお告げがあったとされる。
16日
元治元年(1864)
高杉晋作、挙兵する。
長州藩士・高杉晋作が、藩政府に対してクーデターを起すべく、長府(下関)の功山寺で挙兵した。幕府の長州征伐を回避しようと、倒幕派の藩士を
次々に処罰する藩政府に今こそ立つ時と、諸隊に呼びかけて挙兵に至った。最終的には2000人近くが集結し、翌年1月に政府軍に勝利、藩論を転換
させる。
17日
18日
19日
天正14年(1586)
羽柴秀吉が豊臣姓を賜う。
信長横死後、謀反人光秀をはじめライバルを次々に倒して、天下統一に向けて驀進する羽柴秀吉が、朝廷から豊臣姓を賜った。秀吉は、はじめ征夷
大将軍にならんとしたが、その素性のため、単独ではこれを果たせず、当時、将軍に任官していた足利義昭の養子にならんとするが、義昭に拒まれこ
れも断念。一旦さる公家の養子になったが、最終的には姓を朝廷から賜るという形になった。
20日
21日
22日
23日
24日
明治35年(1902)
高山樗牛没。
樗牛は明治期の評論家。本名斎藤林次郎。東大卒後、教授となり、その後博文館に入社して、評論活動を開始する。国家主義を唱えていたが、結核
が悪化したためか個人主義に転向、「美的生活を論ず」でで論争に至った。晩年、天才主義に再び転向した。
25日
26日
天文11年(1542)
徳川家康誕生。
江戸幕府の創始者・徳川家康が誕生した。幼名竹千代。父は松平広忠で、幼い頃は、今川義元のもとで人質生活を送る。元服後、松平元康と名乗
り、のち家康と改名。織田信長と同盟し、数々の戦に参戦。
本能寺の変後、急速に勢力を伸ばすも、豊臣秀吉の台頭に屈服。秀吉死後に巻き起こった関ヶ原の合戦で、勝利をおさめ、慶長8年(1603)に征夷大
将軍に任じられて、江戸に幕府を開いた。
待ちに徹したと言われるその人生は「泣くまで待とうホトトギス」の有名な川柳にも表れている。
27日
28日
治承4年(1180)
平重衡、東大寺大仏を焼き討ち。
平重衡は、清盛の五男。治承4年5月の源頼政の挙兵で、宇治川に出陣。これを破った。同年12月には奈良に出陣。東大寺・興福寺を攻め、暴風吹
きすさぶ28日に放火を決行。東大寺の大仏以下、100以上の寺房を焼失させた。僧侶のみならず、民衆の間にも重衡の悪評は広まったという。
29日
30日
昭和2年(1927)
上野〜浅草間に地下鉄開通。
この地下鉄が、日本発の地下鉄。この時開通したのは、上野〜浅草までのわずか2.2キロ。しかし、自動改札(直接硬貨を投入すると、回転ゲートが
開く)が採用されている他、初地下鉄ということで、午前中だけで上野で2万人、浅草で1万人もの人が押し寄せたという。
31日
昭和10年(1935)
寺田寅彦没。
寺田寅彦は、明治〜昭和期の物理学者で随筆家。東大卒業後、理学博士として研究をした。ドイツ留学経験もある。地震研究所に所属して、気象学
や地震学の研究も行ったことがある。その著作は、「寺田寅彦全集」全24巻にまとめられている。発行年の古い初版のセットは、神保町で高値がつい
ていたような…。








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