三月(弥生) |
1日
明治7年(1874)
佐賀の乱が平定される。
佐賀の乱を起こした江藤新平は、左院副議長、司法卿、参議などを歴任した政治家で、司法卿の時には国憲の制定、刑法、民法ほか諸法律の制定
に尽力したが、征韓論争や官吏不正の摘発などで大久保利通や長州閥とはしばしば対立し、明治六年の政変で下野した。1874年1月には民選議員
設立建白に参加したが、2月の佐賀の乱で首領となり、この日政府によって鎮圧されたのである。 |
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2日
延元元年・建武三年(1336)
多々良浜の合戦。
後醍醐天皇による建武の新政が始まったものの、これが公家第一の武家にとっては受け入れがたい政治方針だったため、全国の武士たちの不満は
募った。足利尊氏も戦功第一で遇されたものの、征夷大将軍にはなれず、各地の武士たちの声もあり、ついに叛旗を翻す。
はじめ、怒涛の如き進撃で京をも占領した足利軍だったが、奥州から北畠顕家が戻ってくると、これに破れ、九州まで逃れた。
九州で、後醍醐天皇方の菊池氏と争ったのが、この多々良浜の合戦である。諸説あるが、菊池軍6万に対し、足利軍1千という兵力差の著しい合戦だ
ったらしい。はじめはもちろん菊池軍優勢だったが、尊氏自ら敵陣に斬り込むなどの豪勇ぶりを見せ、結局足利軍の勝利に終わる。
この後、尊氏は、九州の武士をまとめ、大軍を率いて再び京都を目指す。 |
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3日
万延元年(1860)
桜田門外の変。
桜田門外の変は、半ば強行的に、幕府を本格的な開国方針に向かわせた時の大老・井伊直弼が、江戸城に登城しようと外桜田の藩邸を出て、桜田
門外にさしかかったところで刺客に襲われ絶命した事件。
下手人は、攘夷派の高橋多一郎、関鉄之助ほか水戸脱藩17名と、薩摩藩士1名である。この日は上巳の節句の祝いで、直弼は60余名の行列を作
り、籠に乗っていたが、刺客に襲われると、戦闘のために直弼の籠は放り出されてしまい、直弼は、籠の中に居ながらにして白刃の餌食となり、あと
で首をとられた。
司馬遼太郎氏の小説「幕末
(AA)」に短編・桜田門外の変が載っている。短くてすぐに読めるので、興味のある方はぜひ読んでみていただきたい。 |
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4日
明和8年(1771)
杉田玄白らが腑分けを見る。
杉田玄白、前野良沢、中川順庵らが千住・小塚原の刑場で行われた腑分けを見たのは、この日のことである。3人は蘭学仲間で、杉田玄白は、先だ
って手に入れていたオランダの医書である『ターヘル・アナトミア』を持参して、図と比べながら腑分けを見た。
今まで東洋の医学書ばかりしか見たことがなかった彼らは、この腑分けで、『ターヘル・アナトミア』の正確さに舌を巻き、翌日から右も左もわからない
ままに『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業を始めたのである。
その翻訳作業の苦労ぶりはのちに玄白が著した『蘭学事始』に詳しい。かの有名な『ターヘル・アナトミア』の翻訳書である『解体新書』の完成は、1年
10ヶ月のちのことであった。
『解体新書』作成については、コミック『風雲児たち (4)
(AA)』が詳しい。ギャグ調で読みやすいのオススメです。 |
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5日
文永5年(1268)
北条時宗執権となる。
北条時宗は鎌倉幕府の第8代執権。5代時頼の子。
ちょうど元寇の時の執権で、困窮する幕府の御家人を動かし、北九州沿岸の防備日につかせるなどして、二度とも退けた。
時宗が執権に就任したのは18歳の時。ほどなくして、蒙古襲来、これの対処に追われる中、国内では鎌倉で反名越氏らの反乱が起きる(二月騒動)
など、難局続きであった。時宗の享年は34歳。大河ドラマにもなった。 |
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6日
永仁5年(1297)
永仁の徳政令発布。
貨幣などの流通による経済の仕組みの変化により、御家人たちは高利貸しなどに土地や武具を質入して生活するほどに困窮した。しかし、そんな日
本を、元寇が襲う。
御家人たちは、おのおの、幕府の恩賞を期待して、自費を投げ打って日本の防衛にあたったが、幕府も困窮しているうえ、外国の進攻による防衛戦だ
ったため、新たに得た土地もなく、御家人たちへの恩賞はいつまでたっても出されなかった。
さらに困窮していく御家人たちを、幕府は徳政令を出して救おうとする。これは、「これまでに御家人が質入した土地や財産は、一定の期間内のものは
無条件で御家人に返還される」というのが大きな項目で、これにより、商人には貸した金は戻ってこず、質入れしてもらった土地も返さなくてはならない
という事態が発生した。
この徳政令は、社会経済に混乱を巻き起こし、一年で撤回された。 |
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7日 |
8日
大宝2年(702)
度量衡制定。
「度」は長さ・面積、「量」は容積、「衡」は重量を指す。
度量衡そのものは、大陸からもたらされたという。大宝元年(701)の大宝律令の完成、そして翌年の施行に続いて、3月8日に令に従い度量衡が制定
された。時の天皇は文武天皇。
度量衡は、やがて律令制の衰退と共に用いられなくなっていく。 |
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9日
安政3年(1856)
開港地で踏絵を廃止。
幕府は、1854年にアメリカと日米和親条約を結び、事実上、開国した。ただし、この開国では、開港地は、下田・箱館の二港に限られていた。
しかし、最恵国待遇により、アメリカの他5カ国とも同様の条件で条約を結ぶことになった日本は、民のキリシタン判別に用いていた「踏絵」を開港地に
おいては廃止した。これは、外国文化の流入により、踏絵によるキリシタン取り締まりがあまり意味を成さなくなったことによると思われる。 |
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10日
和銅三年(710)
平城京遷都。
これに先立つ694年に、持統天皇による藤原京遷都が行われたが、701年に大宝律令が完成。これによって、ときの文武天皇は、その律令国家の発
展のために藤原京では手狭であると判断し、藤原不比等や官位五位以上の臣と相談する。
文武天皇の跡を継いで即位した、元明天皇は和銅元年(708)に平城(なら)の地に新都を造営することを発表。中国の都・長安を模した都造営が始ま
り、710年のこの日、正式に遷都の運びとなった。 |
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11日
天正10年(1582)
武田勝頼、田野で自害(天目山の合戦)。
武田信玄で知られる名門武田家は、勝頼の代になて長篠合戦に破れ、大きく衰退した。やがて、織田信長の軍勢の進攻を招いた武田家は、内通者
が続発し、一気に追い詰められてしまった。勝頼は、新府城から笹子峠、天目山栖雲寺と落ち延びていくが、その付近で地下人の蜂起を受けて行く手
をふさがれ、さらに織田家の滝川一益が後方より近づく。結局、田野付近で進めず退けずの状況におちいった勝頼は、ここで一戦交えて自害した。享
年37歳。
「天目山」は栖雲寺の山号で、そういう名の山があるというわけではないらしい。 |
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12日
明治9年(1876)
日曜休日、土曜は半ドンと定められる。
江戸時代の日本には、これと言って休日というものはなく、職人たちが羽を伸ばすのは、盆と正月くらいであった。明治になって休日制が定められる
と、「一六」の日が休日と定められ、毎月の一と六のつく日が休日とされた。
しかし、外国では日曜休日制はすでにとられており、日本でもこれを取り入れることにした。これにより、官庁、学校、会社などは日曜は休日、土曜は
半日休日となった。当時、土曜は「半ドン」と呼んだが、これはオランダ語の「ドンタク」という言葉が、休日を示す言葉であることから、土曜は半日なの
で、「半ドン」と呼ぶようになったらしい。
制度が制定され、一部地域での開始されたのは、3月12日だったが、この制度が全国に共通して普及したのは、同年の4月1日からだった。 |
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13日
天正6年(1578)
上杉謙信、脳溢血で没。
上杉謙信は、越後の戦国大名で、甲斐の武田信玄の宿命のライバル。雪解けを待って関東出兵を考えていたが、居城・春日山城の厠で倒れ、その
まま脳溢血で死去した。享年は49歳。
謙信には実子がなかったため、謙信没後、家督相続をめぐって養子の景勝と景虎との間で乱が起こるが、景勝が勝利して家督を相続した。 |
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14日
元禄14年(1701)
浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷。
「忠臣蔵」で名高い赤穂浪士の吉良邸討ち入りに原因となった事件。浅野内匠頭は、幕府から勅使饗応役を仰せつかっており、これの作法を指導し
たのが、高家である吉良上野介であった。しかし、吉良は浅野を侮る気持ちがあったのか、何かにつけて意地悪をした。
様々な嫌がらせに耐えてきた浅野であったが、ついに我慢しきれず、この日、こともあろうに殿中で抜刀し、吉良の額と背中を斬りつけた。
浅野内匠頭はその場で取り押さえられ、将軍・綱吉の激怒を買い、即日切腹の処分となった。当時は喧嘩両成敗が基本であったが、吉良は被害者と
して扱われ、ろくな調べもないままにお咎めなし。事件後、赤穂藩は取り潰しとなった。
⇒「忠臣蔵」詳細ページへ行く |
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15日
慶長3年(1598)
豊臣秀吉、醍醐の花見開催。
この時、病で体力も衰えていた秀吉は、はじめ、3月10日にこの花見を計画した。しかし、10日は雨だったため、15日に延期となったのである。
秀吉はまず、家族と共に醍醐寺三宝院に入って歌を詠んだ。さらに上醍醐から山門まで桜を見ながら回遊したという。この花見は家族と懇意の大名
のみが参加して、庶民は立ち入り禁止となったが、秀吉最後の盛大な催しであった。 |
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16日
慶長5年(1600)
オランダ船・リーフデ号が豊後に漂着。
リーフデ号が漂着したのは、豊後の臼杵湾佐志生。リーフデ号の乗組員は24名で、この中にイギリス人のウイリアム・アダムズ(三浦按針)が乗って
いた。
リーフデ号は、慶長3年(1598)にオランダの東インド商会(ロッテルダム会社)が東洋遠航艦隊を編成した時に艦隊に組み込まれていた船で、アダム
ズは航海長として艦隊の旗艦であったホープ号に乗っていた。しかし、途中度々、天候による被害や、漂着した島で島の住民に攻撃を受けるなどの受
難に見舞われ、艦隊も離散。アダムズはリーフデ号に乗り換えて航海を続け、ついに慶長5年(1600)の3月16日に豊後に漂着した。
ちなみに家康は、この報せを受けて、ウイリアム・アダムズらを江戸に呼び寄せ、アダムズと、ヤン・ヨーステンを手元に置いて、イギリスとの貿易顧問
とした。アダムズはこの時三浦按針と名乗るようになる。のち、朱印船貿易でも活躍。
なお、東京の八重洲は、ヤン・ヨーステンの名が地名の由来とされている。 |
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17日
天武天皇9年(681)
日本書紀の編纂始まる。
『日本書紀』は、それまでにあった天皇家の記録である『帝記』や、神話や氏族の記録の『旧辞』の内容が不統一であったため、統一した歴史書を作
ろうという目的で編纂が開始された。『帝記』・『旧辞』の他にも、諸家の記録なども採用している点、古事記と異なる。天武天皇の命により、舎人親
王、太安万侶らが編纂に従事し、養老4年(720)に全30巻で完成した。 |
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18日 |
19日
天智天皇6年(667)
近江の大津京に遷都。
大化の改新でクーデターを成功させた中大兄皇子は、即位せずに天皇を助けながらも皇太子のままで政治に携わった(称制)。
中大兄皇子は、朝鮮半島の親和国・百済が外敵に脅かされているということで救援に向かったが、663年に白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に大
敗を喫してしまう。これにより、唐や新羅に危機感をもった中大兄皇子は、九州に防人を配置。また、大宰府には水城を築くなどして、防衛策を講じた。
しかし、それでも安心できなかったのか、中大兄皇子は、万が一、難波の港に唐・新羅の軍が現れれば、当時の都であった飛鳥の地では、決定的に
不利であると考えた。そこで、多くの群臣が反対するなか、大津京への遷都を敢行。遷都自体は、都に近いということで、飛鳥周辺で力を持ちすぎた
豪族の力を弱めるためもあったという。
大津京遷都については、『日本書紀』にも短く記されている。なお、大津京は、壬申の乱ののち、また遷都となる。 |
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20日
元和9年(1623)
上杉景勝没す。
上杉景勝は、越後の龍と言われた戦国大名・上杉謙信の養子。織田信長など周辺勢力や豪族と戦ったが、豊臣秀吉の台頭に屈し、以後、豊臣政権
に従う。慶長3年(1598)3月、先代から伝来の越後から会津120万石に転封になった。豊臣政権下では重きをなし、秀吉臨終にあたって、五大老とい
う重役の一人に任命される。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍についたため、所領を大幅に削減され、米沢30万石に封じられた。以後は、領内整備に尽力し、米沢藩の基
礎を築いた。 |
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21日
承和2年(835)
空海没す。
空海は、高野山金剛峰寺の開山者で、真言宗の開祖。弘法大師。
804年、遣唐使として唐に渡り、長安の青竜寺の恵果(えけい)から密教の教えを受けた。806年に帰国してから、嵯峨天皇より教王護国寺(東寺)を
賜り、天台宗の開祖である最澄などとも交流があった。816年に高野山の開山に着手。828年に綜芸種智院を創始した。晩年は高野山で真言宗の基
盤の確立に努めたという。
書に優れた「三筆」の一人。「弘法も筆の誤り」ということわざは、空海が三筆に数えられるほどの達筆であったからこそ言われるようになったものであ
ろう。 |
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22日 |
23日
天保9年(1838)
緒方洪庵が大坂に適塾を開く。
緒方洪庵は、もとは備中の下級藩士の子であったが、16歳の時に医術を志して出奔。大坂や江戸で蘭医・中天游や坪井信道、宇田川玄真らに学ん
だ。のち、長崎にてオランダ人医師ニューマンにも教えを請うた後、大坂に戻って蘭学塾を開いた。適塾は、初めは洪庵の号をとって適々斎塾と言わ
れていた。
適塾は、蘭学塾として全国一と評され、全国から639名に及ぶ門下生が集まったという。その門下生の中には世に名を成さしめる若者も多く居た。大
村益次郎、橋本佐内といった傑物を初め、大鳥圭介、福沢諭吉、高松凌雲なども適塾の出身である。
洪庵自身は蘭学に平行して医学にも優れ、特に不治の病とされていた天然痘の予防に力を尽くして、牛痘を接種する「除痘館」を開いた功績は大き
い。晩年は幕府の奥医師兼医学書頭取も勤めた。 |
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24日
文治元年(1185)
壇ノ浦の合戦で平家滅亡。
源平合戦最後の戦い。勝敗はこの日わずか一日で決した。平家は源義仲の軍勢に都を追われ、続いて義仲を破って京に入った源頼朝から軍勢を預
かる、頼朝の弟・義経に瀬戸内海沿いに攻め立てられていた。
敗戦に次ぐ敗戦でついに長門国引島(山口県下関市)まで逃れた平家は、ここで一族郎党一同、死ぬ覚悟で海上に無数の船を浮かべ、義経の軍を
迎え撃つ。船の数には諸説あるが、ともかく源氏が優勢であることは言うまでもない。平家軍は、船戦に比較的慣れており、潮の流れを使って、得意
の矢合戦で一時源氏軍を破ったが、やがて潮の流れが改まると、強制的に源氏得意の接近戦に持ち込まれてしまう。
形勢不利になるに及んで、平家はもはやこれまでと、次々に入水自殺をはかり、今は頼みと連れてきていた幼帝・安徳天皇も三種の神器と共に入水
自殺した。伝説では、平教経がただ死んでなるものかと義経を探して追いかけたが、義経は舟から舟へひらりひらりと重い甲冑を着たまま飛び移り、う
まくかわしたという
平家軍の名だたる武者はみな入水自殺したが、平家の棟梁宗盛は死のうとしないので、家来に海に突き落とされたが、すでに勝敗定まったということ
で、命あるものの救助および捕縛に乗り出した源氏に捕らえられた。義経は三種の神器は取り返すように頼朝から厳命されていたが、ついに宝剣の
みは見つけることが出来なかったため、この後悲劇の末路を歩むことになる。
現在、壇ノ浦古戦場には、平家の無念を甲羅の模様に背負った平家ガニが生息するという。 |
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25日
明治二年(1869)
宮古湾海戦
戊辰戦争後、なおも旧幕府軍を率いて、蝦夷(北海道)函館五稜郭に立て籠もり、独立政府樹立を目指す榎本武揚らを討伐すべく、明治新政府は、8
隻からなる軍艦艦隊を品川から出航させた。政府軍艦隊が一旦宮古湾に寄航することを知った榎本らは、これらの新鋭軍艦を奪取しようと画策し、保
有軍艦3艦をを向かわせたが、途中で悪天候やら故障やらで、宮古湾にたどりついたのは「回天」1艦のみであった。
しかし、回天は、アメリカ船に偽装して新政府艦隊を油断させて近づいた。そして艦を隣接させると、乗組員だった元・新撰組の土方歳三の命で小銃
による砲撃を開始。さらに、これまた同じ新撰組隊士だった野村利三郎ら4人が新政府の艦に乗り移って激戦となった。しかし、回天はもともと隣接戦
には不向きで、敵が反撃に出てくると、圧倒的に不利となった。
乗り移った4人は戦死。回天は応戦しながら宮古湾から引き揚げた。 |
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26日
安和二年(969)
安和の変起こる
安和の変は、藤原氏による他氏排斥事件の最後の一つと言われる事件。
具体的には、左大臣の源高明が源満仲の密告によって、失脚させられた事件であるが、事情はなかなかややこしい。
まず、高明の娘婿は為平親王という。そして、この為平親王は、時の冷泉天皇の弟なのだが、皇太子として有力視されていた。このまま為平親王が
次期皇位を継承し、為平親王の后である高明の娘が皇子を産めば、高明は外戚となり、より絶大な権力を得ることになるわけである。
これが権力を一手に握っていたい藤原氏にとっては、実によろしくないことであった。そこで、まず権力に任せて強引に為平親王の弟である守平親王
を皇太子とし、なおかつ為平親王が皇太子として有力視されていたことを逆手にとって、「高明が為平親王を皇位につけようとした」という密告をして、
高明を謀反人として左遷したというわけである。
高明は大宰権帥という閑職に左遷された。密告者は源満仲という男で、陰謀を裏で操っていたものについては、藤原氏と考えられるが、実ははっきり
とはわからないらしい。
ちなみに高校の時の先生によると、年号は「高明さん?あんなのへんよ。黒く(969)って。」と覚えるらしい。貴族女性の間の会話だという。高明はガン
グロのギャルメンという設定になっているが、もちろんそんなことはない。でも、なかなか覚えやすくて笑える。 |
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27日
寛文11年(1671)
伊達騒動起こる
伊達騒動は、仙台藩伊達家中で起きた刃傷事件。
一言で言うと、原田甲斐が伊達安芸に斬りつけた事件なのだが、内情は単なるこの2人だけの対立というわけではない。
まず、1660年、仙台伊達藩は藩主綱宗の隠居後、わずかに2歳の亀千代(綱村)が新藩主となった。亀千代は幼君のため、これの後見役となり権勢
を振るったのが、政宗の末子・伊達兵部宗勝という男である。
兵部は、実権を握って以来、奉行の原田甲斐らと共にますます専横の振る舞いが目立った。この兵部らの悪政を幕府に訴えたのが伊達安芸である。
安芸は、以前、家中の領土問題で伊達宗倫と対立した際、兵部に自分に不利な裁定を下され、個人的な恨みをあったという。
ともかく、幕府は安芸と原田らを召還し、取調べを行った。しかし、原田らの供述は明快でなく、敗訴は確定的だった。
全ての取調べ終了後、老中らの前からさがった安芸と甲斐だったが、突然甲斐が安芸に斬りかかったのである。安芸は即死、甲斐も駆けつけてきた
者たちに成敗された。
伊達家の処分は、兵部は土佐藩へお預け、甲斐の家は断絶となったが、仙台藩そのものは安堵となった。 |
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28日
寛文11年(1671)
秀吉が尾張楽田城に入城し、小牧山城の家康と対峙(小牧の戦い)。
小牧の戦いは、小牧・長久手の戦いと総称される戦いの小牧付近での合戦である。
秀吉は1583年の賤ヶ岳の合戦の後、織田信長の二男・信雄の家老たち3人と会談し、信長の孫である三法師(秀信)に忠誠を誓うことを約していた
が、信雄は、この3家老を秀吉への内通の疑いありとして誅殺してしまった。さらに、この3家老の知行地を攻めた信雄は、秀吉からその行為を宣戦布
告とみなされ、秀吉は1584年3月21日に大坂城を出陣した。
一方、信雄は徳川家康と結び、これを迎え撃とうとした。秀吉の台頭に危機感を持っていた家康もこれに同調し、3月7日には居城・浜松城を出発し、3
月15日には尾張の小牧山城に入城。17日に羽黒砦の秀吉先鋒隊・森長可隊を破って再び小牧山に戻った。
3月28日は、秀吉がついに小牧山城から5キロほど北東に位置する楽田城に入城した日。事実上の秀吉対家康の争いはここから始まる。。 |
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29日
万治4年(1661)
神田川の改良工事が完成。
神田川はもともと幕府がつくた掘割水路で、平川、小石川の水を隅田川に流すためにつくられた。
この神田川の水運を向上させるため(と、外様の財力削りのため)に、万治3年(1660)、仙台藩主の伊達綱宗が工事にとりかかった。5万両の費用を
かけて、御茶ノ水から市ヶ谷まで、舟運を可能にする運河が完成した。
ちなみに1657年の明暦の大火による被害を教訓としてかけられたといわれる隅田川の両国橋もちょうどこの頃にかけられたと言われており、神田川
の再整備と相まって、江戸の町の利便性はさらに高まったと思われる。 |
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30日
明治28年(1895)
下関休戦条約調印
下関条約は、前年から始まった日清戦争の講和条約であるが、3月30日にはその事前条約といえる休戦条約が調印されている。
はじめは清国の講和の持ちかけを拒否していた日本政府だったが、ついに明治28年2月11日、伊藤博文首相と陸奥宗光外相が日本政府代表とし
て、最初の講和談判に臨んだ。しかし、この時は、清国側の使者が全権委任状を持っておらず、談判は中止になった。
3月に入って、清国全権大使として李鴻章が来日し、20日、再び談判となった。李鴻章は即時停戦を希望したが、連戦連勝の日本側は、じきに占領で
きる地を占領してから休戦するつもりだったため、即時停戦は拒否した。ところが、24日、李鴻章が戦争推進論を唱える小山六之助という過激派に狙
撃されて顔に重傷を負ってしまった。清国の反応を危惧した明治天皇は、この事件のことを聞くと、ただちに講和条約をまとめるよう指示した。
休戦条約が両国共に調印されたのが3月30日である。なお、講和条約の調印は4月17日。 |
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31日 |