887年の藤原基経の関白就任時の事件。宇多天皇が基経に送った関白任官を命ずる詔に、「阿衡の任」とあったのを基経が不満とし、政治をほったらかしにした。「阿衡」というのは、「位は高いが、職としては何もしなくていい」というような意味で、基経は「それなら俺政治みないよ」とふてくされてしまったというわけ。
ちなみにこれに弱った宇多天皇は、菅原道真に相談し、詔の起草者であった橘広相(ひろみ)を処罰した。道真は基経も「言葉にこだわりすぎて、職を放棄することは、藤原家の高名を落とす結果になる」として、諌めた。基経は結局機嫌を直した。
まあ、藤原家は天皇にそういうこと言えるくらいの立場だったということですね。しかし、この話しだけから考えると、けっこう基経サンも単純ですな。 |