上米の制【あげまいのせい】(政策)A
享保の改革の政策のうちの一つ。幕府が米不足のために、一万石以上の各大名に百石の米の差出を命じた政策。代わりに、参勤交代の江戸在府期間が半年になる。
多少おいしいだろうが、江戸まで行き来するための交通費は、今まで通りにかかるので、手放しで喜んでいる場合ではない。どうせなら、「江戸にこなくてもいい!」、とか「交通費支給!」の方がウケがよかったかもしれない。

阿衡の紛議【あこうのふんぎ】(事件)B
887年の藤原基経の関白就任時の事件。宇多天皇が基経に送った関白任官を命ずる詔に、「阿衡の任」とあったのを基経が不満とし、政治をほったらかしにした。「阿衡」というのは、「位は高いが、職としては何もしなくていい」というような意味で、基経は「それなら俺政治みないよ」とふてくされてしまったというわけ。
ちなみにこれに弱った宇多天皇は、菅原道真に相談し、詔の起草者であった橘広相(ひろみ)を処罰した。道真は基経も「言葉にこだわりすぎて、職を放棄することは、藤原家の高名を落とす結果になる」として、諌めた。基経は結局機嫌を直した。
まあ、藤原家は天皇にそういうこと言えるくらいの立場だったということですね。しかし、この話しだけから考えると、けっこう基経サンも単純ですな。

足利義満【あしかがよしみつ】(人名)A
足利幕府第3代将軍。
わずか9歳の時に、父・義詮の死により、将軍職を継ぐが、当初は後見人の細川頼之が政務を取り仕切っていた。しかし、康暦の政変で、頼之が失脚すると、斯波義将を管領に任命したが、実権は自分で握った。1392年には、南北朝の合一を実現したほか、従わない守護は力でねじふせ(明徳の乱、応永の乱)、政権の安定をはかった。
1402年には、明と勘合貿易を開始。倭寇の鎮圧にも努めた。一方で、北山に金閣を築き、自身はこちらに移って、将軍よりもさらに高い権威を得ようと計画。後の世に「皇位簒奪をはかった」とされる。
肖像画を見ると、やたらタレ目のおっさん。とても皇位簒奪を狙うような悪い顔には見えない。人は見かけによらないということかなあ。

安土城【あづちじょう】(城名)A 
戦国末期に織田信長が建てた絢爛豪華な一大城郭。近江(滋賀県)の安土山に建てられた。
城内の配置などは、戦闘向きとは言えず、信長はこの頃から、城の役割の変化を念頭に置いていたとも考えられる。縄張りは丹羽長秀が担当。斬新なデザインと派手な装飾が信長らしさを醸し出している。岡山城は、安土城を模して作られたというので、信長ファンは岡山城も見ておくべし。

姉川の合戦【あねがわのかっせん】(戦争)A
1570年、織田信長と徳川家康の連合軍が、浅井長政と朝倉義景の連合軍と激突した戦い。
信長は、長政が小谷城から出てこようとしないので、これをひきずり出すため、最寄の支城・横山城を攻めていたが、まんまと
長政が城を出てきたため、横山城攻めに少し残して、これを迎撃。長政の攻撃は凄まじく、一時は十三段に構えた信長の陣
も、十一段を破られるというやばさ加減だったが、途中で横山城を攻めていた部隊が戻ってきて、長政勢に側面攻撃を加え、
立場逆転。結局織田・徳川連合軍が勝利した。

暴れん坊将軍【あばれんぼうしょうぐん】(番組)A
テレビ朝日で放映されている、時代劇シリーズの大人気作。徳川幕府八代将軍である吉宗を主人公に、悪を討つ物語。
毎回、最後の方で悪党どもをバッタバッタとなぎ倒す吉宗公の暴れっぷりが痛快で面白い。しかし、実際に、将軍があんなことやってたら怖い。暴れん坊にも程がある。

アヘン戦争【あへんせんそう】(戦争)A
清VSイギリスの熾烈なる戦争。
1840年に勃発。要はアヘンの輸出をやめようとした清に対し、それで大もうけしていたイギリスがそれは困るっていうことでしかけた戦い。清は眠れる獅子だったはずが、ぼろ負け。いくらか領土を持っていかれるハメに。

 

硫黄島【いおうじま】(島名)B
小笠原諸島に属する島(厳密には北硫黄島と南硫黄島とにより、硫黄島群島と称する)で、硫黄の採掘に使用された島。
幕末にはペリー来航時の領土会談で、話題になっているが、硫黄島がもっとも注目されるのは、やはり太平洋戦争における、
日本軍の防衛ライン基地としての存在によるものだろう。
硫黄島は、硫黄の産地だけに有害なガスを噴出しており、守備するのも困難だったそうだが、1945年2月、米軍の島の形が変
わるほどの爆撃・砲撃を受けて占領され、以後は、米軍の前線飛行場として、本土空襲の拠点となった。

異国船打払令【いこくせんうちはらいれい】(政策)A
1825年に江戸幕府が出した外国船対策令。
「ウチは鎖国してるから、外国船は受け入れないよ!!」と言って腕づくで追い出す、勇ましい政策。手順は、@外国船を見つけたら、速やかに役人に通報しましょう。A役人は大砲を持ってその外国船が見える所に行きます。B砲撃開始。弾は届かなくてもいい。威嚇になればいいので。(大抵は射程範囲が狭くて届かない)C外国船が帰ったら「おとといきやがれ!」とキメて、宴を催します。(嘘)

板垣死すとも自由は死せず【いたがきしすともじゆうはしせず】(セリフ)A
自由党の板垣退助が、刺客に襲われた際に、刺客に言い放った言葉。意味もそのまま。「たとえ俺が死んでも、自由が死ぬことはない。」ということだ。
実際には板垣にそんなことを言う余裕はなかったはずと言われており、じつは刺客を取りおさえにきた内藤魯一が言ったセリフであるという説もある。
しかし、結局、この事件では板垣は死んでいない。

板垣退助【いたがきたいすけ】(人名)A
土佐藩出身の政治家。上士。戊辰戦争で功があって、高知藩家老となった。
維新後は、参議に就任したが、征韓論争で敗れて下野した。1874年の民選議員設立の建白をして、高知に立志社を設立。自由民権運動を推進した。そして、その運動の一環として自由党を結成した。
1882年、党員への演説のために岐阜に出向いたが、演説終了後刺客に襲われて負傷した。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉はこの時発せられたとされている。
日清戦争後に内務大臣。1898年の大隈重信と組閣した「隈板内閣」は有名。しかし、1900年に政界から身を退け、以後、社会改良運動に尽力したという。

一揆【いっき】(名詞)A
農民をはじめとする被支配者層が支配者に対し、徒党を組んで反抗すること。土一揆、国一揆、一向一揆など様々な種類があり、それぞれ微妙に趣が異なる。
サンソフト(当時はサン電子)の往年のファミコンソフト「いっき」では「ごんべ」と「たご」の二人がカマをもって奮戦していたが、二人での一揆はいくらなんでもありえない。ゲームだから成せる業。しかも「ごんべ」と「たご」、異様に強い。ちなみにこのゲーム、意外にもプレステで復刻されている。

一向一揆【いっこういっき】(出来事)A  
浄土真宗(一向宗)門徒が領主などに対して起こす一揆。1488年の加賀の一向一揆は特に有名で、カリスマ法主の蓮如のもと、加賀のみならず、近隣の一向宗門徒が団結して守護大名と対立した。
一向宗は、以降も自治的活動を続け、各地で守護大名・戦国大名たちと対立。門徒を保護しようとする大名や、あまり関心のない大名もいたが、、織田信長のように徹底的に弾圧する大名もいた。信長は、伊勢長島願証寺を皮切りに圧力をかけ、1570年からは大坂の石山本願寺と10年に及ぶ対立関係を繰り広げた。加賀は、1488年の一向一揆以来、「百姓の持ちたる国」として一向宗門徒を中心とした農民による合議制支配があったが、1580年の信長の加賀平定により農民による支配は終わりを告げた。
ちなみに信長は、延暦寺の焼き討ちも実施している。反抗するものには容赦ないんです。

伊藤博文【いとうひろぶみ】(人名)A
ご存知初代内閣総理大臣。もと長州藩士。吉田松陰の松下村塾の門下生。
幕末動乱においては、高杉晋作に従って尊皇攘夷運動を積極的に行っていた。やがてイギリスに留学。帰国後は明治新政府の役人を歴任して、大久保利通の信任を得て、大久保死後は内務卿を継ぐ。1885年、初代内閣総理大臣に就任。通算で4度に渡り組閣した実力者であった。韓国統監府の統監として韓国にわたったこともある。
1909年、満州のハルビンで安重根に暗殺された。
昔はお札の顔になってましたよね。昔は伊藤博文や板垣退助、岩倉具視などの政治的な活躍があった人がお札になっていたけど、今は文化系で活躍した人が多いなあ。日本の方針が文化系なんだろうか。

【いぬ】(あだな)D
主に織田信長の家臣・前田利家を指す。
利家の幼名が犬千代だったことに由来する。秀吉の天下になると秀吉の家臣となって、五大老にまで任ぜられた。
2002年の大河ドラマ「利家とまつ」では主役を張るも、妻のまつの尻にしかれたような、微妙な位置にいた。

今孔明【いまこうめい】(あだな)A
羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛を指す。
「中国の三国志に出てくる、稀代の軍師諸葛亮孔明並のすごい智謀の持ち主」ということなんだろうが、孔明自体、実際にはたいした軍師じゃないと叫びつづける、アンチ孔明派には、半兵衛もたいした軍師ではなかったとしか映らない。残念なあだ名である。秀吉の三顧の礼に応じたというから、そこが孔明とかぶっているということで「今孔明」なのかも。

 

ウイリアム=アダムズ【ういりあむ=あだむず】(人名)A
初めて日本にきたイギリス人の航海者。ケント州ギリンガムの出身。
慶長3年(1600)のオランダ東インド商会(ロッテルダム会社)の東洋遠航艦隊の航海長をつとめたが、この航海が受難続きで散々だった。逆風でアフリカ最南端の喜望峰を東に進めず、しょうがないので南米最南端のマゼラン海峡から太平洋に入り、西に向かった。ところが、太平洋では嵐に見舞われ、艦隊は離散。しかも、漂着した島で島住民から襲撃という手厚い(手痛い)歓迎を受け、ほうほうの体で逃げ、やがて日本の九州・豊後国(大分県)に漂着する。どんだけ運が悪いのやら…。
日本では、徳川家康に重用され、三浦按針と名乗って、対イギリス貿易顧問として活躍。朱印船貿易などでもみずから安南やトンキンに渡航した。平戸で病没。
しかし、なんで「三浦按針」やねん…と思ったら、ちゃんと意味はあったらしい。(⇒三浦按針の項へ

牛若【うしわか】(人名)B
牛若丸。源義経の幼名。
父・義朝の死亡後、平清盛に母親・兄弟共々捕らえられるが、母の常盤御前が清盛の側室になることで、命を助けられ、京の鞍馬寺に入れられた。鞍馬寺の東光坊で修行し、のち、兄・頼朝の平家討伐軍に参加し活躍する。弁慶との出会いの場面は有名だが、作り話らしい。
考えてみれば、橋の欄干を「あは、あは」と爆笑しながら、飛び交うなどというのは不気味以外のなにものでもない。

うつけ【うつけ】(あだな)C
主に織田信長を指す。阿呆なさま。
若い頃、瓢箪を腰から下げ、着物は肩をはだけ、さらに髷は茶筅結いという、まるっきりのアホの格好で、城下を練り歩いていたら、老若男女を問わず、みんなから、「織田の若様はうつけじゃ」とバカにされた。周囲の目をあざむくためという説もあるが、どうだか。これでは本当にただの阿呆である。

 

延暦寺【えんりゃくじ】(寺名)A
比叡山にある天台宗の総本山。
785年に最澄が「比叡山寺」として創建した。天台宗は805年の開かれ、823年に比叡山寺も延暦寺と改められたという。時とし
て多くの僧兵をかかえ、時の権力者たちにも多大な影響を及ぼした。1571年、織田信長により焼き討ちされて山中の堂塔の多
くを失ったが、豊臣秀吉や徳川家光の寄進があって再興した。
古文書には「山」と記されている場合があり、常識だったらしい。「山って何山だよ!」というつっこみは無粋なのだ。

 

大坂の陣【おおさかのじん】(戦争)A
厳密には1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣に分けられる。天下統一完遂のために、徳川家が豊臣家を滅ぼすためにおこした戦い。
方広寺という秀吉の建てた寺にある梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」とあるのことに、徳川家がクレームをつけた(「「家康」の名前を「安」の字で割いて呪い、かつ豊臣家の繁栄を祈るものであるという超強引なこじ付け的内容)ところから、ついに戦争にまで発展した。
冬の陣は、圧倒的に徳川軍が有利で、豊臣家の居城である大坂城を全国の大名たちを動員した徳川軍が包囲して戦う、という形であった。一方の大坂方は徳川家に反抗して浪人生活を送っていた、かつての猛者たちを召抱えて抵抗。なかでも真田幸村は第一級に有名。幸村ほか一部の者たちは城を出て、野戦で戦うべきだと主張したが、大坂城の堅固さを過信する保守派によってこの意見は退けられ、結局、幸村は「真田丸」と呼ばれる出丸を新造して、ここで熾烈な抵抗を試みた。
しかし、幸村の奮戦もむなしく、大砲の音にビビッった豊臣秀頼の母・淀殿が早期講和を希望し、割と早めに講和となった。条件として、外堀を埋めるという約束ではあったが、戦後、徳川家は勘違いを装って内堀も埋めてしまう。これに怒った豊臣家が「約束が違う」と騒ぎ立てると、「じゃあもう一回戦だ」となって、城を丸裸にされた状態から、徳川軍が圧倒的に有利な戦いが再び起こったのである。
夏の陣は、籠城はもはやムリということで、大坂方では城を出て戦った。各人奮戦するなか、またしても真田幸村の活躍ぶりは後世によく言い伝わっている。一時は家康本陣を脅かし、家康が「首をとられるくらいなら切腹する」と騒いだほどの猛進ぶりだったという。しかし多勢に無勢。やがて力尽き、幸村も討ち取られ、大坂城は落城した。豊臣軍一同は城内で自害したというが、秀頼は実は生きていて、薩摩に逃れたのだ、とする異説もある。
「おおさか」は現在は「大阪」と書くが、当時は「大坂」なのでテストがある人は要注意。


大村益次郎【おおむらますじろう】(人名)A
村田良庵、村田蔵六と称し、のち大村益次郎。
緒方洪庵の適塾の門下生で、塾頭にまでなった傑物。宇和島藩の伊達宗城に招かれ出仕し、藩の蘭学推進や西洋船建造計画に力を尽くした。のち、幕府に出仕し、蕃書調所教授手伝、講武所教授。1860年には萩藩に迎えられ、66年の幕府による第二次長州征伐で、軍略の冴えを見せつけた。次いで、戊辰戦争でも軍略面で活躍し、明治維新後は、新政府の軍制改革を提案した。しかし、革新的な発言してきたため、守旧派からは恨まれ、69年9月、京都で襲撃を受け、11月に没した。
肖像画を見ると、やたら額が広く、頭がでかい。脳みそギッシリなのね。

おのおのがた、討ち入りでござる【おのおのがた、うちいりでござる】(セリフ)A
テレビの赤穂浪士が吉良邸に討ち入る直前に、リーダーである大石内蔵助が言うセリフ。
正確には、昭和30年代の大河「赤穂浪士」で、故長谷川一夫氏扮する大石が言ったセリフで、独特のしゃべり口から、モノマネにも利用されて人気のセリフとなった。

織田信雄【おだのぶかつ】(人名)B
信長の次男。
本当は三男・信孝よりも20日ほど後に生まれたらしいが、母親の身分の差で、次男になったという。現代社会じゃ考えられない現象ね…。でも、まあ当時は数え年なので、20日の差では年齢差もない。
信長存命中に伊勢の名族・北畠家に養子に出された。信長の死後、安土城に入城し、火を放ったのではないかと言われているが確証がないという永遠の安土城放火容疑者。のち、徳川家康と結んで秀吉と対立し、小牧・長久手の合戦に発展するが、なぜか突然家康に相談もなく秀吉と講和。あとで秀吉に属すが、小田原の陣後の所領替えを拒み、秀吉の怒りを買って追放される。秀吉死後に家康に小禄を与えられて、けっこう長生きした。
なんというか、経歴的には駄目なヤツっぽい。「信長の野望」での能力値も駄目なヤツっぽい。

親父【おやじ】(呼称)D
父親のこと。
‘02大河「利家とまつ」で、前田利家、佐々成政、不破光治のいわゆる越前府中三人衆が、柴田勝家のことをこう呼んで慕っていた。佐久間盛政などもこう呼んでいたが、織田家の筆頭家老に対して、いささか馴れ馴れしすぎると言えなくもない。なお、柴田勝家が、松平健氏だったのに対し、不破光治は五木ひろし氏だった。「親父殿」ねぇ…。



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