禿げネズミ【はげねずみ】(あだな)C
羽柴秀吉のこと。信長が秀吉のことを呼ぶ時に使ったらしい。
「猿」といい、この「禿げネズミ」といい、秀吉がお粗末系の顔であったことは確かなようだ。

橋本左内【はしもとさない】(人名)A
「左内」は通称で、名は「綱紀」という。
緒方洪庵の適塾の門下生。主に医学を学んだという。のち、福井藩主・松平慶永に信頼され、横井小楠を政治顧問として招いて、開国通商、殖産興業、軍備強化などの藩政改革に尽力した。
将軍継嗣問題で、慶永の意を受け、一橋慶喜の擁立に奔走したため、安政の大獄で謹慎処分となり、1859年に江戸で斬首された。
肖像画は涼しげなしょうゆ顔。天才ともいえるほどのキレ者だったという。

八木【はちぼく】(名詞)B
米のこと。米という漢字を単純に二つにわけてみただけ。
公式文書にも「八木」で登場するので、普通に使用しても全く問題ない。ただし、「やぎ」さんという人の苗字である場合があるので、前後の文章にも気をつけること。

八木将軍【はちぼくしょうぐん】(あだな)B
徳川幕府八代将軍吉宗のことを指す。八木とは米のこと。
倹約家で、米の節約のことに努力していたため、ついたあだ名らしい。

原田甲斐【はらだかい】(人名)B
仙台藩奉行。名前は宗輔という。
もともと家中での家格は高く、評定役などもつとめた。のち、奉行として、伊達兵部と手を組んで藩政を牛耳った。1671年、兵部と対立する伊達安芸に、その政治を悪政と訴えられ、(俗に言う伊達騒動)その被告人として、幕府の老中らに大老・酒井忠清邸に召還される。取調べではしどろもどろで敗訴が確定的となったところで、安芸を突然斬殺した。甲斐自身も、駆けつけてきた取調べをしていた大老・酒井忠清の家臣に斬殺されている。さらに、とばっちりを受けて柴田外記、古内志摩らも斬られた。
とある日に、突然酒井忠清邸に血の雨が降ったってことですね。多少大迷惑な話だ。それにしても、甲斐…。悪人説と忠臣説があるそうですが、この文だけ読むと、こりゃ単なる逆ギレですな。「ついカッとなってやった。安芸を狙った。」と生きていれば言ったんでしょうがねぇ。忠臣として描くと文章もガラリと変わりそうだ…。


 

人斬り【ひときり】(名称)B
人を斬る人のこと。
幕末期は、要人を暗殺する人を人斬りと呼ぶ。数多くの志士を斬った、薩摩の田中新兵衛や、土佐の岡田以蔵が特にこう呼ばれた。とある漫画では、人斬り抜刀斎なるものが無敵の強さで、長州最強になっている。

平賀源内【ひらがげんない】(人名)A
江戸化政文化時代の科学者で文人。
本草学が専門だったようだが、絵画から医学まで様々なものに通ずる。エレキテルや西洋婦人画像も有名。しかし、やがて発明にいきづまり、1779年、酒の勢いも手伝ってか、人を殺傷。捕らえられて、翌年、獄死した。こういう天才肌のヤツに限って、結構自殺とか鬱死とか多いですね。

 

風林火山【ふうりんかざん】(成句)B
武田信玄の旗印。原典は中国の兵法書『孫子』で、正しくは「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」という。これを漢文で書いたものを旗印にしていた。
ちなみに信玄は孫子の大ファンで、よくこれを参考に作戦をたてていた。

富嶽三十六景【ふがくさんじゅうろっけい】(絵画)A
元禄期の画家・葛飾北斎が描いた富士山の図。いろんな所から見た富士山が描かれている。
荒波の奥に見える富士のヤツは有名だね。いわゆる「赤富士」も描かれており、富士山ファンには垂涎もの。初版と重版で図が多少違うなど、マニア心をくすぐるやり方に、現代の限定版好きの各業種メーカーも脱帽した…わけはない。

福沢諭吉【ふくざわゆきち】(人名)A
ご存知一万円の顔。
豊前国(大分県)中津藩の藩士の子として大坂で産まれた。緒方洪庵の適塾の門下生。1858年にのちの慶応義塾の基礎となる蘭学塾を江戸の中津藩屋敷内に開く。3度にわたって幕府の遣外使節に随行しており、アメリカ、ヨーロッパ訪問などを果たしている。帰国後は幕府の翻訳方に出仕し、66年に『西洋事情』を刊行。明六社創立に参加し、82年には『時事新報』を創刊。官民調和、国権伸長を唱えた。
著書の『学問のすヽめ』や『文明論之概略』などは有名。有名なので、『文明論之概略』は読んだことがあるが、死ぬほどつまらなかった。一般人にはわからない高度なことを書いているからこそ、一万円にふさわしい(のかな…)。

藤原時平【ふじわらときひら】(人名)A
平安時代の公卿で、基経の子。藤原北家四代目。
醍醐天皇に菅原道真のことを讒言して、左遷に至らせた悪どい男。でも、政治はちゃんとしたらしい。

仏教伝来【ぶっきょうでんらい】(出来事)A
『上宮聖徳法王帝説』では538年、百済の聖明王が仏像や経典を日本に送ったとしており、これを仏教の伝来と考えているが、『日本書紀』では552年が仏教伝来の年になっている。ただし、仏像自体は538年より以前に既に日本にあったものもあるといい、正確な年は定かではない。偉い学者さんの新発見を待とう。

踏絵【ふみえ】(制度)A
江戸幕府が実施したキリシタン判別制度。「キリシタンじゃねぇなら、キリスト様の像を踏んでみろや」ってことですね。実際に使用されたのは、磔刑になっているキリストが掘り込まれている板。これを踏めるかどうかで、キリスト教かどうかを判別する。どことなく陰険だが、当時の国家であった江戸幕府の「キリシタン禁令」があるから仕方ないのかもしれない。

憤怒の焼香【ふんぬのしょうこう】(出来事)C
信長が、父・信秀の葬儀で、焼香を父の位牌に投げつけた事件。
こんなことをする時点で、ただものではない。ちなみに「憤怒の焼香」はコーエーの信長の野望でのイベント名。信長的に「憤怒」だったのかどうかは謎。

 

平治の乱【へいじのらん】(戦争)A
1159年に起こった政治的な背景を含む戦乱。
保元の乱で戦功第一となった平清盛が権力を伸ばそうとする一方で、それを苦々しく思っていた源義朝は、藤原信頼と組んで、ちょうど清盛が熊野詣に出た隙に挙兵した。義朝は、清盛に好意的だった後白河上皇を幽閉し、清盛と手を結んでいた藤原信西を殺害することに成功したものの、熊野詣でから戻ってきた清盛の軍勢に破れ敗走した。
信頼は斬られ、義朝は東国に逃げる途中、尾張(愛知県)で、部下に裏切られて死んだ。以後、清盛の権勢はますます高まっていく。

弁慶【べんけい】(人名)A
武蔵坊弁慶。源義経の家来。
京の五条の橋の上で、平家武者を相手に、刀千本狩りをやっていたところ、通りかかった義経こと牛若丸にインネンをつけ、刀を取ろうとしたが、逆にこけにされ、降参し、家来になった。というのが定説だが、作り話という。勧進帳の話しや、立ち往生の話しなど、弁慶には様々な逸話があるが、どれも神業的な所業であり、作り話だという。が、定説なので、知っておいて損はない。

平家納経【へいけのうきょう】(その他)A
平清盛が、厳島神社に奉納したお経。
平家が奉納したお経だから「平家納経」。そのまんま。何のひねりもないので、覚えやすい。

 

奉公【ほうこう】(名詞)A
御家人が主君に対して、合戦などで手柄をあげて尽くすこと。
御家人としては、当然見返り(御恩)を目当てに奉公するんだろうが、中にはマジで主君に対する忠誠心のみで奉公する一徹な人々も存在する。

方広寺【ほうこうじ】(寺名)A
京都の東山区にある天台宗の寺。天正十四年に豊臣秀吉が建立した。
建立当時、奈良の東大寺と同じように大仏が安置されていたが、厄災で失われる。その後も何度か再建がなされたが、災難が多かったかわいそうな寺。梵鐘の銘文に徳川家康がケチをつけて、大坂の陣が勃発するに至ったことは有名。

北条時頼【ほうじょうときより】(人名)B
鎌倉幕府五代執権。
宝治合戦で、不穏分子・三浦氏を除き、1249年には引付宗を設置。執権北条氏の権力をさらに増大せしめた。
2001年大河「北条時宗」では、渡辺謙氏が演じた。ドラマでは、「時輔を殺せ」の一言が、かなり回想で使われていた。

放屁論【ほうひろん】(書物)C 
稀代の天才・平賀源内が著した、霧降花咲男という屁を興行ネタにしていた男の「屁」について書いた本。
「二寸に足らぬ尻の穴にて自在の曲屁」と評し、その屁色についても祇園囃子やら犬の鳴き声やら花火の音やら…もう何でもかんでも自由自在だった…と書いている。この男の屁は、当時かなり有名になったらしく、恋川春町という江戸時代の人気作家も書物に残しているらしい。
源内の屁の評価のみで、一冊を書くその天才ぶりに脱帽。やっぱり源内は「何でもできる男」だ!

法隆寺【ほうりゅうじ】(建造物)A
奈良県の斑鳩にある聖徳宗の総本山。斑鳩寺ともいう。
建立年は607年で、世界最古の木造建築とされているが、670年に火事にあっており、現在のものは、670年以降の再建ともいわれる。いずれにしても相当古いことには変わりはない。西院と東院にわかれており、五重塔、金堂ほか、夢殿などもある。大規模な寺。
全力で広いので、見学に行くと、けっこうくたびれる。

戊辰戦争【ぼしんせんそう】(戦争)A
1868年1月の、京都鳥羽・伏見の戦いに端を発する、革命戦争。江戸幕府の倒幕を目指す新政府軍(薩摩・長州などの諸藩)と根強く幕府を支持する旧幕府軍(奥羽に多い)が熾烈な戦いを繰り広げた。
著名な戦いでは、上野彰義隊の戦い、会津若松の戦い、五稜郭の戦いなどが挙げられる。全体を通して、天皇を味方につけて「錦の御旗」を掲げ、武器なども最新鋭の銃火器を使用していた新政府軍が有利だった。
ちなみに干支の「戊辰」の年に起こったから、戊辰戦争。安直。

洞ヶ峠【ほらがとうげ】(地名)C
明智光秀の娘婿で、織田信長に帰順していた、大和国主筒井順継が、山崎の合戦の折り、光秀の誘いに応じて、洞ヶ峠まで出張ってきたが、ここで日和見を決めこみ、ついに光秀に味方することはなかった。現在でも、日和見して、どっちつかずな状態を「洞ヶ峠」とよぶ。が、これも後世の創作という。

本能寺の変【ほんのうじのへん】(事件)A
1582年、織田信長が、家臣の明智光秀に背かれて攻められ、京都の本能寺で自害した事件。
なぜ信長が本能寺にいたかについては、四国討伐に行こうとしたとかなんとか、いろいろ説がある。光秀がなぜ謀叛を起こしたかについても、信長を恐れてとかなんとか、いろいろ説がある。信長の遺体が見つからなかったことについては、実は切腹してなくて、生きていたとかなんとか、いろいろ説がある。
いろいろ説があるのが本能寺の変。っていう感じ。
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