■川中島の合戦
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川中島の合戦 (1553年、1555年、1557年、1561年、1564年)
■データ
勝敗 △武田晴信(信玄)(甲斐) 対 長尾景虎(上杉謙信)(越後)△
概要 甲斐の虎・越後の龍と言われた宿命のライバル武田信玄と上杉謙信の戦い。信玄に信濃を追われた村上義清が謙信を頼り、謙信がそれに応じて信濃を攻めたために勃発した。
起こった時代・年月日 1回戦:天文22年(1553)8月、2回戦:弘治元年(1555)7月、3回戦:弘治3年(1557)8月、
4回戦:永禄4年(1561)9月、5回戦:永禄7年(1564)8月
起こった場所・地名 北信濃・川中島(八幡原・茶臼山・妻女山・海津城)
関連人物 武田信玄方:武田信繁、山本勘助、高坂昌信ほか
上杉謙信方:
注目度 60%
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※注目度は、その事件・人物が有名であればあるほど高くなります。(0〜100まで。独断により決定。)
※関連記事は、このページの下部にある記事にリンクしています。
■合戦の推移(4回戦)
川中島の合戦で有名なのは、ズバリ信玄と謙信の一騎打ちの場面でしょう。これは、史実とするには根拠薄だそうですが、多くの人が川中島といえば、この一騎打ちの場面を想像されると思います。この一騎打ちは、5回戦われた川中島の合戦のうちの、第4回戦で起こったとされていますので、合戦の推移は、4回戦を見てみましょう。

●4たび川中島!!
上杉謙信(当時輝虎と名乗る)は弘治3年(1557)に、関東管領だった上杉憲政を庇護し、関東管領の職を譲るという話しを持ちかけられたので、永禄2年(1559)に上洛し、将軍足利義輝に関東管領就任の許しを得ました。この時同時に、北信濃への攻撃を将軍に許可されています。(信玄は信玄で信濃守護に任ぜられてますが…)
同年、鎌倉・鶴岡八幡宮で、関東管領に就任し、上杉姓を名乗るようになりましたが、この時、謙信は小田原の北条氏を攻めあぐねて、関東から撤退しました。

ここで将軍にも許しを得たということで、一旦信濃の武田勢を駆逐しようと四たび、川中島に出陣するのです。謙信の動きにいち早く反応した信玄方の海津城主・高坂弾正昌信は、信玄にこれを急報し、信玄は本拠地の甲府から出陣し、一旦茶臼山に布陣します。一方、謙信は海津城を攻撃せんとして妻女山に陣取りましたが、信玄が茶臼山にきたので、攻めませんでした。そのため、やがて、信玄は一旦海津城に入城します。

●キツツキ戦法
海津城に入った信玄は、ここで軍議を開きます。諸将は、上杉軍が動きを見せないため、苛立っていました。そこで、山本勘助が「キツツキ戦法」を提案します。これは、軍を二つにわけ、一隊を妻女山の背後に廻らせて上杉軍を攻撃させ、もう一隊は八幡原で待ち受けて、背後からの攻撃を受けて、八幡原に押し出されてきた上杉軍を真っ向から攻撃するというものでした。
信玄は、この作戦を取り入れ、馬場信春・高坂昌信らに1万2千の兵を与えて、妻女山の裏に廻らせ、自身は8千の兵を率いて、八幡原に陣取ることにしました。

ところが、この作戦を戦上手の謙信は見逃しません。謙信は妻女山に居ながら、常に海津城の武田軍の動きを見ていました。武田軍の出陣の前日夕方、海津城に、2度炊煙(米を炊く煙)が立ちのぼりました。これを見た謙信は、「2度の炊き出しは、出陣の用意に相違ない」と言って、自軍も陣を移すことを決めます。ちなみに謙信が武田軍の作戦に築いたのは、単純に「忍びの報告によるもの」という説もあります。

●突如あらわれた敵軍
謙信は、妻女山の陣には篝火を炊いたままにし、いかにもそこにまだいるように見せかけて、夜のうちに、妻女山を音も立てずに降り、音も立てずに千曲川を渡り、八幡原に陣を移していきます。
一方の武田軍も八幡原に信玄の本隊を移し、別動隊は、妻女山の裏に廻りました。

この時期、川中島は犀川と千曲川の二本の川に挟まれていることもあって、濃霧に覆われていました。朝方は、ことのほか霧が濃く、少し先も見えない状態でした。しかし、何やら馬蹄の音が聞こえるような…というなか、霧は少しづつ晴れていきます。そして、うっすら先が見えるようになった時、武田軍は、陣の目の前に上杉軍がいるのを目撃するのです。
信玄は、「上杉軍、目前に急襲」の報を聞くと、敵の布陣を確かめさせ、それが車懸かりの陣であることを知ります。これは、前に布陣している軍団から順番に敵陣に突っ込み、回転しながら、波状攻撃を仕掛けるというもので、攻撃の陣としては、かなりの攻撃力のある陣でした。信玄は、兵士の士気を低下させないために、「車懸かりは、蓑手の備えで防げる」と言いました。しかし、それは実際にはなく、ただ兵士の士気を低下させないための発言でした。

信玄軍は、12段に構えた鶴翼の陣でしたが、このうち、9段まで打ち破られたというので、圧倒的に謙信が優勢だったことになりますね。しかし、ここで信玄にも反撃のチャンスがやってきます。妻女山に向かっていた別働隊が、妻女山がもぬけの殻だったことに気づいて、八幡原に戻ってきたのです。

●信玄VS謙信の一騎打ち
謙信は別働隊の帰還を知ると、「目指すは信玄が首級ただ一つ」と、自ら馬を駆り、信玄の本陣に向かっていきます。そして、雑兵を蹴散らし、床几に座る信玄に馬上から刀を振り下ろしました。これを信玄は、手に持った軍配で防ぎます。これが有名な一騎打ちのシーンですね。
しかし、敵陣の、それも中心のことなので、謙信はすぐに撤退し、その後は、別働隊を加えた武田軍が優勢で合戦を進めました。

最終的には、被害は武田軍の方が、大きかったようですが、どちらも譲らずの引き分けだったというわけです。

この一騎打ちについては、後世の創作だと言われますが、かなり有名な話ですよね。

■武田信玄と上杉謙信
この二人がなぜ川中島で激突することになったかといえば、村上義清が、信玄の北信濃進攻に対して、惜しくも敗れ、謙信を頼っていったためです。義清は謙信に「わしの土地に武田軍が侵略してきて追われてしまった。」と説明します。これを聞いた謙信は、義理に厚い武将ですから、「北信濃の治安を安んじせしめんためにも、武田軍の進攻作戦は許せぬ」と言って出陣します。

上杉軍と武田軍は、川中島で激突し、互いに一歩も譲らず、戦は引き分けに。しかし、それ以後も、謙信は度々北信濃に出陣し、そのたびに信玄と激突していたというわけです。そして、その中でももっとも激しかったのが、4回目の戦いです。この戦いでは、謙信が単騎で武田軍の本陣まで斬り込んできて、床几に座る信玄めがけて馬上から斬りつけましたが、信玄はそれを手に持っていた軍配で受け止めるという戦国ドラマの名場面もあります。

●人物紹介
武田信玄 たけだしんげん 1521〜1573
武田信玄は、名前は「晴信」と言います。名は一部の古文書などによると、厳密には「はれのぶ」と読むそうです。
暴君といわれる父・信虎を駿河に追放して、家督を継ぐというなかなか強引な人物です。家督を継ぐと早速信濃進攻作戦を
開始。ですが、一方では関東の北条、駿河の今川との不戦同盟を締結(甲相駿三国同盟)するなど、戦略手腕に長けていま
した。また、「信玄堤」に代表される治水政策など政略手腕も持ち合わせています。
関連記事 ・「信玄の秘湯」は、ちゃんと信玄も利用していた
影武者武田信玄

上杉謙信 うえすぎけんしん 1530〜1578
上杉謙信は、幼い頃は寺に入れられていましたが、兄・晴景が若くして死亡したため、家臣の希望もあって家督を継ぎまし
た。関東管領上杉憲政や信濃の村上義清が頼ってくると、断らずにはいられないという、義に厚い武将とされています。それ
は、宿敵・信玄に対しても同様らしく、信玄の領国が、塩不足に陥ると塩を送ってやり、信玄が死んだと聞くとと、「惜しい男を
亡くした」と言って、雅楽を禁じて喪に服したというエピソードがあります。実際、信玄の死後、武田・上杉は戦っていません。
もっとも、謙信は信長に「なんで、信玄のいなくなった武田家を攻めないのか?攻めてくれれば、我らも攻め込む」などという
内容の書状で、信長に武田攻めを促していたそうですが。
関連記事 ・上杉謙信の悩みとは?

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■信玄の秘湯に行く!


◆ 「信玄の秘湯」は、ちゃんと信玄も利用していた

信玄は若い頃から労咳的な持病に悩まされていました。労咳というのは、肺結核です。当時はこ
れを治す方法は知られていませんでしたから、信玄も多いに悩まされたようです。医者に診てもら
うこともしばしばでしたが、信玄が何より頼みとしたのが、温泉です。

■温泉マニア・信玄
温泉というのは、非常に体によく、効能もその成分によって異なります。
信玄は甲斐(山梨県)や信濃(長野県)の多くの温泉を渡り歩いた、いわゆる温泉マニアなので
す。戦での負傷や、骨折、火傷などの外傷には、抜群の効果を示し、重傷でも数ヶ月滞在し、湯
治に専念すれば、傷は癒えたと言います。

信玄のような内科系の病気にも、治すまでとはいかなくとも効果を示したようで、持病持ちなが
ら、信玄は五十三歳まで生きています。
信玄が入ったという温泉は、現在でも「信玄の秘湯」として、訪れた人を癒しているそうです。
玄は、公然と温泉に入っているので、別に隠すつもりはなかったみたいですけどね。

ちなみに自分も温泉好きでして。
でも、なかなか旅行する機会がありませんで、温泉の素ばっかりです。


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温泉マニア・武田信玄も利用したという「秘湯」は、湯村温泉(山梨) ( ゆむらおんせん )、下部温泉 ( しもべおんせん )、増富ラジウム温泉 ( ますとみらじうむおんせん )、蓼科山奥秘湯(たてしなやまおくひとう)など信州・甲府にはたくさんあります。効能もバツグン(!?)一度入ってみる価値はあります。旅行サイトで計画を立ててみてはいかがでしょう。
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◆ 影武者武田信玄

武田信玄には影武者がいたといわれています。
新田次郎の小説「武田信玄」でも、影武者が登場します。では、影武者は誰がつとめていたので
しょうか?

■内面までは似ていなくてもいい?
戦国大名は、常に死と隣り合わせのため、多くの大名が影武者を使っていたといいます
有力な大名はなおさらです。
武田信玄の場合は、その弟が、影武者を務めていたといわれています。
その弟というのは、逍遥軒信廉という人で、これはすごく信玄にそっくりだったらしいのです。

信玄は他にも何人かの影武者を用い、戦時、作戦に利用したりしたようです
が、信廉は本当にうりふたつで、戦時以外にも信玄の影武者をつとめていたようです。
それならば、この信廉も信玄と同じように勇猛果敢な将だったのかと言えば、
そういうわけでもなく、趣味で絵画をよくし、詩も詠んだ風流人だったということです。


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◆ 上杉謙信の悩みとは?

古今無双の勇将として名高い上杉謙信。しかし、そんな彼にも悩みがありました。それは家臣が
言うこと聞かないことです

■家出する君主、あせる家臣
それは謙信が長尾景虎と名乗っていたころの話です。
あまりにも好き勝手なことばかりする家臣どもに愛想が尽きた景虎は、「家臣どもは言うこと聞
かないし、もう我慢ならぬ。」というような内容の手紙を知り合いの僧侶に残して、居城の春日
山城から家出してしまいました。

焦ったのは家臣たちです。
僧侶から事情を聞いた家臣の長尾政景は、景虎を探しにゆき、これを説得しました。景虎は、長
きにわたる説得により、ようやく帰参を承諾しましたが、「今後は、わしの命令に従うように」と
条件をつけました

これ以降、長尾軍の結束はいくらか堅くなったといいます。武田信玄と一騎打ちをしたなどという
伝説すら残る超人的な男にも意外なところに悩みがあったんですね。


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