■大政奉還
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大政奉還 (1867年)
■大政奉還の意義
「大政奉還」とは、朝廷に政権を返上することです。
江戸時代に限らずですが、武家政権が「幕府」を開いている間などは、政権は朝廷から幕府に委ねられていることになります。奈良時代、平安時代などは、朝廷、つまり天皇のもとで律令官制がしかれていました。また、天皇自らが先頭にたって政治をみるという「天皇親政」の時代もありました。

しかし、平安時代末期の源平の戦いにも代表されるように、それまで、絶大な権力を持っていた貴族の力が衰え、それまで貴族の護衛などをして生活していた武士が次第に力を有するようになります。そして、武士で初の太政大臣となって、権力を一手に握ったのが平清盛です。平清盛は、一族の者たちを高い位につけて、「平家にあらずんば人にあらず」というような事まで言う一族が出てくるほどに驕り昂ぶっていました。これを討伐したのが、源頼朝です。

頼朝は、平家討伐ののち、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、日本の政治をみる新しい機関として、鎌倉に幕府を開くのです。鎌倉幕府については、いろいろ問題もあるのですが、とりあえず、これ以降、長い武家政権の世の中が続くのです(南北朝時代に後醍醐天皇による2年間の親政期間あり)。鎌倉、室町、江戸と時代の変わり目には、戦乱などによる混乱がありましたが、最終的には武家が政権を握るという図式は変わらず続いてきたのです。

鎌倉幕府の開府は1192年、この江戸幕府の大政奉還は1867年ですから…大政奉還により、実に675年にわたる武家政権に終止符が打たれたことになりますね。

■政権を朝廷に返す
●大政奉還は龍馬の起案
大政奉還は、様々な思想うずまく幕末の歴史の中で、「世界に目を向けた時、日本はこのままではいけない」という考え方から、坂本龍馬がまずやらなくてはならないこととして挙げた方針です。

龍馬は、「船中八策」という新時代の政治体制の基本草案を起草していました。これは「公儀政体論」といいます。これには、国の制度を取り入れた「議会政治」などが盛り込まれています。そして、それはつまり、幕府があっては実現できないことでした。そこで、まず今の幕府を円滑になくすには、「大政奉還」をしてもらうということになるわけです。

船中八策の「公儀政体論」に深く感銘を受けた、龍馬と同じ土佐藩出身の後藤象二郎は、土佐藩主山内豊信(容堂)を口説き落とし、ついに15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白するということになっていきます。

●幕府を終わらした慶喜はダメ将軍?
実は、慶喜にも大政奉還を受け入れるにあたって、考えがありました。ただ「もうダメだぁ」ということで大政奉還をしたわけではなかったわけですね。
考えというのは、まず第一に大政奉還することによって、倒幕、倒幕と騒ぎ立てる尊皇・倒幕派の勢いをなくすこと、第二に家政権が鎌倉時代からず〜っと続いてきたのに、朝廷には政治をみる能力はないだろうということです。これはつまり、幕府に政権はないのだよ、ということを示して倒幕派の名分を失くし、また、政権担当能力のない朝廷から、改めて政権を任せてもらうということで、尊皇派を抑えようとしたものです。
要するに、慶喜の頭のなかでは、「どうせ朝廷に政権を返しても、政務能力なんてないんだから、すぐ「またお願いします」って泣きついてくるだろう。一時的に政権を返上すると言っておけば、討幕派の過激なヤツラを抑えられる…ひひ…こりゃ一石二鳥…」ってな計算だったんじゃないでしょうか(笑)。したがって、慶喜はダメどころか策士ですね。まあ思惑外れちゃうんで…ダメと言えばダメ…かなあ…。

●大政奉還の後
ところが、大政奉還と同日に岩倉具視が「倒幕の密勅」というのを薩摩藩と長州藩に下します。簡単にいえば、幕府は朝廷にたてつく賊臣とされてしまったのです。
これにより、長州・薩摩は大義名分を手に入れた形になり、俄然勢いづきます。しかも朝廷は、大政奉還の2ヵ月後に「王政復古の大号令」を出し、世間にも時代はもう幕府政治の時代でないことが伝わりました。そして、翌1868年1月から、いよいよ薩長を中心とした幕府追討が始まるのです。薩長は官軍、幕府は賊軍ですから、薩長有利なんですが、幕府の抵抗も続きます。こうして、体制への総仕上げ・戊辰戦争が始まるのです。

■大政奉還までの簡易年表

年代 出来事 関連記事(下の記事にリンクしています)
1853 ペリー来航
1854 日米和親条約調印
1858 日米修好通商条約調印
1860 大老・井伊直弼、江戸城桜田門外にて、水戸藩と薩摩藩の
過激派浪士に暗殺される(桜田門外の変)
1861 皇女・和宮降嫁(公武合体論に沿うため、将軍家茂と結婚す
る)
1862 老中・安藤信正襲われる(坂下門外の変。同時に老中職も罷
免される)
薩摩藩、大名行列を遮ったという理由でイギリス人を殺傷(生
麦事件)
1863 薩英戦争
朝廷の尊攘派公家が追放される(八月十八日の政変。公卿は7人だったため、「七卿落ち」という)
1864 新撰組が長州を中心とした過激浪士の密議に踏み込み、集
まっていた志士の多くを殺傷。新撰組の被害は死亡3名(池
田屋事件)
禁門の変
第一次長州征伐
1866 薩長同盟が成立する
第二次長州征伐
将軍家茂病死。慶喜が15代将軍に就任する
孝明天皇崩御
1867 大政奉還
王政復古の大号令
1868 戊辰戦争勃発
年代不詳の逸話

■坂本龍馬の船中八策<関連史料>
大政奉還は、龍馬の船中八策による「公儀政体論」に基づき、建白されたものでした。なぜ「船中八策」と呼ぶのかというと、土佐藩船の「夕顔」上で、龍馬が後藤象二郎に8条の新時代の政体論を見せたから、そう呼ばれています。

●船中八策を読んでみましょう
現代仮名遣いに直したのでちょっと読んでみてください。龍馬は、庶民が幕府政治しか知らなかった時代にこんなことを考えていました。
「船中八策」
第一、天下の政権を、朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべきこと。
第二、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参讃せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
第三、有材の公卿・諸侯及天下ノ人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名故実の官を除くべき事。
第四、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
第五、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
第六、海軍宜しく拡張すべき事。
第七、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
第八、金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべき事。

■重要人物

徳川慶喜 とくがわよしのぶ 1837〜1913
慶喜は御三家・水戸藩の斉昭の七男で、幼名を七郎麿と言いました。1847年に御三卿の一橋家を継ぎ、14代将軍の選出の際に
も槍玉にあげられましたが、井伊直弼の圧力などもあってこの時は将軍になれませんでした。しかし、直弼の死後、将軍後見食に
就任。幕府権力の回復に奔走します。
そんな折、14代将軍・家茂が21歳の若さで急死。急遽慶喜が15代将軍に就任します。しかし、時勢はすでに倒幕に傾いており、
翌年には大政奉還の建白を入れて政権を朝廷に返上しました。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いの後、奮闘する部下を残して、
大坂からいち早く退去。船で江戸に帰ってしまいます。この行動には、「将軍がついている」とがんばっていた幕府軍の兵士も意気
消沈してしまいました。その後は新政府軍に降伏、恭順の姿勢をとり、静岡で30年間に渡り閑居。趣味の写真や乗馬をして割りと
穏やかに暮らしていたようです。1902年に公爵になりました。
関連記事 ・「神君の再来」すまし顔の慶喜さん





◆ 「神君の再来」すまし顔の慶喜さん

神君家康公の再来」という大仰なキャッチフレーズでもって、大きな期待を背負って将軍職に
ついた徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜。彼は、当時は、「慶喜公なら傾いた徳川幕府を立
てなおせる」と一部のファンから熱烈な支持を受けていた将軍でした。しかし、慶喜はその声援と
は裏腹に大政奉還をしてしまいました。

■作戦外れて逃げ帰る!?
大政奉還は、「政権を朝廷に返しても、長い武家政権が続いたので、朝廷に政治をみる力
はないだろう」と判断し、朝廷から改めて政権を任されることで、勤王派を抑えようとした
喜独自の作戦だったともいいますが、慶喜に期待していた人たちがガックリきたのは事実だと思
います。

さらに、慶喜は戊辰戦争の緒戦・鳥羽・伏見の戦いで旗色が悪くなると、大坂から船で江戸
に帰ってしまいました。しかも懸命に戦っている部下たちを置いてです。これには慶喜および幕
府にしたがってきた人たちも激怒&失望です。「神君家康公の再来」だったはずの慶喜は、「
病者」のレッテルを貼られることになりました。

■一変する人物評価
しかし、慶喜は天皇を擁する官軍には従順でした。
江戸無血開城後は、官軍の指示に従って、謹慎生活に入ります。謹慎が解けたあとは、趣味
の馬術、弓術、狩猟、油絵、写真などで悠悠自適な生活を送りました
そして、のちに明治天皇にも拝謁しています。維新後のこの慶喜の従順な態度を、官軍が作り
上げた新政府も非常に高く評価し、「慶喜が従順だったからこそ、明治維新の混乱があの程
度で済んだのだ」と慶喜を褒め称えました。

つまり、維新前と維新後で、慶喜の評価はがらりと変わるんですねぇ。
評価する人の立場が違いますけどね。趣味も多彩だし、才能はいろいろあったんでしょうね。

しかし、あそこで逃げちゃいけねぇ。「あンた…背中が煤けてるぜ…。あンたの背中には一人の命
もしょえない…。やめなよ…将軍は…。」(哭きの竜風味)ってことですよ。
え?わからない?ならば「哭きの竜」でググるべし!べし!

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