■織田信長
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織田信長 おだのぶなが 1534〜1582
大うつけと呼ばれた覇王
尾張(愛知県)の戦国大名。父は信秀。
幼い頃、奇行を繰り返し、うつけと呼ばれましたが、1560年の桶狭間の戦いで、今川義元を破り、頭角をあらわします。尾張統一後、美濃を苦労の末に制圧し、1568年、足利義昭を奉じて上洛。1570年には姉川の合で、近江を支配する妹婿・浅井長政と越前の大名・朝倉義景の連合軍を破り、数年かかって、この両家を滅亡させました。さらに1575年、長篠の合戦で、鉄砲の集中運用で武田騎馬軍団を蹴散らします。
これらの戦いでは、三河の徳川家康との強固な同盟関係がおおいに活かされました。
近江の琵琶湖畔に荘厳盛大な巨城・安土城を築き、その勢いはとどまるところを知らないといった感じでしたが、1582年に明智光秀に叛かれて、本能寺にて自害しました。

■織田信長簡易年表
年代 出来事 関連記事(下の記事にリンクしています)
1534 信長誕生
1546 13歳で元服
1551 父・信秀死亡。家督を継ぐ
1553 美濃・尾張国境付近の正徳寺で、舅の斎藤道三と会見 正徳寺の会見で信長の才を見た道三
1557 長男・信忠誕生 ・長男信忠の幼名は”奇妙丸”!
1560 桶狭間の合戦で今川義元を破る ・合戦前に神頼みをする
・桶狭間の合戦の一番手柄
・肥満が祟った今川義元
1568 足利義昭を奉じて上洛を果たす
1570 朝倉領・越前金ヶ崎を攻略中、浅井長政裏切りの報を得て、間一髪撤退に成功。(金ヶ崎の退き口) ・火急をあずきで伝える!信長の妹・市
1570 姉川の合戦
1573 浅井・朝倉連合を滅亡させる ・ドクロを酒の肴に
1575 長篠の合戦で武田騎馬軍団を破る
この 北陸攻略に柴田勝家、中国地方攻略に羽柴秀吉を当てるなど、戦力を分散させて多方面作戦を展開 ・軍団を活かせ!織田家の進撃法
1576 第一次木津川口海戦で、毛利水軍に敗れる
1578 第二次木津川口海戦で、毛利水軍を破る ・これで無敵!信長、鉄鋼船を造る!
1581 キリスト教宣教師・ヴァリニャーニの京都での布教を許可する ・黒人の肌の色の違いに疑問をもった信長
1582 本能寺の変発生。本能寺で自害
年代不詳の逸話 ・信長の味覚はどんなもの?
・信長の優しい手紙

■織田信長主要合戦一覧
信長の合戦は、14歳の初陣から49歳の本能寺の変まで、細かくみていくと70以上に及びます(小競り合いや前哨戦含む)。その全てを紹介するのは困難なので、ここでは主要な合戦の名前と簡単な解説を載せておきます。
合戦名 年代 簡単解説
吉良大浜攻撃 天文16年(1547) 信長の初陣。あまり知られていないが、記念すべき初陣なので載せてみた。対今川氏の戦
いで、後見役として、平手政秀がついていたという。
稲生原の合戦 弘治2年(1556)
8月24日
父・信秀の死後、うつけと呼ばれていた信長が家督を継ぐことに危機感を覚えた柴田勝家、
林秀貞らの一部の重臣は、信長の弟・勘十郎信勝を支持。やがて、信長に対して兵を挙
げるに至った。この合戦は、その謀叛軍を討伐した戦い。信長軍は初め、兵力で劣り、一時
退却する場面などがあったが、態勢を立て直して信勝方の軍勢を打ち破った。
桶狭間の合戦 永禄3年(1560)
5月19日
言わずと知れた、対今川義元の著名な戦い。従来、寡兵の信長軍が義元の陣を奇襲し
た合戦とされていたが、最近は異説が支持されている
従来の説では、信長は、籠城を唱える家臣たちの言葉を入れず、義元の居所をつきとめる
と、直ちに出陣。熱田神宮で戦勝祈願し、追いついてきた家臣たちと共に、田楽狭間で隊列
を長くして休息中の今川軍を側面急襲し、義元の首を討ち取った。兵力差は2万以上であっ
たというが、異説では、奇襲攻撃ではなかったとされている。
稲葉山城攻略
永禄10年(1567)
9月
稲葉山城は斎藤家の居城。
信長は1560年の桶狭間の合戦の直後から、美濃攻略を視野に入れて度々攻撃軍を繰り
出したが、そのたびに失敗してしまっていた。しかし、美濃では1561年に斎藤義龍が死亡
し、その跡を継いだ龍興は、部下からの信頼に薄かった。永禄10年8月、西美濃三人衆と言
われた斎藤家の重臣を内通させると、信長はただちに稲葉山城を包囲した。龍興は降伏
し、伊勢長島に落ちた。
上洛戦 永禄11年(1568)
9月
信長はこの年、将軍家の足利義昭を奉じて、上洛戦を展開する。信長の勢力範囲はまだ
美濃(岐阜県)までであったが、近江(滋賀県)の大名や豪族に話し合いを持ちかけ、はじめ
は平和裡に上洛を進めようと思っていたらしい。
ところが、近江観音寺城の六角承禎は、これに反発。信長は家康の援軍を入れた6万余
の大軍で六角氏の攻撃に取り掛かる。六角承禎は麾下の箕作城と居城の観音寺城を囲ま
れ、箕作城が怒涛の勢いで攻められると、ほとんど戦わずに伊賀に逃亡。
信長はあっさりと上洛を果たし、足利義昭を岐阜から招いて、京の治安回復につとめた。
姉川の合戦 元亀元年(1570)
6月28日
近江の浅井長政を妹婿として同盟関係を結び、この年の4月、順調に越前(福井県)の朝
倉義景を攻めていた信長であったが、思わぬ事態に遭遇。なんと浅井長政が裏切ったとい
うのである。信長はただちに撤退するが、この撤退戦で狙撃され、命からがら京に逃げ戻
った。(金ヶ崎の退き口
激怒した信長は、すぐさま岐阜城に戻り、浅井・朝倉連合軍の討伐を宣言。徳川家康の援軍
もあわせて3万人近い軍勢で近江に出陣した。これに対し、浅井・朝倉軍も2万近くの軍勢で
これを迎え撃つべく、出陣。江北の姉川を挟んで対峙し、激戦が繰り広げられた。
合戦では、徳川軍による朝倉軍の切り崩しを契機に、浅井軍も崩れ、織田・徳川連合軍の勝
利。
伊勢長島一向一揆征伐 天正二年(1574)
7月〜9月
伊勢長島の一向一揆には、多年悩まされていた信長だが、さらに勢いづく一向宗徒に対し、
ついに本格的に武力行使を敢行する。海に近い長島にある諸砦を陸路からも海路からも
包囲し、補給をさせないようにして攻撃した。一揆勢は、諸砦に立て籠もって3ヶ月の間、
頑強に抵抗したが、補給がない中で餓死者が相次ぎ、さらに大鉄砲による砲撃も受け、つい
に降伏した。しかし、残りの砦は焼き討ちされ、2万人の人々が焼き殺された
石山合戦終結 天正8年(1580)
8月
石山合戦は、要するに、信長に徹底的に抗った一向宗・石山本願寺との抗争を指すもで、一向宗と信長の争いが激化した、最初の伊勢長島一向一揆攻撃(1567年)の時から考えると、実に10年以上の長きにわたって繰り広げられてきた戦いであった。
本願寺は、この間、信長に追放された足利義昭の信長包囲網に加担し、武田信玄や上杉謙信と共に、信長を苦しめている。1576年の石山本願寺包囲戦では、織田勢は不利に立たされ、信長自ら足軽らと共に、門徒勢と交戦し、鉄砲傷を受けながらも首2700を挙げたという。
1580年は、信長と石山本願寺との和睦が成立した年。石山本願寺はこれまで、法主の顕如の指揮のもと、各地の大名たちと連携して信長を苦しめてきたが、信長はそれらの大名も確固撃破するなどして、本願寺側としても成す術がなくなっていた。信長はこの様子を見て、朝廷を通じての和議申し入れを試みた。これまでも、何度か信長と本願寺の和議は成っていたが、それは一時的なもので、顕如は度々離反した。しかし、今回の和議は、顕如の石山退去を条件とし、顕如もこれをのんだ。しかし、顕如の子・教如は、和議に反対し、顕如退去後も石山本願寺に籠城。信長は、誓書を送っての懐柔策をとり、やがて教如も退去。ここに長きに渡った信長の本願寺平定戦は終わりを告げたのである。
※以下も作成中です…。

■信長はどういう風貌だったか?
織田信長の風貌については、ルイス=フロイスの著した『日本史』に記述があります。それによると、「中くらいの背丈で華奢な体躯であり、髯は少なく、はなはだ声は快調で云々」とあります。フロイスは、信長と実際に会見したこともある人物で、かなり信憑性は高いと見られています。

より具体的にも、当時実物大として作られた木像や、残された甲冑などから、信長の身長も推測されているそうです。それによると、身長は165センチくらいで体重は60キロほど。165センチで60キロというと、普通くらいのような気がしますが、フロイスは「華奢な体」と記しているので、見た目は痩せているように見えたのだろうと思います。でも、ただ痩せているのなら、165センチで60キロもありませんので、信長は武将として、鍛錬の行き届いた筋肉質な体型だったであろうとされているようです。

また、声についてもフロイスは「はなはだ快調」と示していますが、これは「よく通って聞きやすい声」ということでしょう。つまり声が高く、はきはきとしたしゃべり方だったものと思われます。高い声で、「はげねずみ!」だの「きんか頭!」だのと呼ばれて叱られていたんですかねぇ。怖い怖い。


■織田の奇妙な名付け


◆ 長男信忠の幼名は”奇妙丸”!

信長本人は奇妙な行動などから若い頃、うつけと呼ばれていました。

■信長のどんな奇行がうつけ?
まず、ちょんまげが茶筅結いです。お茶で使う茶筅です。かきまわすヤツ。あれみたいなちょん
まげってことです。垂らした髪を結わえたい方向に引っ張って、ふんじばっただけの全くもっ
てアホな結い方です。

次に、服装です。奇抜なだけならまだしも、腰に瓢箪をぶら下げて、そこらでとった瓜をかじっ
て城下を練り歩きます。とてもじゃないけど、戦国大名の子供がするようなことではありません。
さらに親父の葬式では遅れてきたのに、服装はいつも通りのうつけぶり。ずかずかと遠慮もなし
に入ってきたかと思えば、焼香をむんずと掴んで父の位牌に投げつける始末。

ほとばしるほどのアホです。

信長の紀行はアホと思わせるためにわざとやっていたそうですが、信長お育て役の平手政秀も、
もうお手上げで、この後自害してしまいました。「じい、じい」と呼んで、密かに頼りにしていた平手
の死にショックを受けたのか、その後信長はまともになっていきました…?

■信長の奇行〜息子命名録〜
…と、思いきや!子の命名にさらにいかんなく才能を発揮!
長男が産まれました。名前をつけよう。
「奇妙丸じゃ。」
…奇妙丸って…奇妙なのはおめえさんの方だよ…。とは誰も言えませんよ。信長様は怖い
ですから。
まあ、なんか凡人にはわからない複雑な考慮があってのことだろう。お、そんなことを言っていた
ら、二男が産まれましたよ。名前をつけよう。
「茶筅丸じゃ。」
…茶筅だったのもおめえさんじゃねぇか…。とは誰も言えませんよ。信長様は怖いですから。

その後も生まれる息子たちに次から次へと謎的な命名連発。流石としか言いようがないです。9
男の「人」とかすごい。いや、言われるまでもないですから。名前でそんな主張しなくても…って感
じですね。

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↑總見寺にある次男・織田信雄画像

●信長の奇妙な名付け一覧
長男 奇妙(きみょう) 信忠
次男 茶筅(ちゃせん) 信雄
3男 三七(さんしち) 信孝
4男 次(つぎ) 秀勝
5男 坊(ぼう) 勝長
6男 大洞(おおぼら) 信秀
7男 小洞(こぼら) 信高
8男 酌(しゃく) 信吉
9男 人(ひと) 信貞
10男 長好(ちょうこう) 信好
11男 縁(えん) 長次
↑奇妙な名付け一覧表(読みは諸説あり)。生まれた時の感情や閃きでつけたらしい。

●豆知識
次男・信雄と三男・信孝は、実は信孝の方が20日ほど早く生まれたらしいですが、母親の身分の関係などで、信雄が次男とされたそうです。これが、後で信雄と信孝の対立を生んだ、と考える研究家もいます。

■桶狭間は奇襲戦か


◆ 合戦前に神頼みをする

信長は、桶狭間の合戦の直前にしっかり熱田神宮に「神だのみ」しています。

■神にもすがりたくなる戦況?
桶狭間の合戦は、当初、今川と織田の絶望的な兵力差(2万5千対3千くらいらしい)から織田方
では、篭城して、通りすぎるのを待とうという意見すら出ていたほど、信長に勝ち目はありま
せんでした。
しかし、信長は、今川軍の動きを細かく調べて、敵が田楽狭間で休息していると知ると、城を飛び
出します。そして、戦勝祈願のために熱田神宮に立ち寄るのです。
熱田神宮で、必勝祈願。白鷺を飛ばすなどの演出で、兵士の士気を高揚させたといいます。


■士気が高揚し、奇襲に成功
信長はついてきた部下たちに、「天も味方してくださるぞ!」と叫び、田楽狭間に直行。折り良く、
雨もふりだして、奇襲には絶好の条件が整います。
結果、奇襲は見事に成功。今川義元は、足軽・毛利新介秀高が討ち取り、堂々と凱旋しま
す。

結局は、慎重な情報収集と、信長の運が合わさって得た勝利なんでしょうが、神だのみのおかげ
ってのも、いくらか手伝ってるかもしれませんね。

しばしば「無神論者」などと呼ばれる信長ですが、このように神頼みをするなどもしており、決して
無神論者というわけではありませんでした。ただ、宗教による政治への介入については、
厳しく取り締まり、その結果として、一向宗本願寺との徹底的な対立や、比叡山延暦寺の焼
き討ちなどの行動に出たようです。
宗教は宗教としての役割を果たせばいいんじゃ」というわけですね。
このように書けば、それもまた信長らしいな、という気がしてきませんか?


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桶狭間合戦では、従来、「信長による田楽狭間休息中の今川義元への奇襲攻撃」が定説でしたが、最近異説が有力視されています。
奇襲説に変わる新たな真実と着目されているのが、軍事史研究家の藤本正行氏の発表した「正面攻撃説」です。
正面攻撃説では、信長は付近の中島砦から、真っ直ぐに桶狭間山に陣取る今川義元を攻撃したとされます。
藤本氏の説は、信長の家臣が書いた同時代史料『信長公記』に基づき、著者の現地調査によって提唱されました。現在、若干の異論はあるものの、支持率はかなり高いそうです。一度、氏の説を読んでみては?
信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学 信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学
↑こちらが藤本説が読める文庫本。桶狭間以外の合戦も充実してます。


■活躍していた徳川家康


◆ 桶狭間の合戦の一番手柄

今川義元は、桶狭間の合戦で討ち取られました。
これまで信長は今川軍を廻りこむように迂回して、奇襲をした、という説が有力でしたが、「実は信長は特に迂回をしたわけではなかった」という説も注目されています。

■一番手柄は誰のもの
今川義元に一番槍をつけたのは、服部小平太一忠という足軽。
小平太は槍をつけ、毛利新介秀高が討ち取ったといいます。しかし、信長がこの戦で一番の手柄としたのは、「今川義元休息中」という情報をもたらしてきた梁田政綱という男でした。

信長は武功だけではなく、あらゆる角度から戦功を評価したのです。これは当時としては特に意外なことでした。「情報がなくては戦に勝てぬ。従って、勝利の要となる情報を伝える事こそ一番の手柄なのである」という考え方だったわけです。

なお、桶狭間後、今川軍の先鋒隊だった松平元康は独立への道を進みます。
1562年には清洲城にて、「東は家康、西は信長が攻め、天下をとる」と約し、
以後、信長横死まで続く強固な同盟関係が築かれました。


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→の記事にも書きましたが、この
川軍の先鋒隊は松平元康でした。
有名な話ですが、この人がのちの徳
川家康です。
松平家は、当時は弱小勢力だったた
め、元康は、幼い頃から今川家に
人質として入っていたのです。元康
の「元」の字は元服の時に今川義元
に一字を拝領したというわけです。

戦後、義元の死を知った元康は、家
臣に松平家の本拠だった岡崎城に入
城するように勧められ、今川軍が岡
崎城を捨てて、今川家の本拠・駿府
城に撤退するのを見届けてから、「
主が捨てた城ならば拾っても構わ
ぬな」と言って、ついに悲願の故郷
への帰還を果たします。

その後、信長と同盟したことは→に
記したとおりです。





◆ 火急をあずきで伝える!信長の妹・市  

織田信長には妹がいました。戦国屈指の美女と言われているお市の方です。

彼女は、信長の命令で近江(滋賀県)の浅井長政と政略結婚します。政略結婚ではありました
が、夫婦仲はよく、一男三女をもうけました。
しかし、そんななか夫・長政が市の兄である信長と敵対することになってしまいます。信長
が、浅井家と仲の良い朝倉家に攻め入ろうとしたのです。祖父の代に朝倉家に借りがある浅井
長政は、朝倉家を裏切るわけにもいかず、信長と敵対するハメになってしまったのです。

■朝倉攻め中に届いた無言の知らせ
信長が朝倉家を攻めるには浅井家の領土を通る必要がありました。当然、信長が朝倉を攻め
ている間は、浅井家と朝倉家にはさまれる格好になります。

しかし、信長は浅井長政が裏切るとは思っていませんでしたので、朝倉家を攻めていたのです。
そんな朝倉攻め中の信長のもとに、一人の使者がやってきました。両端を紐でしばったあずき
が、浅井長政に嫁いでいたお市の方から、陣中見舞として届いたのです。信長はこれを見て
即座に「退却じゃ。長政が裏切った。このままでは挟み撃ちにあう。」と言い、退却を始めました。
両端をしばってあるということは、「袋のネズミ」であることを示しているというのです
結局、信長は、羽柴秀吉に殿軍を命じ、無事に退却することができました。妹・市のわずかな機
転により、一命を得たのです。

しかし、両端が結ばれているってだけで、長政が裏切ったことを考えつく、というのもすごいです
ね。
ですが、殿軍を命じられた羽柴秀吉。それはそれは大変な退却劇だったようです。そもそも挟
み撃ちにあいそうな場面ですから。命じられた時は正直「お、俺かよ…」という気持ちだった
ことでしょう。

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■信長の小説<PR>



◆ ドクロを酒の肴に

織田信長は魔王などと呼ばれ、残虐な性格であったとしばしば言われています。
近江の浅井長政を破った時にも、残虐ぶりを発揮しました。

■楽しい酒宴が一瞬で悪魔の酒宴に
天正元年(1573)、信長は宿敵浅井長政と朝倉義景を討ちました。
翌年の正月には、その戦勝祝いもかねて酒宴を催していました

この時、信長は、
「今日は無礼講じゃ、みな存分に飲め!騒げ!」
と言い、ことのほか上機嫌で、家臣たちに大いに騒がせました。
家臣たちも、信長の好意に甘えて、飲めや歌えの大騒ぎでした。

しばらくして、信長は
「よし、おまえたちにわしから一つ酒の肴を用意して進ぜよう。」
と言いました。家臣たちは既に酔っ払って大騒ぎでしたので、
「はて、なんでござりましょう?楽しみですなぁ。」
と、興味深々でした。信長は、
「おい、あれを持て。」
と近くの小姓に命じました。

しばらくして、小姓が持ってきたのはなんと人間の骸骨でした。
これには酔っ払って騒いでいた家臣たちも、みな閉口してしまいました。

信長はみんなが唖然とした顔をしているのを見て、くっくっと笑い、
「わははは!よい酒の肴になったであろうが。
これらは、浅井親子と朝倉義景のしゃれこうべで造ったもの。なかなかの風流ではない
か!
と一人楽しそうでした。
しかし、家臣たちは怪訝な顔をしていました。
それを見て信長はまたしても大笑いして、
「わっはっはっは!せっかく酒の肴を用意してやったんじゃ、うぬら、もっと楽しそうに飲まぬか。」

信長は、こういう残虐なこともする男でした。
それゆえに、人から魔王とも呼ばれましたが、自分でもそれを認識しており、
「第六天魔王」と自らを称していたといいます。

敵に対してはどうにも容赦ないようで…。

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国盗り物語〈第3巻〉織田信長〈前編〉
国盗り物語〈第4巻〉織田信長〈後編〉
手軽に読めるのは2冊だけの『国盗り物語』。「斎藤道三に見込まれた織田信長と明智光秀」という形で物語が展開します。

『国盗り物語』自体は、1,2巻が「道三編」、3,4巻が「信長編」です。信長のみ好きな方も合わせて読むことをオススメします。↓
国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉
国盗り物語〈2〉斎藤道三〈後編〉

映像作品もあります。大河は総集編。BOXの方はテレ東版なんですが…どうだかな〜という感じ。↓
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◆ 信長の味覚はどんなもの?  信長公のお好みの味付けは…?

織田信長は、濃い口の料理が好きだったようです。そのことを示すエピソードがあります。

■天下の料理人がつくった料理を食べて激怒!
ある日、信長は、スゴ腕の料理人の話を聞きました。その名も坪内。もとは三好家に仕えていまし
たが、信長に招聘され、これに仕えることになります。
信長は早速坪内に、「うまいものをつくってみろ」と命じました。
命を受けた坪内は腕にヨリをかけて料理をしました。しかし、信長はそれを一口食べた途端、激怒
して、「こんなもん食えるか!この阿呆な料理人を斬れ!」と言い出しました。

そこで、坪内はピンとひらめき、「もう一度つくらせてください。それがお口にあわなければ切腹し
ます。」と言いました。信長は、「よし、もう一度だけだぞ」とこれを許します。

■信長は田舎者なのか?
翌日、坪内は次の料理をつくってきました。そして、それを信長が食べると…
「これはうまい!はじめからこういうのをつくればいいんじゃ」と大満足。

坪内は後で、「信長様は田舎者じゃ。最初に出した料理は薄味で、京でも最高級といえるも
のだった。後に出したのは、味付けも濃く、田舎の食材をつかったものだ。あんな田舎料理
ではつくる甲斐がない。」と不満を漏らしたと言います。

…いや〜…本人の前では口が裂けても言えないですね。

でも、まあ、食べなれたものが一番おいしいってことはありますよね。自分も旅館なんかに行っ
て、食べなれない高級料理が出てくると、ご飯と納豆の方がいいなあ、なんて思ったこともあり
ますしね。
信長は自分に正直だったといったところでしょう。

…坪内サンが信長を前にして田舎者!って言ってたら、秀吉とかがこういう風にフォローするんだ
ろうなぁ…。そんで「サル!出過ぎじゃぁ〜…」「ひえ〜…ごもっともぉ〜」な〜んて。

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◆ 軍団を活かせ!織田家の進撃法  重要なのは部下の使い方

織田信長は天下布武を目指し、数々の戦で勝利を収めてきたわけですが、
彼自身は決して戦巧者だったわけではありません。

織田家には優秀な武将が数多くおり、
これらを効率よく配置し、運用したのが信長であり、
戦については各方面軍の軍団長のほうが達者だったのです。

■軍団長に任せて多方面展開
たとえば、柴田勝家などは、北陸戦線を任され、越中まで進軍しました。
その後、越後の上杉家にてこずり、進撃は止まってしまいましたが、
ここまでの進軍は評価されるでしょう。

また、中国地方には羽柴秀吉です。秀吉は、力攻めは好まず、
兵糧攻め、水攻めを用いて城を落とし、やはり進軍を重ねました。
明智光秀なども丹波の波多野兄弟対策にあてられています。
四国は信長の三男・神戸信孝、武田攻めに嫡男・信忠、
その後の関東対策には滝川一益と、方面軍の軍団長を決めて、戦わせています。

もちろん、重要な戦いには信長自ら出陣しましたが、
このように方面軍を家臣に任せることにより、効率よく天下布武を進めていったのです。


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◆ これで無敵!信長、鉄鋼船を造る!  失敗を元に打開策を実行

織田信長は摂津大坂の石山本願寺との抗争が激化し、これを討滅すべく、大坂を攻めていまし
た。しかし、石山本願寺は、なかなか落ちませんでした。

■本願寺を助ける毛利を討て!
攻めても攻めても一向に落ちない、疲弊しない本願寺に信長はかなり苛立っていました。
「これほど攻めて、何ゆえあれは落ちぬのだ!その因を探れ!
探ってみたら原因がわかりました。中国地方の雄・毛利家が、後ろで食料を援助したり、兵器
の補充をしたりしていたのです。「そのうえ、毛利はかの地の立地を巧みに利用して、水軍を使
って海路にて物資輸送をしております。本願寺めが、ねをあげぬは、物資に一切困らぬからで
ありましょう。」

これを聞いた信長は、「ならばまず、毛利のヤツらめを討たねばならぬな…。直ちに水軍を編成致
せ!」と、水軍を送りこみました。そして、両軍は摂津の木津川口で激突します

■日本初?の鉄鋼船で火矢をものともせず
ところが、結果は織田家の惨敗でした。
毛利軍は海戦に慣れており、火矢を連続で使用して、織田家の舟を焼き払ってしまったのです。
自家の惨敗の報を聞いた信長は激怒しました。
「おのれ!毛利め…!火矢により船に火がついたと言うたな!されば、燃えない舟を造れい!船
に鉄を貼り付けよ!毛利め!目にもの見せてくれん!この信長、ただ負けはせぬぞ!」

信長は、鉄鋼船の建造を、志摩水軍の頭領九鬼嘉隆に命じました周囲に鉄板を張り巡ら
させ、さらに南蛮渡来の大筒なる巨大火砲兵器を搭載したいわゆる「鉄鋼船」を造らせたの
です。

リベンジと言わんばかりに再び木津川口に現れた織田水軍は、今度は毛利軍の火矢をものとも
せず、大筒による攻撃で、毛利水軍を蹴散らしたのです。

この「鉄鋼船」も織田信長の発想力の高さを示す一因ですね。


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◆ 黒人の肌の色の違いに疑問をもった信長  初めて違う人種を見たあの人の反応は?

黒人が日本に来たのは、戦国時代が初めてのようです。思えば、中国周辺以外の外国人が
日本に来たのも、1543年鉄砲伝来の時ですから、まあ当然といえば当然でしょうか。
ところで、信長にとって初めて見る黒人はどう考えても、その肌の色が納得できなかった
みたいです。

■黒人の肌を洗って白くしようとした
天正九年(1581)、宣教師バリニャーノは、京都に訪れ、布教をはじめました。
当時の京都はほぼ織田信長の支配化で、信長は、キリスト教を保護していたので、布教も自由
でした。南蛮寺(いわゆる教会)も建てられていましたので、その保護ぶりは大層なものです。

バリニャーノは、黒人を連れて布教活動をしていました。すると京都の民衆はキリスト教よりも
黒人に興味深々で集まってきました。その噂を聞いた信長は、さっそくこの黒人を自分のもと
に呼びました

信長は「同じ人間なのに、おぬしはなぜそんなに黒いのか、墨を塗っているのであろう。」
言って、黒人の体を水で洗いだしました。でも、黒人はそういう肌の色ですので、当然白くなんて
なりません。いくら洗っても白くならないのを理解した信長は、「肌そのものが黒い」ことに納得し
ました。そして、この黒人を気に入り、譲り受け、ヤスケと名づけて、側に仕えさせたといいます。

このヤスケ、一説では本能寺の変の時にも一緒にいましたが、その後の行方は知れないそうで
す。

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◆ 信長の優しい手紙  第六天魔王・信長の意外な一面

織田信長は、一般に冷血で残酷な人間として印象を持っている人もいるでしょう。しかし、そんな
信長にも優しい一面はありました。

■おせじみたいな手紙
ある日、信長の部下・羽柴秀吉が、さかんに浮気をするということで、信長が秀吉の正妻・おねに
手紙を出しました。当時から、江戸時代と同じように側室を持つ人は持つ時代でしたが、嫉妬
深いおねには側室は許せなかったのでしょう。信長は、おねに書状を書き励まそうとしました。

信長の手紙には
「そなたほどの美人は、どこを見てもあのはげねずみ(秀吉のこと)には娶ることはできないのだ
から、秀吉が、そなたのことをとやかく言うなどはとんでもないことだ。そなたも、これからは秀吉
の浮気ごときで嫉妬したりしないで、どっしりかまえておればよい。」
などと書いたのです。
つまり、「秀吉の阿呆は浮気ばかりで、しょうのないヤツだ。気にしないでおれ。」ということ
です。

普段、比叡山の焼討や、浅井・朝倉の髑髏の杯など、残酷な面の目立つ信長ですが、こんな優し
い一面が現れた手紙も存在するのですね。

…普段怖い人が急に優しくなると、裏がありそうで怖いですね…。

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◆ 正徳寺の会見で信長の才を見た道三

信長の妻・帰牒(濃姫)は斎藤道三の娘ですから、道三は、信長の舅にあたります。その道三も
はじめは信長をあなどっていました。

■信長の才を見抜いた道三
もともと斎藤道三は、油売りの商人で、美濃国の時の守護・土岐氏に取り入って、国を乗っ取った
とされています。そういう下剋上を遂げ、「蝮」の異名をとる道三は、うつけと評判の娘婿を一度見
ておこうと考え、濃尾国境の正徳寺で信長に会うことにしました。

会見前、道三は信長の通り道の脇の民家に潜んでいました。うつけうつけ、と評判でしたが、もの
ものしい軍勢がまるで戦に行くかのように武装して行軍していきます。少し、「うつけとは噂に過
ぎぬのか」と思った道三でしたが、やがて見えてきた信長のいでたちに半ばあきれ返ってしまい
ました。信長は、いつも通り、着物を半身はだけ、腰に瓢箪をぶらさげて馬に跨っているので
す。「会見一つにあの軍勢、あの武装にはいささか目が覚める思いもしたが、うつけ殿は、やはり
うつけよ。わざわざ会見などすることはなかったかもしれんな…。」

会見場でも、道三は「あのうつけに会うに正装する必要もあるまい。平服でよい。うつけ殿が参ら
れたら、ちと待たせておけ。」と言って、信長の到着を聞いてからもすぐには会見の間に行きませ
んでした。しかし…!

「失敬、失敬。これはお待たせ致した…。」と言いつつ、道三が会見の間に入り、信長を見ると、そ
こにはきっちり正装をした信長の姿がありました。「せ、正装!」道三は驚きました。その一方
で、信長はすまし顔。道三側近の堀田道空が、「山城(道三)殿でござる」と促して、「で、あるか」
と、ようよう信長も挨拶し、会見になりました。

会見が終了し、道三は信長に対する見方を改めました。家臣が、「やはり、正装してもうつけはう
つけでございましたか」と聞くと、道三は「いやいや、なかなかどうして閃きのある男よ。あの
男、尾張のような小国にとどまる器ではあるまい…。」と言ったといいます。
のち、道三は信長に宛てて美濃一国の譲り状まで書いたそうです。

のち、道三は息子の義龍の疑心暗鬼から長良川で討たれてしまいます。この後、信長は長きに
渡る美濃攻めを敢行し、数年かかって漸く成し遂げるのです。美濃を掌握した信長は、このころか
「天下布武」の印を使用して、天下統一への意思をはっきりあらわしたのです。


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◆ 肥満が祟った今川義元

桶狭間の合戦で織田信長に討たれた今川義元。偏食と運動不足で極度の肥満だったそうです。

■今川義元の戦略
今川義元は貴族に憧れていて、妙に貴族かぶれっぽい描かれ方をすることが多いですが、戦国
大名としては、かなりの戦略家でもあります。
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と同盟(甲相駿三国同盟)して、不可侵状態をつくり、後
顧の憂いを失くすと共に、領内では度々検地を実施。その支配体制の確立を目指しています。
さらに名主層の寄親・寄子制の実施や、分国法「今川仮名目録」」に追加の21ヶ条を制定
するなど、戦国大名としての領国支配のウデは確かだったと思われます。

■肥満で馬にも乗れない男
でも、義元はその貴族趣味のせいか、かなり肥満だったそうです。偏食に加えて運動不足も
あって、重量オーバーで馬にも乗れないほどだったそうです。それゆえに、桶狭間の合戦につ
ながる一般的に言う「上洛軍」の出陣の際、輿に乗って出陣したとか。しかも、奇襲を受けた
際にもあまりにも体が重くて、ろくに抵抗も出来ないまま討ち取られてしまったといいます。

乗馬できないほど重いなんてね。いったい何を喰ってたんでしょうね。他に九州の大名・龍造寺
隆信なども重すぎて馬に乗れなかったそうです。それで輿に乗ってましたが、敵に攻められた時
に重すぎて、家臣に置いていかれて討たれたそうです。

そんなところにも敵がいるんだな。戦国大名の諸君は。


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