合戦名 |
年代 |
簡単解説 |
吉良大浜攻撃 |
天文16年(1547) |
信長の初陣。あまり知られていないが、記念すべき初陣なので載せてみた。対今川氏の戦
いで、後見役として、平手政秀がついていたという。 |
稲生原の合戦 |
弘治2年(1556)
8月24日 |
父・信秀の死後、うつけと呼ばれていた信長が家督を継ぐことに危機感を覚えた柴田勝家、
林秀貞らの一部の重臣は、信長の弟・勘十郎信勝を支持。やがて、信長に対して兵を挙
げるに至った。この合戦は、その謀叛軍を討伐した戦い。信長軍は初め、兵力で劣り、一時
退却する場面などがあったが、態勢を立て直して信勝方の軍勢を打ち破った。 |
桶狭間の合戦 |
永禄3年(1560)
5月19日 |
言わずと知れた、対今川義元の著名な戦い。従来、寡兵の信長軍が義元の陣を奇襲し
た合戦とされていたが、最近は異説が支持されている。
従来の説では、信長は、籠城を唱える家臣たちの言葉を入れず、義元の居所をつきとめる
と、直ちに出陣。熱田神宮で戦勝祈願し、追いついてきた家臣たちと共に、田楽狭間で隊列
を長くして休息中の今川軍を側面急襲し、義元の首を討ち取った。兵力差は2万以上であっ
たというが、異説では、奇襲攻撃ではなかったとされている。 |
稲葉山城攻略
戦 |
永禄10年(1567)
9月 |
稲葉山城は斎藤家の居城。
信長は1560年の桶狭間の合戦の直後から、美濃攻略を視野に入れて度々攻撃軍を繰り
出したが、そのたびに失敗してしまっていた。しかし、美濃では1561年に斎藤義龍が死亡
し、その跡を継いだ龍興は、部下からの信頼に薄かった。永禄10年8月、西美濃三人衆と言
われた斎藤家の重臣を内通させると、信長はただちに稲葉山城を包囲した。龍興は降伏
し、伊勢長島に落ちた。 |
上洛戦 |
永禄11年(1568)
9月 |
信長はこの年、将軍家の足利義昭を奉じて、上洛戦を展開する。信長の勢力範囲はまだ
美濃(岐阜県)までであったが、近江(滋賀県)の大名や豪族に話し合いを持ちかけ、はじめ
は平和裡に上洛を進めようと思っていたらしい。
ところが、近江観音寺城の六角承禎は、これに反発。信長は家康の援軍を入れた6万余
の大軍で六角氏の攻撃に取り掛かる。六角承禎は麾下の箕作城と居城の観音寺城を囲ま
れ、箕作城が怒涛の勢いで攻められると、ほとんど戦わずに伊賀に逃亡。
信長はあっさりと上洛を果たし、足利義昭を岐阜から招いて、京の治安回復につとめた。 |
姉川の合戦 |
元亀元年(1570)
6月28日 |
近江の浅井長政を妹婿として同盟関係を結び、この年の4月、順調に越前(福井県)の朝
倉義景を攻めていた信長であったが、思わぬ事態に遭遇。なんと浅井長政が裏切ったとい
うのである。信長はただちに撤退するが、この撤退戦で狙撃され、命からがら京に逃げ戻
った。(金ヶ崎の退き口)
激怒した信長は、すぐさま岐阜城に戻り、浅井・朝倉連合軍の討伐を宣言。徳川家康の援軍
もあわせて3万人近い軍勢で近江に出陣した。これに対し、浅井・朝倉軍も2万近くの軍勢で
これを迎え撃つべく、出陣。江北の姉川を挟んで対峙し、激戦が繰り広げられた。
合戦では、徳川軍による朝倉軍の切り崩しを契機に、浅井軍も崩れ、織田・徳川連合軍の勝
利。 |
伊勢長島一向一揆征伐 |
天正二年(1574)
7月〜9月 |
伊勢長島の一向一揆には、多年悩まされていた信長だが、さらに勢いづく一向宗徒に対し、
ついに本格的に武力行使を敢行する。海に近い長島にある諸砦を陸路からも海路からも
包囲し、補給をさせないようにして攻撃した。一揆勢は、諸砦に立て籠もって3ヶ月の間、
頑強に抵抗したが、補給がない中で餓死者が相次ぎ、さらに大鉄砲による砲撃も受け、つい
に降伏した。しかし、残りの砦は焼き討ちされ、2万人の人々が焼き殺された。 |
石山合戦終結 |
天正8年(1580)
8月 |
石山合戦は、要するに、信長に徹底的に抗った一向宗・石山本願寺との抗争を指すもので、一向宗と信長の争いが激化した、最初の伊勢長島一向一揆攻撃(1567年)の時から考えると、実に10年以上の長きにわたって繰り広げられてきた戦いであった。
本願寺は、この間、信長に追放された足利義昭の信長包囲網に加担し、武田信玄や上杉謙信と共に、信長を苦しめている。1576年の石山本願寺包囲戦では、織田勢は不利に立たされ、信長自ら足軽らと共に、門徒勢と交戦し、鉄砲傷を受けながらも首2700を挙げたという。
1580年は、信長と石山本願寺との和睦が成立した年。石山本願寺はこれまで、法主の顕如の指揮のもと、各地の大名たちと連携して信長を苦しめてきたが、信長はそれらの大名も確固撃破するなどして、本願寺側としても成す術がなくなっていた。信長はこの様子を見て、朝廷を通じての和議申し入れを試みた。これまでも、何度か信長と本願寺の和議は成っていたが、それは一時的なもので、顕如は度々離反した。しかし、今回の和議は、顕如の石山退去を条件とし、顕如もこれをのんだ。しかし、顕如の子・教如は、和議に反対し、顕如退去後も石山本願寺に籠城。信長は、誓書を送っての懐柔策をとり、やがて教如も退去。ここに長きに渡った信長の本願寺平定戦は終わりを告げたのである。 |